孝橋山の対峙 【壱】
頭を垂れようとした祥香の顔を、白い手が押さえていた。
「────咲夜」
先ほどまでの倦怠な様子など、嘘のようだった。
『豊山』は立ち並ぶ兄弟の間を縮地して、瞬間的に祥香の前へと移動していた。
その次の瞬間、祥香も『豊山』も呆けた顔をしてしまった。
祥香は突然のことに前後不覚に陥っていたし、『豊山』も捕らえた妹が咲夜──先代『葵山』清祥咲夜姫でないことに気づいたようだった。
「違うか。そなた初めて顔を見るな名は」
「わ──私、『大江山』祥香です」
「『大江山』?」
「『大豊山』こちら『大江山』銀朱の分社。代行を任命されている祥香姫です」
『孝橋山』の説明に『豊山』はすぐに理解を示した。
「あぁ──時雨が『大江山』に婿入りした際の分社か……」
『豊山』はどこか気が抜けたような、見下すような視線で祥香を上から下まで見つめてみせる。
祥香はその視線にどう答えていいか分からないまま、捕まれた手を振り払えないままでいた。
「『大豊山』御手をお離し下さい。如何に『大豊山』であっても公の場で姫君に非礼が過ぎます」
隣に控えた茂野の言葉に『豊山』は素直に従い、どこか被虐的に笑んだ。
「そなたがおったせいで、余計に見違えた」
ちくりと嫌味が込められていたが、茂野は表を下げ刃向かうことはしない。
『豊山』は茂野から視線を逸らし、改めて祥香へ固定した。
「『大江山』代理で参ったのか」
「はい。『大江山』のお姉様は『葵山』へ嫁入り道中でございます。分社の私が山を任せられました。ご尊顔を拝見できるとは思わず不作法を、お、お許し下さい」
『豊山』は、祥香から視線を外す仕草はない。
緊張しながらも、必死に言葉を紡ごうとする祥香を見つめたままだ。
脳裏に焼き付いたまま、もう二度と動かないと思っていた妹の姿が、再び命を伴って動き出したかのように残像が現実と重なって、輪郭を同化しようとする。
違うものだと分かっている。
分かっていても、だからこそ、後悔と共にこみ上げてくる気持ちがあった。
「あ、あの……?」
見つめられてどうしていいか分からない。祥香は懸命にこの場を切り抜ける方法を探り、はっと顔を上げた。
「あ……これを」
祥香は思いつきで、巾着から焼き菓子を取り出す。
「お茶はご一緒できませんでしたが、お菓子の味はこれでご一緒できます」
「それは……何か?」
「私が焼きました。洋菓子でございます。『孝橋山』の四季に思い馳せて、焼いたものなのです」
「三朱『豊山』に、箱入りでない菓子を差し出し、食えというのか」
『孝橋山』が快く受け入れてくれたせいで、緩んでいた気持ちに祥香は背筋を伸ばした。
すぐに緊張で赤くなっていた顔が青くなる。
早口で謝罪をして菓子を持つ手を引こうとすると、『豊山』はその手を掴んで止めた。「出過ぎた振る舞いを見るにまこと『大江山』分社らしいと言えるが……」
『豊山』は動けない祥香の髪を、逆の手でそっと撫でた。
壊れ物を扱うように触れた手は、祥香の青い目の横を滑り、頬に指の腹が触れる。
それもまた異例の所作で、周囲は唖然としていた。
圧倒され身動きのとれない祥香の幼さ、初々しさを『豊山』は弄んでいるようにも見えた。
茂野が口を挟もうとすると、それを二回り大きな手が邪魔した。
久照である。
「久照……様!」
「騒ぎ立てるな茂野。処断しようとする手つきではあるまいて」
だがそれで頷けるほど、茂野は祥香を粗末に思ってはいない。
久照の制止を振り切り、動けない祥香の肩を引きよせた。
そのおかげで、祥香はやっと指先まで感覚を取り戻す。
『豊山』も同じようで、手から離れた祥香から己の手へ視線を戻すと、祥香に寄せた指の腹をじっと見つめていた。
久照は興味深そうにその両方を見ると、口唇を上げた。
「祥香姫、お初お目にかかる。儂は稲荷の夏の象徴たる『豊山』の二ノ輪を預かる稲荷神『豊山二ノ輪麓』久照。まぁそう立場などは気に留めず、気軽に久照と呼んでもらって構わん」
明るく名乗り祥香と視線が合うように着物に皺を作りかがみ、久照は笑顔を投げ続けた。
「『大江山』の嫁入りお祝い申し上げる。代行としてこの機会に見識を得よ、との姉の采配なのであろうなぁ。どうだろう、見識を深めるために『豊山』へも足を運ばれては。『豊山』はこれから盛りの時期であるし、数え切れぬ美味な菓子が山とある」
久照の言葉に、まだ朦朧としながらも祥香は懸命に答えようと顔を上げた。
「『大江山』分社祥香でございます……あの、か、菓子は大好きです。いつか」
久照の言葉に答える祥香を遮るようにして横から『豊山』は声をあげた。
「よいぞ、来るとよい」
『豊山』はあっさりと久照の提案を許可し、祥香を守るように肩を抱いていた茂野の手に自らの扇を乗せて払った。
"いつか"と言ったつもりだが、『豊山』は"今すぐに"という様子である。
払い退けた茂野の手の代わりに、『豊山』は自ら祥香の手を引き、久照に引き継がせた。久照はにこにことその手を握りしめた。
「あ、あの」
祥香が戸惑い見上げるので、久照はゆっくりと頷いた。
「このまま参られよという事だ。祥香殿のことを主様は気に入られたということであるな」