嫁入り前夜
『大江山』の稲荷神である銀朱は、嫁入りを明日に控えていた。
本殿にかけられている燈籠の明かりは変わらないが、大きな紫の幕が本殿を囲むようにかけられている。
嫁入りする花嫁の銀朱は、本殿に腰を深く落ち着けて、最後の仕上げの針仕事を続けていた。
銀朱の目の前で、柔らかな毛並みを揺らして子狐たちが銀朱の縫う白無垢の裾を引いている。
この子供達に針仕事を教えるのも、山の主たる銀朱のひとつの仕事である。
「これは銀朱様が着るの?」
「そうじゃ。『紅葉山』のお兄様がわざわざお送り下さったものだ」
絹の糸が静かな本殿を切るように伸びる。
針の先が着物の裾に潜り、また顔を出すのを子狐たちがじっと見つめている。
銀朱の白い指は綸子の生地を滑り、銀色の針が裾を波打ちながら交差する。
「嫁入りとしては初めての白無垢を、お兄様から頂けたことに感謝しておる」
「あのお姉様、私が嫁入りの際にもお貸し頂けますか」
「あぁよかろう。次は……恐らく祥香であろうな。そなたはその次で、また次の妹達の為に、こうして裾を直し、時には詰める針仕事をよく覚えておくのだぞ」
銀朱の言葉を受けて、小さな山ノ狐達は銀朱の手元に視線を集中させる。
その様が愛らしくて銀朱は針を操る手を止めると、柔らかな子狐の髪を左から順に全員撫でつけてやった。
「ずっとずっと銀朱様の嫁入りを、楽しみにしておりました。ついに明日、暫くのお別れ寂しゅうございます」
「寂しいのも結構だが、留守の間、健やかにいておくれ。帰ってきて山のものがいないのは寂しい」
「大丈夫です。敷島がいるもの」
「ねぇー敷島、鬼もばりばり食べちゃうもん。銀朱様みたいに強いもの」
「それに私たちも強くなったし、知恵も働きます」
大江山の山ノ狐たちは、皆揃って幼い。
銀朱がこの山に封じられた時から、年を重ねた山ノ狐はいなかった。鬼に喰われてしまったのだという話だったが、子狐たちだけでも生き残っていてくれたのが幸いした。
彼らは銀朱を母や主と思い今日まで共に育ってきた。
銀朱や『紅葉山』が育ての親代わりであったので、嫁入りに寄せる思いも一入だ。
「でも銀朱様は、いつ頃お帰りになるのですか」
騒ぐ子狐たちの質問から、銀朱は最後に投げられた質問を考えた。
「そうだな帰りはいつになるか……もちろん山を長く開けるつもりはない。それは時雨様もよくお分かりのはずだ」
銀朱の日和見な回答に、子狐は互いに顔を見合わせる。
「どうでしょう。『葵山』はぎりぎりまでお姉様を引き留める気が致します」
「私も! 村上様から聞きました。思い思われての嫁入りは昨今とても珍しいことだそうです、『大江山』に戻して下さらないかも、ふふふ」
「村上様は『葵山』が御自分の摂社に、銀朱様を封じてしまうのではないかと仰っておりましたよ」
「せっしゃって、どうなってしまうの?」
「摂社というのは、山の敷地内に家を与えてそこに住まわせること。お姉様のあるべきところは、ここだけど摂社にしてしまえば、葵山に置くことだってできるのよ」
「ふーん、そうしたら確かに、すぐ側にお姉様を置いておけるわね」
「待て待て、村上はすこし大袈裟にものを言うので、真に受けてはならん」
そう言いながらも、銀朱は照れて頬が赤い。
照れてる。
子狐たちは声にはしなかったが、いつも強くあろうと気を張る主様の愛らしい一面に顔を合わせて頬を上げた。
蝋が溶け部屋を照らす橙色に包まれて、髪にさした梅の簪が光る。
この簪も嫁入り先の『葵山』から特別に贈られたものだと皆が知っていた。
淡い照明で銀朱の簪までが、うれしさで火照っているのがよく分かる。
「私はずっと『葵山』が婿殿であり続けてくれればよいと、思っていたのだぞ。名山を婿に持つということはそれだけで誉れなことであるが、嫁というのは順当なることで、特別に誇れたことではないからな」
「一度婿に来ただけでは、だめなのですか? 誉れにはならないのですか」
「むぅ。過去の婿入りを誇っているだけというのは、恥ずべきことだそうだ」
「では、『葵山』には、すぐ『大江山』へ婿に来て頂きましょう」
「そうであるな。それが良いな」
「銀朱様は、『葵山』のどこが気に入っておいでなのですか」
「そ、それはその……」
子狐達は顔を寄せて銀朱に迫ってくる。
「『葵山』侍従村上様によると、『葵山』は銀朱様の気が強くて素直でないけど、まっすぐで一途なところが大層気に入っておられると仰っておりました」
「とりあえずあちらへ行ったら、村上はよう踏んでおくことに決めたわ」
銀朱は笑顔で村上の物言いの処罰を決めた。
──それはまことに『葵山』の言葉だったかもしれないが、侍従の身分でそれを包みもせずに流布する彼にはほとほと困る。
「銀朱様は? 銀朱様は『葵山』のどこが」
針が危ないと言っても、子供達の興味は銀朱に向いて離れない。
「む、村上などには告げ口するでない。絶対に他言ならぬからな、よいな?」
「心得てございます」
銀朱は顔を寄せて、子狐にそっと本心を告げる。
秘密を共有した子狐は、銀朱の言葉を漏らさずに聞き終えると、きゃあきゃあと楽しそうに本殿を転がってみせた。
一層銀朱の頬が緋に染まると、この場の空気を変えたいと願った気持ちを察知したのか
夕餉の支度を終えた茂野が斑髪を襖を開けて差し込んだ。