孝橋山の対峙 【伍】
茂野は祥香を抱いたまま、反射的に空中へ舞い上がった。
成熟した茂野の跳躍は高い。
飛び上がった次の瞬間。
茂野が守夏の姿を捉えたのは、数秒前まで祥香を抱いて立っていた石段上にある守夏の姿。
守夏の話を放心したまま聞き入っていたら、今頃その一撃を受けていた。
空中から眺めて、惚けてはいられない。瞬きの後には残像となり、石段に守夏の姿はなかった。
白く長い守夏の髪は、稲田一面に金色の稲穂の波をたたせる風のようだった。
その残映が瞼の裏に焼き付き、陽炎のように揺れている。
「祥香様、しかと茂野におつかまり下さい!」
茂野の声に、祥香は茂野の首に腕を回し強く着物を握りしめた。
茂野は参道石段横の桜の木に飛び乗り、腰に穿いた白刃を鞘から解き放つ。
その切っ先は、跳躍した守夏の白刃と交差させた。
鈍く響く摩擦音。
突然の攻防に祥香は悲鳴を上げた。
「お前がそうして先代『葵山』似の分社を抱いて山を抜けようとする姿、まさか二度も目にすることがあろうとは」
「祥香様を咲夜様の身代わりにするおつもりですか……」
祥香を抱いたまま守夏と間合いを大きく開け、石段下へ着地する。
守夏は石段上。茂野は石段下の参道。お互の位置が入れ替わっていた。
守夏は茂野の激昂には応えず、風に髪を涼やかに揺らし、白刃を構え切っ先を茂野へ投げる。
「『大豊山』の寵愛を受けられることに、何の不満がある? 『紅葉山』派『大江山』という素行不良の妹の分社の立場で、これ以上の栄光を得られると思ってか」
「『豊山一ノ輪麓』も私を、道具として使うつもりなのですね」
祥香は茂野の腕の中で守夏へ問いかけた。
「先代『葵山』の代わりという、祥香でなくともいいものとして」
茂野が何か言う前に、気持ちを奮い立たせる。
祥香は安全な腕から降りて両足で立った。
まだ震えも収まらないが、それでもここは一柱で立たねばならなかった。
「私は『大江山』銀朱分社祥香です。何者の代わりにはならない!」
祥香の名乗りは、周囲の温度を下げた。
北風が吹きつけたかのように、祥香を中心に風を巻き起こし、大気中の水蒸気が昇華し細氷を作り散らした。
「性格までは気弱で唯々諾々を先代『葵山』に似せているわけではないな。結構なことだが、今ここではそれは、邪魔だ」
守夏の言葉に答えるように、ぬっと石段上から長身の久照の影が伸びた。
「そうさなぁ……気の強い先代『葵山』というところか」
「私はあの先代の、気弱に見せて腹黒いところが気にいらなかったが、これならまだ飼い慣らせばいかようにでも」
守夏の言葉にそりゃあ、お手柔らかに、と久照は笑顔だった。
「儂は縁深い妹御ができると思うと、期待が収まらんわ」
警戒を強めた祥香と茂野の張り詰めた顔を見て、久照は太陽を背に笑った。
「先代『豊山三ノ輪麓』支倉はなぁ、まぁ血筋才能には申し分ないが、悪知恵と陰湿さが玉に瑕の侍従であってなぁ、賄賂も受ければ、立身出世に目のないやつだった。金さえ積めば願いが叶うと、ひとの子を惹きつけるのもよいがなぁ。儂らはそれだけで存在しているわけではない。儂らは信仰に応えるべき格を失ってはならない」
世間話をしながら、久照は石段をゆっくりと下りてくる。
「新しい『豊山三ノ輪麓』は、伝統ある豊山に不釣り合いであったとしても、若く純粋であって欲しい。崇められるもの、力あるもの、超越したもの、そして実りある『大豊山』のためにも」
ごくり──
祥香は息を呑み久照の口上を必死に理解しようとした。
先代『豊山三ノ輪麓』のことはよく知らない。
ただ三ノ侍従──稲荷の山においてもっとも裾を守るその位について、祥香もその意味は知っている。本来侍従というものは、阿吽と呼ばれて一柱の稲荷神に二柱つけられるのが通例である。それ以上は贅沢であり、山の広大さを示唆する権威であったりと、祥香から言わせれば、お飾りと言っていい。
三朱の一柱である『豊山』の三ノ侍従であれば意味も変わってくるだろうが、だがしかし、重要性は一ノ侍従に比べどれほど劣るだろう。
「のぅ祥香姫、儂にもこれを作ってもらいたい。美味そうじゃ」
ぽんと放り投げられ、祥香の足元に落ちたのは『かるとかーる』を包んだ和紙。
『孝橋山』へ差し出したものだった。
おのずと彼の神の現状が浮かび、思考の海で赤く染まる。
「菓子作りなど、おなごが加わればさぞ華やかであろうなぁ」
「た…『孝橋山』のお兄様は……」
「活気づくであろうなぁ。『豊山』は開祖よりおなごの侍従とは縁がなかったから、さぞ変化があるだろう。儂は変化が嫌いではない」
久照は祥香の問いには応えずに、楽しそうに続けた。
「安心して『大豊山』から『三ノ輪』をお受けするといい」
「言葉には……裏があるものだと、先ほど『大豊山』からご教示頂いたばかりです」
祥香は茂野の側から離れずに、気丈に応えてみせる。
久照は「建前かもしれんが、嘘ではない」と歯を見せて笑ってみせた。
「守夏様。ご覧あれ、あのように祥香姫が茂野に寄り添い震える姿、まこと、まことに咲夜姫生き写しではないかなぁ、返り花とはまさにこのこと」
「……楽しそうだな久照」
「なんじゃぁ、空言のように。守夏様とて十分楽しそうな顔をしておる。分かるぞ、我ら二柱は今、久方振りに心燃え滾っておる。祭、祭の気分じゃな」
守夏は高ぶる気持ちを抑えていたつもりだったが、久照の言葉でどこか押さえていた心にが緩んだかのように、ゆっくりと笑みを作ってみせた。
こうして自然と笑みがあふれて来るなど、何百年ぶりだろうか。
「あぁ、そうだな…… 『大豊山』が戻ってこられた。一ノ宮で名乗りを上げられたのを感じた。正宗様はああでなくてはならない。この勢いを失うわけにはいかない」
「『豊山二ノ輪麓』久照様、そして守夏様」
祥香に呼ばれ、浮ついた笑顔を浮かべていた久照と守夏は首を傾げ応えた。
「分社身分の無学な私への勿体ない『豊山』への行幸のお誘い心より御礼申し上げます。ですがこのような事態を目にして、暢気に遊山をする気にはなれません。この事態を早急に『大紅葉山』にお伝えすることこそが『大江山』代行としての私のもっとも優先すべき役目であると考えます」
「そなたがもっとも優先しなければならないのは、『豊山三ノ輪麓』を正式に継承することだ」
さつ、と石段上に広がっていた苔を、皐月の花を描く美しい緑の草履が、静かに踏んだ。
『豊山』は裾を翻すような所作もみせずに、粛正を終えた苔庭からやってきた。
決して歩を早めたりはせず、ゆっくりと久照と守夏の立つ石段を下りてくる。
三朱『豊山』の全てが今、ここ『孝橋山』を粛正し終えたと、宣言せずともその立ち姿で示しているように思えた。




