第二十一話:復讐
雷が迫る。
至近距離、避けられない。
体が軽かった。早く動けそうとか、そういう軽さではない。今まで俺の中で、辛うじて海の王の力に押し負け燻っていた大質量の「空の王」が、体内から失われたのだ。
地面に着いた膝を再び持ち上げられる気がしない。
危険を感じた時、脳はその危険を回避するために必要でない感覚をシャットダウンしてしまう――そんな話を、どこかで聞いたことがあった。無音の世界で、雷帝龍の拳に纏う雷がやけにゆっくりと突き進んでくる。
避けられる気がしない。体は微動だにしてくれない。
視覚だけになった世界、俺と雷帝龍のみの世界に――しかし、声が差し込まれた。
「マスター・クロエ――」
雷帝龍の右拳が横っ面から叩かれたせいで、その軌道が逸れる。己の拳に体を引っ張られ体勢を崩した敵に、丁度左の肩甲骨から右胸にかけてを突き抜けるような衝撃。
――アジィアステが拳の軌道を逸らし、体勢が崩れた雷帝龍に霊衝を打ち込んで、地面を舐めさせたのだ。
「――冷床」
いつぞやヤマト・タタールで俺も同じ技を受けたことがあるが……これほどまでの荷重がかかっていただろうかというレベルの大質量が雷帝龍を地面に張り付けにする。敵の体が十数センチ地面にめり込んでいた。
「ぐ……なんで、ヨルグサンダーがおるんや……」
あれだけ押さえつけられてなお、それでも声を発する事が出来るなんてと少し驚く。俺はとてもじゃないが、あれだけの荷重をかけられたら喋れない。
しかしその雷帝龍の言葉を無視して、アジィアステは俺に言葉を作った。
「マスター・クロエ。御無事ですか」
彼女は雷帝龍に両掌を向けたまま、こちらを向かない。あるいは表情を見せないようにしているのかもしれなかった。その顔に浮かぶのは、怒りか、悲しみか――
「あり……が、とう。助かった」
「そうですか。それは良かった」
彼女の金髪が風に遊ばれてなびくのを見て、ふと不思議に思った。日傘を差していない。そういえば両手が自由になっている。もしかしたら、それが彼女の本気ということなのかもしれなかった。片手よりも両手使える方が戦いやすいに決まっている。
俺はその場で立ち上がると、膝の砂を払った。血が滲んでいるが、さすがにこの程度では血の眷獣は暴れないようである。そういえば腹の傷も塞がっていた。血を吸収することで吸血鬼の力を開放した時、右腕が生えるのと同タイミングで塞がったようだ。つまり吸血で自己強化と回復が出来るわけだな。遅れて自分の能力を把握。
続いて、空の王の力が失われたことでのステータス変動の確認をする。
「えっ」
驚きの声が漏れていた。
「マスター・クロエ。空の王の力が失われたとのことですが――もしかして、力が上がっているのではありませんか?」
「うん、いや……ああ、えっと、そうだな。ステータスが倍くらいになってる……ぞ」
空の王を憑依させていた時とは大幅にステータスが違った。本来なら弱体化しようものであるのに、その数値は二倍、MPやHPなんかは三倍に届こうかというようなところまで数字を伸ばしていた。攻撃力に至っては「空の王」がまだ残っていた時の五倍近くある。
空の王の力が失われたことで……俺の力が強化されていた。
「相殺し合っていた……力、が、失われたから……本来、の、『海の王』としての力が……蘇った、の」
虎姫が囁くように言った。
今にも俺に牙を突き立てんとするような表情であるが――俺も同様に、今にも彼女の柔らかそうな首筋に爪を、牙を突き立てそうである。
海の王と地の王の対立――今までは俺の中で「空の王」と「海の王」がうまい具合に打ち消し合っていたがために、「地の王」虎姫とはほとんど対立することがなかったのだが、今、その「空の王」が失われてしまったことで、俺の中で「海の王」が肥大化――それゆえに、今、俺と虎姫は、お互いへの殺意を抑えられずにいるわけである。
