10年前 井山鉄斎
「――爺、このお金で桜を咲かすことできる?」
黒銀家別邸の庭で、七歳の千緋色が言った。手には五百円を握り、自分よりも遥かに大きな鉄斎を見上げている。
「今すぐにかの?」
今は真夏の八月だ。桜など咲くはずもない。
鉄斎は「さすがの爺でも無理ぢゃ。花には咲く季節というのがございましてな」と言って首を振る。
「どうにかして咲かせたいんじゃ。もうあと五百円あればなんとかなる?」
「おひい様、確かにお金というものは使うも者の欲望を叶えてくれるものではありますが……これは金額の問題ではございませぬ。自然の摂理に逆らって花を咲かせる事など無理なのぢゃ」
「……そっか……」
いつもの様に無理難題の押し問答でもしにきたのかと思って軽くあしらったつもりが、千緋色の顔は真面目だった。しゅんとして俯きとぼとぼと歩く後ろ姿に、鉄斎はつい口を開いた。
「……絶対に、かどうかはわかりません……調べてみましょう」
「本当か!? その方法を今すぐ探してきておくれ!」
ぱぁっと明るくなる千緋色の顔を見ていると複雑だった。悲しませまいとして言ってはみたものの、真夏に桜の花を咲かせる方法など聞いたことがない。
さて、どうしたら納得してもらえるか……。
千緋色に「少しお待ちくだされ」と言って外へ出る。何か方法が無いかを考えながら、近くの本屋へ入った。
いくつか花の図鑑や園芸本を見ても真夏に桜を咲かせるやり方など書いてない。店員に聞いてもそんな内容の本は聞いた事などないという。
――千草様なら知っておられるだろうか。
千緋色の母、千草は花木に詳しい。黒銀家の植物は全て彼女が植えた物だ。もしかしたら方法を知っているかもしれない。
だが彼女は、千緋色の居る別邸とは別の黒銀総本家にいる。今から向かうわけにもいかないし、かといってこれしきの事で電話するのも怒られてしまいそうで気が引けた。
途方に暮れた鉄斎は、仕方なく一冊の絵本を手にとると会計を済ませ、千緋色の待っている家へと戻った。
門をくぐると奥の間から子供の大声が聞こえてくる。何事かと思って中を覗くと、大人に混じって千緋色と一緒に数人の子供がいた。千緋色から見れば叔父や叔母、そして従兄弟に当たる者たちだ。
大人たちは鉄斎の顔を見るやいなや静かに立ち上がると子供たちの手を引いて足早に部屋を出て行く。
「嘘つき」
帰り際、子供の一人が放言した。
一人取り残された千緋色は、今にも泣き出しそうで、なんとも言い難い悔しそうな眼をしている。
「おひい様、どうされたのぢゃ」
鉄斎の問いかけに答えず、千緋色は無言で扉へと歩みを進めると「……爺、桜のことはもういいから」と言って、そのまま部屋を出て行ってしまった。
その後、庭で水やりをしていたところへ侍衛衆のヤスが前を通った。どうやら先程の叔父たちを見送ったところのようだ。
「のぉヤス、さっきのは千草様のご兄弟様たちであろう? 最近よくお見えになるが……何をしに来なさったんぢゃ?」
「鉄斎さん……言おうか迷っていた事があるんですが……」
浮かない顔をしたヤスがあたりを確認する素振りをしながら鉄斎に耳打ちする。なんでも千緋色がこの真夏に桜が咲くと言ったものだから叔父たちはそれを確かめに来たという。
「今回だけではないようなんです。自分もいくつかお願いされた事がありまして」
聞けば千緋色は、半年も前からヤスにお金を渡してはあれこれお願いをしていたらしい。時には《飴を庭に降らせてくれ》、時には《昼間に花火を打ち上げてくれ》……。
「最初はおひいさんのお小遣いでなんとかなる程度のお願いでしたから特に何も考えずに聞いていたんですが、どんどんエスカレートしてきましてね、ついに昨日は桜を咲かせてほしいと……」
「なんぢゃと?」
あの無茶なお願いは自分だけに言ったのではなかったのか。
「自分も最初はおひいさんが何をやっているのかさっぱりわからなかったんですがね……さっきの叔父さんたちの話しからすると、どうもおひいさんが千里眼を持っているというので確認しにきているみたいなんですよ」
「千里眼!? 確かにおひい様は次期当主様であるが、千里眼は初代当主様がお持ちになられたという伝説上の眼じゃ……まさか、叔父たちは常人とは違う眼をしたおひい様を見て勝手に勘違いなされているのか」
千緋色は生まれながらにしていくつかの遺伝子に異常を持っていた。汗がかけず、色素が薄くて肌が弱い。朱い眼と真っ白な髪の毛は、父親が誰か解らないという事情と相まって親戚からも忌み嫌われている。それがここ最近、急に会いに来る回数が増えていた。
何かおかしいとは思っていたが、そういった理由か。
