第九話:旧
「とりあえず、この壁に沿って歩いてみないか?」
優樹が、難しい顔をして頷いた。
「どこかに出口がある可能性も無いとは言い切れないし、この場で留まって良い案が出るとも思えない」
パッと見て解けない数学の問題も、とにかく数式を変形していけば答えに辿り着くことがあるし、そんな感じだ。わからないなら歩けば良い。下手の考え休むに似たりとも言うしな。
右手を見えざる壁についたまま、反時計回りで進んでいく。壁は道に沿って張られているようで、建物を迂回したりする必要性は無かった。
また、ふと思い立ってドラキュラを憑依させこの空間の高さを測ったところ、大体五階建ての建物からプラス一メートルくらいの所が限界高度のようだった。建物の中に入り、たまたまあった階段を下りて地下に進んでみたが、その距離も同じくらいである。上下に二〇メートルずつくらいと、徒歩十五分程度で一周できるような大きさの空間――それが、今俺たちが閉じ込められている世界の全容であった。
「ここで一周、だよな」
「特に……何も、なかった」
一周してわかったことは、この空間が球状になっていることと、出口が見つからないことくらいだった。
「この壁、壊せないかい?」
そう言えばまだ試していなかった。
魔術で編まれたこの結界、物理的ないしは魔法的にぶち壊すことはできないか?
もし打ち破る事が出来るのなら、それに越したことはないだろう。なんらかの謎を解けば脱出できる結界なのだとしても、ルールが明示されていない現状、ゲーム盤をぶち破ってみてもルール違反にはならないだろう。
「単純な物理攻撃力なら虎姫が一番か?」
「そうだね。僕やクロウはどちらかと言えば魔法職だし、一度小手調べに、虎姫にかましてもらおうよ」
「わか……った」
頷く虎姫が服を脱ぎ捨て、虎の姿になった。脱ぐ必要があったのだろうか。どうせ服は優樹が無尽蔵に出してくれるのだから、着たまま変身して破いてしまっても問題ないと思うのだが。いや、恥じらいなく全裸になる虎姫を見飽きたとかそう言うわけじゃないけど。
「服が破けて全裸になる方がエロいような気がするんだよなあ……」
「俺は全然まったくちっとも、ユージュと似たような思考を持ち合わせていませんでしたのよ!?」
「御主人。準備、できた」
虎姫――いまや前足の爪先から肩までだけで、俺の身長と同じくらいある虎と化した虎姫と、視線が合う。黄と黒の柔らかな毛が風に揺れ、その中に押し込まれた大質量の筋肉が躍動する。
一度身を屈め、飛んだ――
「ガァァ――――!」
吠え声が天を裂く。
硬く鋭利な剛爪が壁を掴み、引き裂かんと振り下ろされた。黒板をひっかくような嫌な音を何十倍にも強くした異音を発して空間が撓んだものの、破壊するには至らない。
視界の隅で優樹が耳を抑えてうずくまるのが目に入る。
「大丈夫か?」
「ああ、うん、たぶん……」
黒板をひっかく音とか、ずっと苦手でね……と告げる優樹の顔色は紙のように真っ白だ。俺の髪のように真っ白だ、なんて同音の言葉で遊んでいる暇はありませんね。
しゃがんで優樹の背中をさする。
「立てそうか?」
「ちょっと今は無理かも」
「どこか建物の中に入ろう。ベッドくらいあるだろうから、そこで横になった方が良い」
俺は黒板の引っ掻く音とかが大丈夫な割と珍しいタイプの人間であり、先程の異音でのダメージは受けていない。ただ、なる人は黒板をひっかく音だけで体調が悪くなったりするのだから、先程の、通常の何十倍もの大きさの異音だと、軽くどころか重めの体調不良を訴えたりもするだろう。
お姫様抱っこはする方はもちろんだが、される方もそれなりにしんどいと思う。だからせっかくお姫様抱っこが出来る機会を涙を呑んで見逃して、優樹を背負った。人間らしい重さが伝わって、いつも少し高めの体温が背中越しに伝わってくる。花の香りが鼻をくすぐった。また言葉遊びか。
再び人型に戻った虎姫を伴って、すぐ傍にあった建物に入る。
「建物内……生物の反応、なし」
虎姫がレーダーの代わりをしてくれた。五感のすべてが鋭敏って、デメリットも多いだろうけど、やっぱりこういうときは羨ましいなあと素直に思う。普通に便利である。そういえば虎姫は、俺や優樹なんかより何倍も耳が良いはずなのに、先程の異音は大丈夫らしい。戦いの最中、そんなこと言ってられない、だとか。集落の周りにもっとうるさい音を発する禽獣が住み着いていたらしい。ちなみに肉は美味、と、彼女は付け足した。
