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大江山主従

 言葉に尽くすには足りぬ、美しい横顔である。

まだ幼い身の上で宝玉のような美しさは、まさに神々しいと言わんばかりである。

「遅くなりました」

 銀朱の向かいに席を取ると、美しい稲荷の母子は神饌を口に運び出した。

「お姉様」

「なんじゃ」

「お姉様が『葵山』へ嫁入り道中の間……『大江山』は私を代行にと、ご指名頂いたと茂野から聞きました」

「『紅葉山』のお兄様にも言付けておく。なに、心配はいらぬぞ」

「私でこの十五名勝の『大江山』をお預かりすることができるのでしょうか」

「あれほど早く山を預かりたいと息巻いておったのに、どうした」

「いざとなると自信がなくなってきました。朱善兄様……『紅葉山一ノ宮麓』と違って、私は未だ分社のままで、山を預かった経験などないですし」

 的中して欲しくはない事であったが、不安は祥香に干渉を及ぼしていた。

 申し分ないと周囲は認識しているのに、本人は自分に自信を持てなくなってしまっていた。

「分社身分であることを恥じることはない。お兄様もお姉様も、誰でも皆はじめは分社であったのだ、私もそうだし、時雨様もそうなのだからな」

「それでも……」

 銀朱は不安そうに俯く祥香の白い顔を、覗くようにして、意気揚々と続けた。

「兄の──『紅葉山一ノ宮麓』朱善のことを意識しているのであるなら、それは間違いだ。『紅葉山一ノ宮麓』は規格外であった。良くも悪くも、だ。あれは本来の稲荷としての在り方とは、違った道を歩き出している。だからこそ『紅葉山』のお兄様の側に置くに相応しい存在であるのだと私は思うようにしている。だれしもが、あれのようにはなれないし、そうあろうともできない」

「『紅葉山一ノ宮麓』とは、同じ時、同じように生まれた私にも……でしょうか」

 祥香が自信喪失している多くはやはり兄朱善と自分を競べている処が大きいようだ。

 ふたりは仲の良い兄妹であったのだが、兄が山を離れたあたりから無邪気に笑顔を交わす関係とは言えなくなった。

「そなたにはそなたにしか為せぬ何かと、存在意義が必ずあるのだ。それが何であるかは山を預かり、守っていくうちに分かる。私もそうであったよ」

「今分からなくても?」

「そう。そなたは決して無為な存在ではない」

 銀朱は自分も未熟であった時に、そう言われたかったことをよく覚えている。

 だから朱善と競べることも、祥香の不安の子細を聞きただして問答する代わりに、その言葉だけは贈ってやるつもりだった。

 まだ未熟な祥香にはその言葉の真価が分かるかは分からない。

 消化不十分さを現すかのように、祥香からは返事なく膳の方へ視線を落としてしまった。


 ◆


 茂野が銀朱のために丹精込めて供物に磨きをかけた料理は、いつにも増して美味であった。

 『葵山』の味が耐えられずに、さっさと帰ってくるかもしれないと銀朱は笑う。

 この嫁入りにおいて、銀朱は単独で『葵山』入りとなる。

 本来山の侍従は阿吽(あうん)侍従と言われるように、二柱持つのが通例であるが、銀朱は茂野だけを抱えているため、山を守るためには侍従を連れて嫁入りすることはできない。

 代行として祥香を山に据えてはいるが、分社身分の祥香の身に何かあっては困る。

 銀朱は嫁入り先が慣れた『葵山』であることも踏まえ、自身の安全より山の守りを優先した。

 完全に不安が拭えた訳ではないのだが、茂野、敷島、そして八雲の布陣があれば心配はいらない。

 祥香のためにも、いい機会になるのではないかと思っているのだ。

「考えてみれば、茂野が私の側についてから、こう明確に側を離れるのは初めてのことだったな」

 銀朱は思う。

 茂野が大江山へやってきてくれるまで侍従などいらないし、自身だけでいかようにでもなると思っていた。

 だが今は手を差し伸べれば茂野がその手を取ってくれることが、空気のようだが何よりも大事なことのようにも感じられる。

「お姉様が嫁入りで葵山おられる間、茂野がおらずに御不便がなければよいのですが」

「『葵山』であれば、心配はいりません」

 茂野は祥香の心配をそっと押さえ、食膳を囲む姉妹両方へ微笑みかけた。

 橙の明かりに照らされる頬にゆっくりと刻まれる豊麗線を、銀朱は黙って見つめていたが、さつさつと食事を進め箸を置き、膳を横へ下げ膝を使って滑るように茂野の横へついた。

