銀朱の親心
これ幸い。
銀朱は針仕事を止め立ち上がった。
食膳を持って板間に入る茂野は、群れていた子狐たちに「祥香様をお呼びしてくるように」と役目を与えると銀朱の前に膳を並べ出した。
漆の大きな膳を中央に、膳を区切るようにして同じ漆の椀が収められてられている。
底が透けるように澄んだ吸い物に、三つ葉と麩が浮き、焼き魚は焼き目から熱を放ち夕焼け色に身を焦がしていた。
吸い物の椀の隣には、白磁の椀が置かれていた。
この山の主とその侍従しか触れることが許されていない。
飯櫃の中は大江山の清水で炊かれた白米が、湯気を踊らせているのが分かる。
銀朱は鼻を利かせると「栗か」と問いかけた。
茂野は配膳を終え、裾を整え銀朱へ向き直ると、宿老さを滲ませた低く落ち着いた声で「はい」と答えた。
竹林が描かれた漆の櫃の蓋を開けると、湯気の間仕切りが視界を横切り、ご名答。
黄水晶のように美しく皮を剥かれた栗が、白米に抱かれていた。
本来食膳の用意は侍従の仕事ではないのだが、ここ大江山では誰よりも茂野が料理の匠であるがために食の担当もこなしていた。
文武両道だけでない多彩振りは、銀朱自慢である。
「魚は鮭でございます。昼過ぎに敷島が嫁入り祝いに釣って参りました」
「そうか。しばらく『大江山』での夕餉は別れとなるし、味わうとしよう」
香ばしさと共に鮭、といえば銀朱に浮かぶ姿がある。
鮭が大好物でよく釣りに行っては食べていた。
『大江山』分社である朱善のことだ。
銀朱にとってはひとの子で言うところの子供であり、稲荷の世においては縁深き近しい兄弟である。
今はもうここ大江山にはいない。
と言っても、遠くへ行ってしまったのではない。
目と鼻の先にある紅葉山で、役目を得て独立している。
紅葉山はここ大江山とは一風代わり、稲荷兄弟において最も古き三兄弟である三朱の称号を持つ長兄の山だ。
それゆえ守る山は広大で、一柱で治めるには困難を極める。
山を山頂から麓まで三つの宮で区切り『紅葉山一ノ宮麓』『紅葉山二ノ宮麓』『紅葉山三ノ宮麓』とそれぞれ補助役の稲荷神を設置することが許されている──
のだが、諸般事情で『紅葉山』の兄は補佐役であるこれら侍従を、数千年間持たずにいた。
銀朱が時雨を婿に迎えて分社した朱善が、この度縁を得て『紅葉山一ノ宮麓』を担ったのである。
今ごろ紅葉山で、兄と仲良く顔を付き合わせて夕餉をとっているに違いない。
自分は兄の側にずっといることはできないが、自分の分社である朱善が『紅葉山』の側で彼の神を守ってくれていると思えるのは、何よりも安心だった。
おそらく時雨も同じように、安堵していることだろう。
朱善はまだ幼い稲荷神ではあるが、自らの意志で『紅葉山』侍従となり主を守っている。
総本山の指示で役割を与えられる制度の中において、希有な存在であった。
その心粋を銀朱は買っている。
「茂野よ、朱善はよくやっておるようだ。そなたの背を見て育ったからであろうな」
椀に盛られた栗飯を見ながら銀朱が茂野に声をかけると、白無垢を畳み寄せていた茂野は笑顔を返した。
「何より、素質でございましょう」
「問題は祥香よな。朱善と共に稲荷の世に生まれ分社したものも、まだ我が膝元に置いておる。総本山は祥香にいかなる役目をお与えになるか……」
銀朱は時雨を婿に迎えたおり、朱善と共に祥香も双子として分社した。
美しい白銀の髪に、時雨に似た横顔。
銀朱が賞を与えるとすれば稲荷一の美姫であるのだが、現在はここ大江山居候状態であり、肩書きもまだ『大江山』分社という宙ぶらりんのままだった。
そろそろ総本山から、祥香が守るべき山を指示されてもいいはずだが、一向にお達しはない。
銀朱個体の考えとしては、かわいいわが子同然。
ずっと膝元に置いても構わないのだが、自身が辛いことだろう。
稲荷神として求められてこの世に具現化し、兄である朱善はすでに役目を果たしているのに、自らは稲荷神を名乗ることもできず銀朱の補佐をするしかないのだ。
稲荷の姫君としてどの山を預かっても恥ずかしくないよう教養を叩き込まれる中で、その教養知識を振るえない日々に、鬱憤がたまっているだろう。
茂野の料理に影響されたのか、ここの所、暇をもてあますように菓子をこしらえては食べたり配ったり。
山ノ狐たちは「お菓子のお姉様」など二つ名を与えられるほどだった。
本人は朱善以上にやる気に溢れている分、銀朱には苦しい現状だった。
あまりに長い保留は、性格を歪めかねない。
「祥香様に相応しい御山への分社が、すぐにでも参りましょう」
「そうだな……私ではどのようにも、できないことであるからな……」
茂野が心配そうに青い目を潤ませる銀朱に声をかけ、祥香の食膳に栗飯をよそう。
同時に噂の祥香が障子を引いた。