4年前 黒銀千緋色
けたたましいサイレンの音が連なって、千緋色の眼の前にパトロールカーが二十台以上の列を作った。
「爺、これは!」
「……そうです、千里眼のちからでございますぢゃ」
ちからなく口を開いた老人の顔は、千緋色の知っているいつもの優しい爺ではなかった。
千緋色は「千里眼……総也へやったあの予見が……」と言うと足が震えて、初めて目の当たりにするちからに全身の血が抜けていく気がした。
「予見の強制力はこんなにも暴力的に働くものなのか!?」
「黒銀家の歴史の授業で爺の申し上げた事を覚えておりますか。おひい様の千里眼に《誤り》はございません。あってはならないのです。予見は絶対なのです。……しかし今、本来は起こりえるはずのない矛盾した予見が同時に起きてしまいました。どちらの予見も実現することは叶わずして、実現するまでこの強制力が衰えることはありませぬ。つまり……永遠に強制力同士が衝突を繰り返すことになってしまいますのぢゃ」
パトロールカーから次々に警察官が降りてくると、覆面集団が占拠している花屋を包囲した。千緋色と鉄斎は「一般人は下がって」と怒鳴られ、パトカーの後ろに引き下がる。
「花屋は……祐陽と直彦は一体どうなってしまう!?」
「地価高騰の予見が地上げ屋を呼び、花屋安寧の予見が警察隊を突き動かしたのぢゃろう――このままではいずれ消し飛んでしまいます」
「消し飛ぶ? まさか、花屋がか!?」
「いいえ、地球がです」
鉄斎の言葉に、千緋色は耳を疑った。たかが花屋を守ろうとして言った一言が地球を滅ぼす? 予見には十分注意を払うようあれほど気をつけていたはずなのに……初めて触れた外の世界に浮き足立った己の責任なのか。
「一体、どうすればいいんじゃ……わらわは……」
「おひい様、どうか冷静に御即断を――こうなっては千里眼を切り離して封印するか、運を天に任せるかしかありませぬ」
「千里眼を捨てるというのか。それでは黒銀も無事では済まないであろうが……しかし、運を天に任すなど狂気の沙汰」
千緋色は首にかけたロザリオを外して手に乗せると、指を載せて表面をなぞった。少し遅れて光の軌跡が描かれていく。
「まずはあの二人をなんとかせねば」
「急いでくだされ、今に戦争が勃発してもおかしくありませぬ」
ロザリオを握り締めて「紲げ」と呟くと、千緋色の言葉に呼応するかのように手のひらから光が溢れ、朱色の瞳がいっそう鮮やかに輝き出す。
手の中から、りん、という短い電子音がして、五分もしないうちに二人を抱えた特殊部隊が花屋を飛び出してくるのが見えた。千緋色は二人が救急車載せられるのを見届けてからもう一度ロザリオを握り直す。
「千里眼を切り離すぞ」
「先代の千草様が七年かけて六パーセントまで開けたものぢゃ。切り離すだけで一体どれだけ時間がかかるか……」
「およそ二百兆円というところか。リラックスの破綻は避けられんじゃろうが、どうせ手を回している暇はないのであろう」
頷く鉄斎の姿を確認することもなく目をつぶって呪文のようなものを唱えると、ロザリオが再び輝き出す。
慌ただしく動きまわる警察隊の後ろで、千緋色と鉄斎の周りを静寂が包み込んだ。まるで嵐の前の静けさのように、空間ごと切り離されているかのように。
ロザリオから音がした瞬間――白い閃光を伴って前列のパトロールカーが宙に舞った。驚く間も無く、車が人が、次々と轟音を立てて空へと舞う。まるでコマ送りの映像を見ているかのように、千緋色目掛けて落ちてくる。
「きゃあ!」
鉄斎の機転で間一髪を逃れたものの、倒れた拍子に千緋色の手からロザリオが消えた。
「おひい様! ここは危険でございます! 建物に避難を!」
ただの地上げ屋と思っていたのが、いつの間にかロケット砲まで装備している。これも千里眼のなせる業だろうかと考えながら切り離しまでの残り時間が気になった。
早く、これ以上、事が大きくならないうちに。
「ロザリオを落としてしまったんじゃ。切り離しも封印も、まだ済んでおらん!」
鉄斎は「切り離しは始まっておりますゆえ、この予見はもうしばらくで止まるはず。今は身の安全が第一ですぢゃ」というと千緋色の手を引いて近くの建物に走った。
「それが千里眼の正体か」
「おぬし……なぜそこに……!」
見覚えのある顔に、千緋色の表情が強張る。
「予見の強制力とやらを見てみたくなってな。そしたらどうだ……まさかこの薄汚れたロザリオが、黒銀家当主だけに伝わる千里眼の正体とはなぁ」
「総也様! そのロザリオをお返し下さい」
「嫌だと言ったら?」
「……それはおひい様のものでございますゆえ、いくら千草様のお兄さまとはいえお渡し出来るものではございません」
鉄斎が身構えると、総也の後ろから数人の背広が銃口を向けた。
「待て!」
千緋色は鉄斎の静止を振りきって前に飛び出し総也と対峙する。しばらくの沈黙に、転んだ時に擦りむいた傷が痛み出す。
「欲しいのなら持って行くがいい。じゃが、これはおぬしには使いこなせん。ちからあるものにしか反応しないのじゃ」
「ほほう、随分物分かりがいいじゃないか千緋色……いや、当主様と呼ぶべきか?」
「黒銀の家も欲しければくれてやる。さぁこれで満足であろう、後ろの背広たちを引っ込めよ」
「おひい様! なりませぬ!」
「鉄斎、落ち着くんじゃ。切り離しはもう終わっておる。言霊の封印はされていないが、あやつに残りの回路を開く事は出来ん。今は大人しく言うことを聞いておこう」
慌てる鉄斎に、千緋色が小声で言った。それを聞いた鉄斎は、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて総也を睨んでいる。
「総也様は……おひい様ほどお優しい人間ではございませんぞ……!」
鉄斎が言い終えるかどうかという時、総也が口を開いた。
「千里眼も黒銀家も手に入ったことだ、早速だが、俺もひとつ予見とやらをしてみよう」
総也はロザリオを握り締めると、鋭い眼光で千緋色を睨みつけて言い放つ。
「黒銀千緋色は今日ここで死ぬ」
りん、と短い音が鳴った。予見の強制力が発動する。
朦朦と舞い上がる土埃の中で、千緋色は微動だにせず総也の目を真っ直ぐに見据えた。瞳に映った総也の目は人のものとは思えないほど、禍々しい気を帯びて見える。
「邪魔な存在だったお前とも今日でお別れだと思うとせいせいする。……この世に未練は無いか? あったところで叶えてやるつもりもないが」
――未練か。
「だがまぁ、喜べ……これで死んだ母親と逢えるだろう?」
不敵な笑みを浮かべた総也が手を上げると、背広の銃口が千緋色を捉えた。
――この世に未練など無い。悲しくも寂しくもない。
「あの世で叔父様に感謝しろよ」
千緋色の名前を呼ぶ鉄斎のひときわ大きい声がこだました。
――ああそうだ、一つだけあった。
「じゃあな、千緋色」
背広が引き金を引く瞬間、後ろからひときわ大きな炸裂音が聞こえた。身体に爆風を受けると宙に舞って、音のない真っ白な世界に放り込まれた。
――百花の王を、ひと目だけでも見ておきたかったな。