ベッドは、二階の部屋にあった。依然目に見えて体調の悪そうな優樹を寝かせる。
「ありがとう、クロウ。虎姫」
恐らく不調からだろう、少ししおらしくなった優樹がやけに眩しくて、別に、とぶっきらぼうな返事を返してしまう。そんなつもりは無かったのに。
とにかく。
「とにかく、ユージュ、お前は寝ておけ。すぐ良くなると思うから」
「うん。たぶん、三〇分くらい横になっていれば治ると思う。生理痛の方が酷いから大丈夫」
「下ネタ言えるならまあ心配することはねぇな」
あながち空元気とかそういうわけでもなさそうだし。
そりゃそうか。体調が悪いと言っても、異音を聞いたことでほんの一瞬調子がおかしくなっただけだろうし。
三〇分で復活すると言っているし、彼女が復帰するまでは壁の破壊はお預けで良いと思う。魔法での破壊をまだ試していないが、彼女が寝ている間、そのことについても考えたい。
「それじゃあ少し寝させてもらうね……」
「ああ。しっかり休めよ」
そう言ってからしばらくして、優樹は小さな寝息を立てはじめた。その時、虎姫が小声で聞いてくる。
「御主人」
「どうした?」
「ユージュ、は、どうして……体調、悪くなった? わたしの、せい……?」
「……ああ、そのことか。人間はな、さっきみたいな音が苦手なんだよ。俺みたいに平気な奴もいるけど。……別に虎姫のせいってわけじゃないし、気に病むことはないからな?」
首肯。
「これから……都合の悪いときは、この音でユージュ、撃退……」
「するなよ!? ダメだからな!?」
絶対だぞ!?
思わず叫んでから、虎姫が薄く微笑みを浮かべていることに気付き、浮かしかけた腰を下ろす。簡素な丸椅子がかすかに軋んだ。
「御主人、思いつめた顔してた。……落ち着いた?」
「……ありがとう」
☆☆☆
「ユージュちゃん、完全・復活! なのだ!」
宣言通り、ほぼ三〇分後に目を覚ました優樹の第一声がそれだった……ん? なのだ……だと?
「お前、まさか」
「その通りかしら、旧・空の王こと私なのだ!」
目を見開くと同時に立ち上がり、叫んだのは優樹の姿をした別者――旧・空の王という別人格であった。本人たち曰く、今は一つとなり、ほとんど旧・空の王の意識は無いとのことであったが――
「私は常識に縛られないのだし! ……まあ自分でもどうして意識の主導権がこっちに来ているのかわからないんだけど」
「いったい何しに出て来たんだ?」
虎姫が優樹の変貌に怯えているじゃあないか。おっかなびっくり、俺の背後に隠れた虎姫が歯を剥いて威嚇する。虎というより犬みたいだな。
「まあどうして出て来れたのかはわからないけれど、今はこの体、九割くらいは私の物だから、とりあえずしばらくはよろしくなのだし」
「元に戻るのか?」
戻らなければ困るんだがな。
「そのうち戻ると思うのかしら? たぶんしばらくは私が出たままだろうけど、そのうちまた消えると思われるのだし」
「……今すぐ元に戻ることは」
「不可能なのだ!」
久しぶりの自由に心躍らせてか、目を爛々と輝かせてユージュが飛び跳ねる。
「ちなみにお前たちと対立するつもりはさらさらないのだし。大人しくしているから、自由に振る舞うことを許してほしいのかしら。当然この体を傷つけたりしない」
「当たり前だろ。借り物だと思って大事に扱えよ」
感謝するのだ、そう言って優樹は、フェアリーテイルで出した服に着替えた。一々脱ぎ着せず、来ていた服を消去し、その上から新しい服を直接生み出すという方法である。その工程は一瞬で行われ、優樹の肌が晒されることは無かった。というか普段からこれが出来るのならそうしてくれよ……優樹……まあ眼福なので良し? いや、やっぱり恥じらいないから無し。
「それじゃあこの空間、さっさと破壊しようかしら」
そういえば優樹と旧・空の王は記憶を共有しているのだったか? それなら、ここまでのいきさつを一々話す必要性が無い……よな。つまり今、俺たちが結界のようなものの中に閉じ込められていることも承知しているということにで良いのだろう。
というか、そんな簡単に破壊できるものなのか?
