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現在 黒銀千緋色

 「おひいちゃん……それ、何?」

 いつもと違って大きな荷物を持った千緋色の姿に、鉄斎は怪訝な顔をして言った。

 「ん? これか、バケツとスコップじゃ。どうも授業で使うらしくてな」

 ふーんと言って見送る鉄斎のもとを足早に離れると、いつもの公園にやって来た。

 千緋色はたたみ一畳分程の花壇の前に立つと、荷物を下ろしてバケツに隠し持っていた花の苗を取り出しほくそ笑む。

 「もう少し暗くなったら始めるか」

 時刻はまだ十七時過ぎたところだ。人の姿もちらほら見かける。早く暗くなれと心のなかで念じながらジャングルジムのてっぺんに登って日傘をさすと本を開いた。

 公園に来る日が続いたある日のこと、寂しい花壇を見て、ここに花を植えようと思いついた。どうせ鉄斎の目を誤魔化すために暇を持て余していたところだし、殺風景なこの公園の見栄えが良くなれば毎日来るのも楽しくなるというもの。

 それで、植える花は何にしよう? 以前、家に埋まっていたヒメイチゲはどうか? いや、あれは祐陽が言うにはこのへんでは珍しいと言っていた。咲くかどうか分からないものを運に頼って育てるのは好きではないし……そうだ、百花の王を植えよう。一度見てみたいとずっと思っていたところだ。

 そう決めるやいなや、持ち前の行動力で園芸店から苗や道具を揃えた。次の日には実行の準備が整って、いつか夢見た百花の王がもうすぐ目の前に現れると思うと心が踊った。

 時が経つのを長く感じる。西に傾いた太陽が段々と地面に吸い込まれて空が暗くなと、ようやく公園内の人がいなくなった。柱の上に設置された時計は十八時を指していた。

 ――頃合いか。

 千緋色は髪を縛って麦藁帽子をかぶり、軍手はめるとサンダルを脱いで長靴に履き替える。太陽はもうとっくに沈んでいるのだから帽子なんて必要ないはずだが、気分をそれっぽくするためにわざわざ購入したものだ。被らない訳にはいかない。

 さっそくカバンから取り出したスコップを握りしめて花壇を耕そうとするものの、しばらく使われていなかったであろう土は想像以上に固くなっていてなかなか刃が立たない。

 「悲しい誤算じゃ。まさかこんなに土が硬いものとは」

 それでもなお頑張って全体の一%ほどを耕したところで身体に熱を感じた。顔を触ると少し熱い。夢中になりすぎて少々熱が上がってしまっている。少し休まなければ身体が持たない。

 千緋色はカバンから小さな香水入れを取り出してベンチに腰掛けると、顔に向かって二度三度吹きつける。途端、いい香りのする冷たい霧が千緋色の顔を優しく包んだ。

 香水入れの中身は千緋色が作った自家製の《汗》だ。とはいっても本物の汗ではなく精製水に薄荷を溶かしただけの水である。汗をかく事が出来ない分、外から水をやって冷まそうと思いついたのだ。

 「気休めじゃな……無いよりはマシではあるが」

 薄荷がほどよくひんやりと感じて気持ち良かったものの、体内から出る汗とは違う。そう簡単に熱が下がる訳ではない。

 鉄斎は、血管が沢山集まっている脇や足の付根などに吹きかけると早く熱を奪ってくれるとか言っていたが、外でそんな恥ずかしい事が出来るはずも無い。効果は薄くても見栄え重視で顔や首だけへの使用で我慢した。

 じっと座っていると、頬を撫でる夜風が気持ち良かった。千緋色は月を見ながら虫たちの声に耳を傾けた。

 黒銀の家がなくなって自由の身にはなったものの、それは総也の目から逃れられたというだけの狭い意味での自由だ。やらないといけない事はうんざりするほどある。いや、むしろ自由になったからこそやることは多い。

 「たとえ身体が自由になっても、家が無くなっても呪いは消えぬか」

 いずれ総也を見つけ出してロザリオを取り返さなければならない。放っておけばリラックスショックなど比にならない程の大惨事が起こる。しかし、黒銀家がなくなった今、総也がどこで何しているのかまったくわからなかった。