いくら「海の王」の本体である神槍グングニルがヤマト・タタールにあるとはいえ――生物としての「海の王」はこの俺だ。
「お前の血が欲しい」
「御主人様の肉を食べたい」
犬歯がさらに伸び、爪が硬化する。
虎姫が犬歯を剥き出しにし、その体のほとんどを虎に変えてしまった。八割が獣――虎としての怪力をほぼすべて引き出しつつ、人間の柔軟性を扱う形態である。
「マスター・クロエ! 虎姫!?」
「ぐ、は、はは――! なんや! 仲間割れか! この雷帝龍を放っておいて仲間割れとかなんや、面白いやんか!」
「く……アンダーグラウンドが……持ちません!」
背後――いまや、俺はアジィアステと雷帝龍に完全に背を向けてしまっていた――で「外野」が何かを騒ぐが、俺の知ったことではない。今は虎姫の首筋にかぶりつくことだけが最優先事項である。血が欲しいのは、今俺が吸血鬼を憑依させている影響もあるだろうが、どちらかといえば「海の王」として「地の王」を血祭りにしてやりたいから、というのが大きかった。
いや血も欲しいけど。
「今のうちに逃げるのかしら! サン!」
「ちょ、待てや! なんでそう毎回毎回、僕ばっかり除け者にするんや! 僕かてもうすぐ大人やで!? 子ども扱いすんなや!」
虎姫が地面を蹴った。
瞬きの瞬間すらはるかに凌駕する圧倒的速度で、一歩を右に振り、俺の左体側を薙ぎ払うようにすれ違う――
「――ように見せかけての、正面!」
虎の剛爪を、強化された長爪で絡めるように受け止める。お互いの爪はこれ以上ない程に強化・硬化され、微塵も折れる気配が無かった。
「ぐ……どうして、わかった……」
「そりゃ寝食ずっと、それこそ起きてから次の朝起きるまで一緒にいればわかるようになるっての!」
弾く。
器用にもバックステップで飛び退く虎姫に構えを取った。
「わたしも……そんなことなら、わたしも……一つ、わかることが……ある!」
「奇遇だな!」
背後から飛んできた雷を後ろも見ずに払い、虎姫の言葉の続きを待った。
「御主人様は! ――邪魔ッ!」
二言目の邪魔は俺に対して放った言葉では無い。いや、普通にずっと寝食を共にしてきた分かったことが「俺邪魔」だったら嫌だけれども、そうじゃなくて。
言葉を発しようと口を開いた彼女の正面に、俺を通り越した雷が飛来したのだ。それを「邪魔ッ!」の一喝で掻き消してしまった、と。
「というかさっきから――」
「鬱陶、しい……!」
鬱陶しいんだよ! 叫び振り返ると、虎姫の言葉とほとんど被ってしまった。
背後では、雷帝龍が雷を無軌道にばらまき、アジィアステは自分に飛来するそれを防ぐだけで手いっぱいのようである。
正直に言うと、もう地の王を血の王にすること以外に俺に優先すべきことは無いわけだが、それでもこれだけ背後で飛び回られるといささか不快なのだ。
「お、やっとこっちに振り向いてくれたん。ちょっと寂しかったわ、なんか無視されてるみたいでな」
どことなく嬉しそうな笑みを浮かべながらそう言う雷帝龍。
「海の王は、初代から今までの力をすべて継承する」
「は? 何言ってんのや」
前代、シルフェリア・プラント。水を操る魔法を得意とする。
そして、いま大事なのはそのさらに前だ。前々代、凍霊龍モルガリン。冷気と霊気を操るドラゴンである。
「霊気を操る事が出来るってことは、だ」
右腕を前に突き出した。
もちろん人間の腕一本で届くような距離に敵がいるわけではない。だが、その腕の延長線上には雷帝龍がいる。
「当然、こんなこともできるに決まってるよな」
突き出した右腕を握りこんだ。
腕の延長線上――敵の胸の辺りが、まるで空気に溶ける様に消えていく。
「雷帝龍、お前に一つ大事なことを言っておく」