「私にかかれば余裕なのだし。結界の壁見れば大体構造が分かるし、さっき触ったから完璧に把握した。世界を創造するのは私の得意分野なのだから――こんな紛いの世界、私の足元にも及ばないのだし」
これはもしかしたら、とても頼もしい奴が仲間に加わった瞬間では無いだろうか。
ユージュを連れて、建物の外に出る。
結界の壁はすぐ目の前だ。
「あー、はいはい、なるほどなのだ。この程度の結界なら余裕で壊せるのだ」
「それならさっさと壊して――」
俺がさっさと壊してくれ、そう言おうとした時であった。壁に右手をついていたユージュが、首だけでこちらを向き、言い放った。
「デート。私としてくれるかしら?」
「は!?」
「これは主人格に引きずられたわけじゃないと思うのだけれど、どうも私は、この前からお前のことが好きなようなのだ。一回で良いからデートして欲しいのだ」
虎姫が俺との間に立った。
「御主人は……わたしだけの、もの。誰にも……譲ら、ない」
「虎姫、お前も一緒で良いのだし。どうせその鎖は外れない――って、その鎖、もとからそんなだったかしら?」
元から?
どういうことだ?
俺の左下腕と虎姫の首の間を繋いでいる鎖に視線を移すと、数本ある鎖のうちの数本の表面が煤けてしまい、少し溶けかかっていた。
「溶け……はあ!? なんで溶け……これって地の王の疑似神格が宿った、絶対に壊れない金属で作られた枷じゃないのか……?」
「わたしと御主人の……結婚首輪、が」
虎姫の背後に修羅を見た。
オーラとか吹き出しそうなくらいに怒りが噴き出しており、人間よりいくらか長い犬歯が剥き出しになる。八重歯みたいで可愛い、とか若干現実逃避的なことを考える。
「ガルーダ……次に会った時は……殺す。殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロス……――」
「お、落ち着けって虎姫! そもそもガルーダはもう……」
「あれは偽物……結界内で設定された動きをするだけの……操り人形。本体を殺す。そのほか目についた敵は全部……殺、す。わたしと御主人の愛の証に傷をつけた。死んで償わせる……絶対」
や、ヤンデレだ。目には狂気の光が輝いている。
甘引いた。
「落ち着けって虎姫! ほら! 壊れてはないだろ、ほら!」
鎖を持ち上げて、見せる。一部が溶けただけで、別に壊れてはいない。どこかが千切れたわけでもない。
「それに、次にガルーダに出会ったら、俺もぶん殴る用がある。だから、殺す前に貸してくれ」
優樹の件だ。愛する人を燃やされたら誰だって怒るに決まっている。というかそもそも、そんな経験をすること自体が稀有すぎて、モノの例えにすらなってくれない。
「悔しい……」
虎姫は、涙を流している。俺は正直騙されて結婚したようなものなので、結婚首輪自体にここまでの思い入れは無いけれど……
ただ、目の前で泣かれたら。
今回ばかりは、優樹には目を瞑ってもらおう。虎姫に少し屈んでもらって、頭を撫でる。
「落ち着け。な?」
「うん……」
この場にいるのは旧・空の王であり、俺のことが好きな優樹ではないけれど――なぜか彼女が頬を膨らませているのが目に入った。
☆☆☆
「それじゃあ壁を壊すのだしっ」
「なんか怒ってる……?」
「普段は優樹の人格に引きずられるからだけど……今は私だけの意識があるのだし」
「どういう意味だよ」
さっぱりわからん。
「とにかく壁を壊すから、お前らは下がっているが良いのかしら」
ユージュがそう言うので、俺と虎姫は数歩下がった。
簡単な詠唱をして彼女が手にしたのは、身の丈に合わないくらい巨大なハンマーだった。両手持ち用に長い柄のついた、一目でハンマーとは分かりづらい、機槌。ハンマーの中心に、闇に濡れる目の紋様が彫られて――いや、張り付いている。現にその眼はぎょろぎょろと辺りを睨み、ちょっとありえないレベルの恐怖感を振りまいていた。
「これは魔法を食い破る槌なのだし」
ハンマーが揺れるたびに、真っ黒の瘴気が振りまかれる。
「御主人……」
不安げな瞳を揺らして、虎姫が俺の服の裾を摘まんだ。
それを見たユージュはなぜか顔をしかめ、舌打ちをした後、大きくハンマーを振り上げる。
「クロウのアホぉぉ――!」
ガラスの割れ散るようなエフェクトに反して――無音で結界が割れ消える。
結界が壊れたのだ。
……クロウのアホって、どういう意味だ……?
ユージュが再登場ですな。
――次回――
「なるほど。思ったよりも結界内では時間が経っていたみたいだな」
―――(予告は変わる可能性アリ)―
では。
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