 母上が開けた分の回路は切り離した。直系ではない総也に残りの回路は開けない。あの日のあの予見以降、ロザリオを持っていたとしても総也に千里眼は使えないはずだ。

 ――言霊仕組に気付いてなければ良いのじゃが。

 気分転換に水を飲もうと立ち上がると、水飲み場の先に人影が見えた。背の高いシルエットから、まさか鉄斎が探しに来たのではと一瞬身構えたもののよく見れば二人いる。

 朱色の眼で驚かせてしまわないよう帽子のつばで顔を隠しながら歩く。昼間であれば大して気にしないが、夜はどうしても気を使う。驚かれるのもいい気がしないし、ましてや明かりの少ない公園などで悲鳴をあげられると、こっちまで驚いてしまって心臓に悪い。

 水飲み場に到着すると、五、六メートルほど離れたところで声が聞こえた。暗くてはっきりは見えないが、男と女の好い仲が喧嘩したのか、女に向かって男が謝っているように見える。

 なんだ、痴話喧嘩か?

 「お前の事をついでって言ったのは謝るけどよ……あれは言葉の綾で本当についででいいなんて思っていないからな」

 ほうほう、男の方が言うべき言葉を誤ったのじゃな。若い二人にはありがちな話じゃ。

 つい無意識に言葉の心裡を探ろうとしてしまうのは千緋色の癖だった。好きでやっている訳ではない、世界を裏でまとめる黒銀家の当主として必要なことだった。

 「……うん、いいの」

 女の様子からして恐らく泣いているのだろう。声も少々かすれている。

 頑張れよ女、これも青春じゃ。男というのはデリカシーの欠片もない無礼な生き物なんじゃ。こんな事で負けてはならんぞ。

 心の中でエールを送りながら水栓を開けた。千緋色は水を飲もうと身を乗り出す。


 「崎枝くんにとって、千緋色さんが大切な人なんだって……分かったから」

 

 この公園の水飲み場には、自閉式立形水栓という水が上に吹き出すタイプの水栓がついている。この手の水栓で水を飲むためにはちょっとしたコツが必要で、ハンドルを捻って最適な水量に調節したまま垂直方向に飛び上がる水を口でうまくキャッチしなければならない。ハンドルから手を放すと水の出が止まってしまうため、使う側からすれば便利とは言い難い代物だ。

 しかしこの水栓が付いているのには深い理由があった。

 資源を無駄にしない、させないという昨今のエコロジー意識の高まりから、地球のことを考えた心優しい市役所職員の山本何某やまもとなにがし五十四歳が、節水のために既設のものを取り払ってまで付け替えたものだ。

 言ってみればこれは地球と地域住民の共存を追求した一つの象徴なのである。ただの水飲み場ではない。ただの予算消化ではない。

 朝は老人たちが憩い、昼には学校帰りの子どもたちが元気な声が響かせて……そして夕方には恋人たちが愛を語らい合える、そんな素敵な公園になって欲しい。自然と共に、地球を友に――。

 山本が言ったかどうか千緋色に知る由もないが、そんな願いが込められた公園の水飲み場で悲劇は起きた。

 突然耳に飛び込んできた意外な名前が手元を狂わせる。せいぜい胸元の高さまでしかなかった水が怒れ狂ったように天を穿ち、喉を潤すはずの液体は無防備に口を開いた千緋色へと牙を剥く。

 噴水でも作りたかったんじゃないかと疑ってしまうほどの勢いに押されて千緋色がたまらず顔を仰け反らせた。手を放せばよかったのだろうがそんな事を悠長に考えている暇はない。天に昇る龍へと化した水柱は、千緋色の鼻、帽子と次々に標的を変えて襲いかかり、被っていた麦藁帽子を水飛沫と共に天高く舞い上げた。

 「ぶぐぼべあっ!」

 夜の公園に若い女性の悲鳴のような声が響き渡った。

 後ろへひっくり返った拍子に髪が解けた千緋色は、痛む鼻を押さえててうずくまると口や鼻から入った水を押し出すように咳き込んだ。

 運の悪いことに水飲み場の真上には園路灯が点いている。人生で三本の指に入りそうなくらい情けない姿が暗い公園に浮かび上がるようにして照らし出されている。

 まずい、これはまずい。鼻が痛い。頭も痛い。いや違う! そうではない、早くこの場から離れなければこっちへ来てしまう。でも鼻が痛い。ああもう鼻が痛い! 恐ろしい水の勢いだった、もしかしたら鼻血が出ているかもしれない。だがそんなことを確認している暇はない。あやつの性格からして、絶対に、絶対に首を突っ込んでくる。