「いかが致しました」

「茂野、あの日の約束を覚えておるか」

 祥香は当然、主従に交わされた約束を知らない。

 椀を手にしたままどこか呆けて銀朱と茂野を見ていた。

 銀朱の青い目が、不思議な潤みを見せたのを茂野は逃さなかった。

「しっかりと覚えております」

 その約束は、敵陣である豊山の山中で交わされた。

 赤橙色を灯し、闇を焦がしていた。

 まだ茂野が大江山にやってきて、幾ばくもない頃。

 葵山の賢臣であり、名高き山ノ狐であった彼が、なぜ大江山にやってきてくれたのか銀朱は分からなかった。

 本当はかつての主であった先代『葵山』清祥咲夜姫の後を追いたかったに違いないのに、なぜ。

 それが叶わないにしろ、先代の血を色濃く引き継ぐ『葵山』時雨の側に、先代の愛した葵山に居続けたかっただろうに、なぜ。

 その問いに茂野は、こう答えたのだ。


「私は今、『大江山』より『紅葉山』を望む日々に深く感謝しております。あと幾ばくかすれば私も咲夜様の元へ参じることになりましょう。その時に咲夜様が見続けたかった『紅葉山』の四季の移ろいをお話して差し上げたいのでございます」


 銀朱ははじめての侍従が「おさがり」であることにも、自らの山生まれの者でないことも、何も不満はなかった。

 ただ『葵山』侍従を勤め上げた賢臣に、仕えてもらうほどの器が自分にあるか、それが分からず不安だったのだ。

 茂野はその時、銀朱の不安を敏感に感じ取った。

 自分以外は決して触れることを許されない、心臓の上へ銀朱の手を引き寄せた。

 茂野の着物の奥にある、命の鼓動が手の平に直接伝わってきた。

 今でも銀朱はそれを忘れはしない。

 私の姫様はあなたただ一人だと、そう誓ってくれたことで、銀朱は今の自分があるのだと思う。

「『葵山』へ趣くことには何も不自由はないはずなのにな。山を守るためにそなたをここへ置き、祥香を守らせることに、何の疑問も抱いてはおらぬのに、なぜかとても寂しい」

 銀朱は白い手を伸ばし、茂野の胸元に手を置いた。

 そこに在ることを示す鼓動は、落ち着いていてしっとりと手の平から染みてくる。

 茂野はその手に、あの時と同じように、そっと両手を重ねて押さえた。

「いつでもお側にあるものであると、思って頂けていることを光栄に思います」

「そなたの代わりが村上かと思うと、気が滅入ってならない。そなたがいないのならば、側に誰もつけない方がずっと居心地よいというものだ」

 銀朱はやきもきとして見せると、さらに膝を滑らせて茂野の目の前についた。

「祥香を頼む。そして私がおらぬからと言って、無理は決してしないのだぞ」

「お任せ下さい」

 銀朱は変わりなく首を縦に振る茂野に、無言で頷きを返した。

 山での最後の夕餉を終えて、膳が下げられたところで銀朱は祥香を呼び止めた。

「代行に特別な儀式はいらぬのだが、心細くないようにこれをそなたに授けよう」

 なんだろう。『大江山』の縮地細工か何かであろうかと祥香が首を傾げると、銀朱は縮緬に包まれた包みを板間の上から滑らせ突き出した。

 拝礼してから包みを開くと、まるで林檎飴のように艶めいた愛らしい丸簪が収められていた。

「これは?」

「私がそなたよりもっと幼い頃に、『紅葉山』のお兄様から下賜頂いたもの」

 じっくりと簪を観察する。

 見かけより少し重く素材の良さを感じさせられた。

「ずっと私を護ってくれた。そなたも護ってくれるだろう」

 柘植(つげ)の軸はしっとりと黒檀の色をしていて、何度も銀朱の髪を飾ったのだろう使い込んだ深みがある。

 飾りの丸い貴石には小さな梅が細工されている。

 零れ小さな図案でありながらも、花弁に水晶、枝に螺鈿。

 金で境を線引き、赤い貴石を土台に虹色に輝いて見える。

「まるでりんご飴みたい」

「私にはもう、このように愛らしい簪は合わない。いつか祥香にとお兄様から言付けを頂いていたのだ」

「大事に致します」

「これを頂いた頃、私は本当に……愚かな稲荷神であったよ。自分には力があって、周りが認めてくれないことに、わかり合えないことに、ひとりで悋気ばかり放っていた」

 銀朱は自嘲しながら、そっと祥香の手から簪を抜いて髪に挿してやった。

「今なら、あの時のお兄様の気持ちが分かる。私はそなたに期待している。そなたを深く愛している」

「姉様」

「求めるものに辿り着くまでは、苦しいこともあろうがそなただけが得られる、真を得て欲しい」

 祥香は手を広げ、銀朱に飛びついて抱きしめた。

 銀朱は小さな妹の髪をそっと撫でつけてやった。

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