「いや、それがどうもおひいさん自身が千里眼を持っていると言いまわっているらしいんです。わざわざ見に来てやったという言い方をしていたので間違いなさそうですよ」
鉄斎は腕を組んで頭を悩ませた。
公にはしてはいないが、実を言えば黒銀家に伝わる伝説の千里眼は存在する。しかしそれは、歴代当主だけが知っていること。
千草様のご兄弟とはいえ、千緋色のような子供の言うことを真に受けるなど……もしや、既に存在がバレてしまっているのだろうか。
――その日の夜。
千緋色は自身の部屋で、鉄斎の買ってきた絵本を読んでいる。鉄斎はベッドの横にあるテーブルで紅茶を用意しながら口を開いた。
「おひい様、爺が淹れているものが何かわかりますかな?」
「……紅茶であろう」
「当たりですぢゃ」
鉄斎はテーブルの上にポットを戻し、続けて砂糖入れの蓋を開けて聞いた。
「二つのカップがございます。爺はそれぞれのカップにいくつの角砂糖を入れるか、おわかりになりますかな?」
ふぅ、と息を吐いて本を閉じると、千緋色は気怠そうに答える。
「爺は一つ、わらわは二つじゃ。どうしたんじゃ、急にそんな事を……」
鉄斎は千緋色の言うとおりの角砂糖をカップに入れると「おみごとです」とわざと声にめりはりを付けて言った。
「おひい様は嘘つきなどではございません。それは爺が一番良く知っております」
千緋色の表情が曇る。やはり何か隠しているのだろう。
鉄斎はできるだけ優しい口調で「……何か訳があるのぢゃろうが、初代様の持っていた千里眼は伝説上のお話です」と言う。
「滅多なことを外にふれ回るようなことは、あまりせんほうが……」
言葉の途中、恐ろしいスピードで鉄斎の目の前を絵本が横切った。
「おぬしにわらわの何がわかる! 母上の何がわかるというのじゃ! 何も知らないくせに知った風な口を利くな!」
突然、千緋色の怒りが爆発した。
賢く利口で、どちらかといえば物静かな子供だったはず。千緋色が産まれた時から知っている鉄斎にとっても、感情を剥き出しで怒る千緋色を見るのは初めてだった。
同時に、胸が痛んだ。眼を真赤にして涙を流し、烈火のごとく叫んでいる姿は見たことがない。一体何がどうしたというのか。
「わらわのせいで母上が苦しんでおるんじゃ、悪魔だ呪いだと言われて、それでも知らん顔してのうのうと生きろと言うのか!」
怒りに任せて叫ぶ千緋色の言葉は半分も聞き取れなかったものの、どうやら父親の顔の知らない子供を産んだ母が、周りの大人たちに莫迦にされるのがたまらなく嫌だという内容の事だった。
「おまけにわらわはこの有様じゃ。呪われた子と言われてどうやって違うと言えるんじゃ……。こうなったらもう、呪いを利用してやるしかないと思ったんじゃ……」
この家の伝説に準えて千里眼を持っていると信じこませることが出来たなら、周りの人間は自分と母を無下に出来なくなる。自分の言う事を無視出来なくなる。母を莫迦にすれば不幸な死に方をするぞと言ってやれば、きっと誰も母をいじめなくなる。
見た目が普通ではない自分であればこそ、信じさせるのに好都合だと思ったのだという。
「爺……わらわは間違っておるのか。大切な人を守るためについた嘘でも、それでも嘘は悪いことなのか」
鉄斎は熱が上がってしまってふらつく千緋色を抱きしめると、そっとベッドの上に寝かせた。
「おひいさま――」
この時、心は決まっていた。
千草様から話しを聞いていたところだ。回路がもうパンク寸前なのだと。千緋色は次期当主……いずれは知られてしまうものだ。
――ならば今、この子に未来を託そう。
「嘘をつくことが全て悪いことかどうかというのは難しい問題ぢゃ。爺にもわかりませぬ……しかし――」
火照った顔でうつろな眼をした千緋色が苦しそうに呼吸を早めている。扇風機をつけようとして立ち上がる鉄斎を、千緋色は腕を掴んで引き止める。
「しかし、なんじゃ」
「……しかし、おひい様は嘘を申しませぬ。予見は現実となりますでしょう」
千緋色はベッドで横になったまま、難しい顔で鉄斎を見つめている。
「ほんの少し、爺に時間をくだされ」
「……桜は咲かなかったぞ。次はもう……」
「大丈夫ぢゃ」
「……約束、じゃぞ」
眉間にシワを寄せ、流れ出る涙を拭いながら千緋色が手を挙げる。鉄斎は、まだ幼くて小さな震える指に、自身の小指を重ねて言った。
「ああ、約束ぢゃ」
部屋を後にすると、鉄斎はすぐさま千草へ連絡を取って千里眼を千緋色に持たせる事の了解を得た。
後日、真夏にもかかわらず桜の花が満開に咲いたのを眼にした千緋色の笑顔は鉄斎にとって忘れられないものになる。
「爺! 本当に咲いた! 咲いたぞ!」
「もちろんですぢゃ、おひいさまの千里眼に間違いはございません」
「これで母上も幸せになれるな――」