 「千緋色……?」

 しゃがみこんだ千緋色の眼に男物の靴が映った。

 時すでに遅し。

 千緋色は鼻を押さえたまま観念してゆっくりと視線を上げると、目の前にはどこか見覚えのある男の顔があった。全日制の制服を着ているし、隣には仲吉もいる。さっきの会話からしても間違いないであろう。

 ――崎枝祐陽。

 最悪の展開だ。心の準備が出来ていないからと学校へ行くのを避けていたのに……まさかこんなみっともない姿を見られることになろうとは。

 「お前、千緋色だろ!?」

 二人の様子を見て、祐陽と一緒にいた紅耶が心配そうに近寄ると「やっぱり、祐陽くんの探していた吸血鬼って……」と言った。

 「学校で名前を聞いた時、苗字が違っていたからもしかして人違いじゃないかと思っていたけど……間違いないぜ、鼻から水を飲もうとする世間知らずな千緋色なんて、世界に何人もいてたまるかよ」

 千緋色は「阿呆! 勢い余って水が吹き出しただけじゃ! 誰が鼻から水など飲むか! 象でもあるまいし……」と言って立ち上がる。

 その様子を見た祐陽は「やっぱり千緋色だ」と言って笑みを浮かべる。

 もしも会ってしまったらまずは謝ろうと思っていたのに完全にタイミングを失ってしまった。壊してしまった花屋のことか、実は死んでなんかなく生きていたことを黙っていたことか、それとも同じ学校に通っていることを知っていたにもかかわらず避けていたことか……一体どれから謝ればいいのだろうとずっと考えていた。なのに、それなのに開口一番発した言葉が《阿呆》だなんて我ながらどうかしている。

 何も言えず、鼻を抑えたまま千緋色は目を伏せて祐陽の足元を見ていると「……聞きたいこととか、言いたいことは沢山あるんだけどよ……」と祐陽が言った。

 続けて何かを言おうとした時、携帯電話の呼出音が鳴た。祐陽は面倒くさそうにポケットから取り出すと耳に当てた。

 「……直彦、今ちょうど、」

 「大変だ祐陽!!」

 二メートルは離れた千緋色にも聞こえる大きな声が電話の向こうから聞こえた。あまりの音量に、祐陽は顔をしかめて電話機を耳から遠ざける。

 「いいか祐陽、落ち着いて聞いてくれよ! とんでも無いものを見つけたんだ!」

 「おまえが落ち着けって! 何言っているのか全然わかんねぇ!」

 「僕たちの通う高校の事さ!」

 まったく落ち着く様子なく、千緋色にまでも聞こえる大きな声で直彦は喋り続ける。

 「筆箱事件の犯人探しの流れで登記簿を取ったんだ。そうしたら中二管財ちゅうにかんざいホールディングスという会社が大元で経営していることになっていたんだよ!」

 「それが……どうかしたのかよ」

 「普通、私立の学校と言えば学校法人じゃないか。確かに今は株式会社でも学校は作れるようだけど……普通じゃないと思ったんだ。この辺りのお金持ち私立校を全部買収してしまうなんて一体どんな会社だろうってね。それで会社の登記簿も取ったんだ、そしたら、」

 電話口から聞こえる直彦の言葉に、千緋色が「ああ……バレてしまったか」と呟いて嘆息する。この状況に仲吉は困惑したような表情を浮かべて固まっていた。

 「代表者のところに、千緋色ちゃんの名前が載っているんだ! 黒本千緋色って書いてあるんだよ!」

 「黒本千緋色……?」

 祐陽と眼があって、千緋色は思わず視線を逸らす。

 「黒本はあのお屋敷に書いてあった苗字じゃないか、きっとあの千緋色ちゃんだよ!」

 嬉しそうに絶叫する直彦に、祐陽が「あぁ、千緋色ならちょうど……少し待ってろ」と言って電話口を千緋色に向けると、続けて言った。

 「吸血鬼改め、ゾンビさんから一言お願いします」

 「だ……誰がゾンビじゃああっ!」

 狼男の遠吠えよろしく、千緋色と直彦の叫び声が満月の夜空に吸い込まれていった。


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