孝橋山の対峙 【弐】
「お待ち下さい! 祥香様は『大江山』代行。山にお戻りにならねばなりません!」
茂野が今までになく声を荒げ、祥香と久照の間へ割って入った。
『豊山』はその声を不快に感じたようである。
「ほんのひととき山への戻りが遅れただけで、廃山となるほど管理行き届いておらぬのか大江山は。随分と怠けた統治をしておることだ」
山から長く離れる前提の勧請の儀式をしに『葵山』へ向かうわけであるから、銀朱はきちんと手を打ってあるのだが、『豊山』は鋭くそこに指摘を入れ茂野の抑止を遮った。
「そなたも私の膝元で生まれ育ったのだ、匹夫でもなしに山の美しさを知らぬわけではなかろう。私が良いと言っているのだ、無粋な儀礼を持ち込むな」
「いかに申されましょうが、予定無き外遊は『大江山』侍従としてお認めできません」
久照は黙ってやり取りを見守っていたが、胸の奥からこみ上げてくる熱を感じていた。 高ぶる。
無性に高ぶるものがある。
久照自身の感情や体調に機縁するものではない。
目の前の主が、かつての主の──燃えるような強い意志を、滾らせはじめたのだ。
心が共鳴し、昂揚してくる。
花ばかり愛で、心ここに非ずであった主が、現実の"もの"を欲している。
守夏の見立ては正しかった。
『大江山』分社祥香は、『豊山』を現実に引き戻すために、有益な妹だ。
『豊山』に必要なもの。
判断に間違いがないと分かれば、久照が取るべき行いは一つだけだ。
「『大江山』侍従は墨守でならんな。分社である上は、多くを見聞きすることも役目」
「久照様、私が『大江山』代行を怠れば、お姉様に怒られます。茂野の言い分は正しくあります」
祥香も続けて自らの使命を主張するが、『豊山』は笑った。
「咲夜も己の山に固執して……私の摂社を拒んでいたな。長五百秋に渡りそれを許していた私の判断は過ちであった。二度と同じ過ちはすまい」
その笑みは、過去の己を侮蔑するものだったようだ。
酷く醜く笑って切り捨てると、『豊山』は赤い目を輝かせ扇の先で祥香を指した。
「『大江山』代行祥香。ならばそなたに私がこの場でそなたに山を与える。そなた空席である私の侍従『豊山三ノ輪麓』となれ」
祥香だけでない。
この場にいた兄弟はすべて耳を疑った。
しんとする苔庭で、久照だけが大仰に振る舞い、嬉しそうに喉を鳴らした。
「『豊山三ノ輪麓』を知らぬわけもないだろう。私の三番目の侍従位である。『豊山』の山の裾を守る稲荷神の席を、そなたに与えると言っている」
『豊山』は宣言をしてから茂野へ視線を投げやった。
「これで『大江山』のものから、あれこれと口を挟まれる理由もない」
茂野まで理解が遅れ、呆然と立ち尽くしてしまった。
久照は時が止まったかのように祥香を見つめる茂野がおかしかったのか、喉を鳴らすに留まらず、ついには腹を折って笑いはじめる。
「はっはっは、あっはっは。なんと、なんと『大豊山』明快なるご采配」
心底、久照は嬉しいと思えた。
この傍若無人とすら思える圧倒的な指図が『豊山』であるのだ。
花見に心奪われ、魂が抜けているような存在は主ではない。
雨乞いが叶ったひとの子の喜びに似た思いでいっぱいだ。喜びに胸昂り踊る。
「なんだ久照。なにか問題はあるか。支倉の後を空けたままではなるまい」
「いえ、問題など、とんでもございません。大変助かります。『三ノ輪麓』が空席のままでは雑務が増えて敵わんのです。我ら侍従も歓迎致します」
「お待ち下さい。いくら『大豊山』とはいえ」
茂野が一呼吸遅れて追求をしたが、場の流れは『豊山』側に完全につかまれてしまった。茂野だけでは押し返すことなど到底できない。
「茂野の申すとおりです」
そこに差し水のように響いた『孝橋山』の警告に、全員が視線を投げた。
「何をお考えで『大江山』分社祥香を侍従に据えようとされておるのかは知りませんが、他山で騒ぎを起こすは長兄のされることではない。茶席に遅れてやってきた上に、非礼を重ねるおつもりか。皆が見ております。この場での強引な沙汰は笑い草になりますぞ」
「なんだ、そなたまで邪魔立てするつもりか」
『豊山』は祥香へ向けていた意識を『孝橋山』へ向けた。
「やはり躾が必要ということか?」
躾とは何だという露骨な嫌悪を示す『孝橋山』を置いて『豊山』は続ける。
「『孝橋山』そなた『豊山』派に準じよとの私の呼び声に答えず、どの派閥にも身を置かずにいるがその真意を知らずにいると思ってか?」
目に見えぬ敵意が、祥香の中で具現化して火花となり美しい庭の景色を歪ませつつある。
「『孝橋山』分社、そこな数十と結託し新たに派閥を立てようと企むなど、愚かしい」
「派閥とは……大袈裟な。分社たちと協力体制を敷き、身の置き方を相談する為の寄り合いにすぎません」
「詭弁はよせ。そなたの企みは知れておる」
『豊山』が視線をやると、苔庭で固唾を呑んで状況を見守っていた稲荷神の中から、ひらり蝶がが舞出るようにして女御が『豊山』へ駆け寄る。
『豊山』側の間者であるということの証だった。




