失神
はっとして、私は跳び起きた。
ずきずきと頭が痛い。
手足が重い。ぬるぬるとした嫌な汗が背中を伝う。
構えようとして、眩暈がして、私はロープを掴んで、なんとか倒れるのを防いだ。
私に近づいてこようとしていたボルガノフはリング中央で、嘔吐した。
波が通ったんだ。
あいつもギリギリ。もう一発、撃砕を当てれば勝てる!
腰を落とそうとして、私はおかしいことに気付いた。
男の感覚が全くない。
磯野正を感じない。
さっきの一撃で、磯野正が失神したんだ。
私の意識だけ、残ってるんだ。
ぞくっとした寒気が背筋を走る。
撃砕を食らってなお、反撃してくるような化け物と磯野正なしで、
戦うことなんかできない。
おまけに、さっきのダメージが抜けない。地面が揺れてる。
ボルガノフが、首を振ってから、私を見る。
仕留めにくるつもりだ。
電光掲示板の時計をみる。4分20秒を過ぎている。後、40秒逃げれば、
1Rが終わる。
でも、逃げてどうするの? 磯野正が戻ってくる保証なんてない。
私なんかじゃ、こいつの相手にならない。
足は動かない。逃げれないなら、一撃で私は終わる。
どうすれば、どうすれば……。
急いで、磯野正の記憶を探る。そうだ。磯野正は虚実入り乱れての戦いに長けていた。
こんな時こそはったりをかますんだ。
ボルガノフは撃砕を食らって、私のことを恐れているはず。
私の一撃の力を恐れているはず。
だからこそ、はったりが利く。
私は左手の親指を立て、ボルガノフに笑顔を向ける。
「ナイス、ファイト! ミスター、ボルガノフ!」
もう少しでロシアンフックの間合いというところまで、近付いていたボルガノフは、
足を止め、怪訝そうな表情をする。
私は笑顔のまま、今度は日本語で語りかける。
「ボルガノフさん、日本には健闘を称えるという習慣があるんです。
私の撃砕を食らって、立ち上がったのはあなたが初めてです。
ナイスガッツです」
「アリガトウ。デハ」
半身になったボルガノフに、私は左手の平を向け、待ったをかける。
「ストップ、ストーーップ! ちょっと待ってください!」
不思議そうな顔をするボルガノフに、私は左手の人差し指で、左の股下を指さす。
「今の攻防で下着がずれたんです。直させてもらえませんか?」
日本語が少しわかるといっても、そこまで複雑な会話ができないのか、
ボルガノフは困惑した表情を見せる。
レフリーが私たちの間にくる。
「ファイっ!」
「あ、審判さん。タイムお願いします。下着がずれちゃって」
「タイムなんかあるわけない! 続けなさい!」
「えー? こんな状態でですか?
ショーツが破れたら、どうしてくれるんですか?」
審判と私とのやり取りが理解できないのか、ボルガノフは少し離れて、
左手をさすっている。
助かった。もう時間だ。
1R終了のゴングが鳴らされ、私は何とか自コーナーへと戻る。
「奈津美さん、お見事です。しかし、あぶなかった。
あれ? まるっきり奈津美さんじゃないですか?」
「うん。さっきのフックで磯野正がKOされちゃった。
メガネ君、どうしよう……」
「奈津美さん、落ち着いて。磯野正がいなくとも、あなたは日本有数の空手家だ。
絶対に勝てます。ましてや、ボルガノフは左手を負傷している。
離れた間合いから、軽い攻撃でいいから左手に当てるんです。
動きが悪くなったら、跳び膝蹴りで勝負ですよ」
「そんなに上手くいく? だって、あの人、撃砕に耐えたんだよ?
私の跳び膝なんかじゃ、とても」
小森君が、私の顔を両手で叩いて、はさんだ。
「メガネ君、痛いっ。さっき殴られたんだから」
「えーい、だまらっしゃい! 奈津美さん、あなたは普通の人間では立てない舞台に立ってるんですよ。
おまけに、2回戦では、ブラジリアン柔術の猛者を倒してる。
そのあなたが、何と弱気な発言をするんですか!」
「だって、それは磯野正がやったんだし」
「まだいいますか? そんなこという人はこうです!」
小森君が、目を瞑って、キスしてこようとしたので、私はびんたした。
「ちょっと、どさくさに紛れてなにしてんのよ!」
「おーう、みすていく。奈津美さんを間近で見てたら、ついついムラムラと。
しかし、元気でましたね。
奈津美さん、奈津美さんは男と女が混じりあっているときが一番強い。
あなたの強さは、けして、磯野正一人におんぶにだっこじゃないんですよ。
それにさっきは、磯野正だけで五分以上の戦いをしていた。
半身であるあなただけでも、五分以上の戦いができて当たり前じゃないですか!」
「そう? そうかな? そうだ。そうだよね!
私、やる。やってみる。これに勝ったら、伊藤さんとできるんだもん。
絶対に勝つ!」
「そうです。その意気です。では、最後に魔法をかけてあげましょう」
そういうと小森くんは、目を瞑って両手を広げた。
「ユッケン、ビロリン、ハネノリン。はーっ!」
小森君が私の胸を掴んだ。驚いたけど、きっとこれは何かの暗示だ。
私は胸を揉んでいる小森君をじっとみた。
「あれ? 嫌がらないんですね」
「だって、これも何かの暗示でしょう? 私、がんばるよ」
「いえ、これは単に僕が触りたかっただけです。えへへへ」
「この変態小僧!」
私が小森君を殴り飛ばすと、セコンドアウトの放送が流れた。