「なんや、言うてみ。オチもちゃんと用意せえよ」
己の胸をぐずぐずに抉られているというのに何も感じる事が無いのか、雷帝龍はその表情を一片も崩さない。
「アジィアステ、ごめん」
彼女には先に謝っておいた。今から俺が言うことは、彼女にとっても、サンにとっても、決して愉快なことではないからだ。
マスター・クロエ、何を、と、アジィアステが言いかけたのを左手で制し、横目でサンとユージュを確認する。彼女たちが無事に逃げだしてくれていれば、あるいはもっと穏便に済ませられたのだろうが……今、それを言ったところで仕方がなかった。
それに、何度も繰り返すが、俺の中で今一番優先順位が高いのは虎姫を殺すことなのであり、こんな細かい所にこれだけ気を遣っているわけだから十分だろう。
「雷帝龍、お前は、アジィアステに殺されているんだよ」
「そんなん知ってるわ」
サンが一瞬呆けたような表情を浮かべたのを見て、俺は彼女を意識から追い出した。
「お前は、悪霊として、化けて出ている」
「その通りやけど?」
雷帝龍に伸ばした、見えざる手で繋がったことによってわかった事実を、淡々と本でも読みあげるかのように言葉にしていく。霊気を操ることで不可視の右手を作り出し、死霊術師の力を使うことで悪霊、すなわち「死霊」である雷帝龍の魂を読んだのだ。
「国から水を奪ったのはなんでだ?」
「昔から国に災いが起こったら雷帝龍に墓参りする決まりやからな。そのうち誰か来ると思ったんじゃ」
しかし、いくら読めるといっても何でもかんでもというわけではないので、こうして読み上げた情報を確認する作業が要求されるのである。この雷帝龍は自分の意志で化けて出ているようなことをにおわせているから、もしかしたら自分の魂の情報の書き換えをすら行っているかもしれない。
もちろん雷帝龍の言葉がすべて本当であるという保証はないが、ある程度の嘘発見器程度の事なら、やはり死霊術師の力でどうとでもなるのだ。
「そうか、大体わかったよ」
「気ィ済んだか。せやったら、また勝負再開ちゅうことでええんやな」
右腕の霊気を消し、雷帝龍を開放すると、それを待っていたと言わんばかりに敵は雷を放出し始めた。
今にもかかってこんばかりの殺気を漲らせた「笑顔」に、まだ少し畏怖をすら覚える。
だが。
「その必要はねえよ」
「ワシとは戦わんゆうんか!?」
憤る――いや、憤ってみせる雷帝龍に、俺は左手の人差し指を突きつけた。
「お前は、死にたいだけなんだろう?」
返事は帰ってこなかった。沈黙は是なり――俺の座右の銘の一つである。
霊気を最大放出し、雷帝龍を包むようなイメージ。
目を瞑ると、脳内に浮かぶのは体内のしこりだ。今や霊気全体が俺の体と化している。その中で黒く固まっているのが雷帝龍――の、霊魂。凝り固まったそれを、冷気で優しく包んで解し、囚われた魂を開放――
もの凄い量の情報が、雪崩の様に俺に押し寄せてきた。
そして、すべてを悟る。
雷帝龍は、悪者ではなかった。
ただ、それだけの話である。
しかし、種族の性質上「殺してくれ」なんて、それこそ文字通り、死んでも言えないわけであり、自分より強そうな相手を求めていただけなのだ。自分を成仏させてもらうために。再び、永遠の眠りにつかせてもらうために。
彼は、アジィアステに殺された後、自分が霊体の状態で現世に召喚されていたことを知った。せっかく己より強い雷帝龍を生み出し、自分より強い者との戦いの中で死に、満足していたというのに――
今回に限って言えば、というのは間違いか。
俺は、そいつの名前を口にした。
「はい、なんでしょうか――マスター・クロエ」
今回も。ヤマト・タタールの事件から続いて起きた、今回の事件も。
「お前が、黒幕だな」
その通りでございます、という彼女の肩には、日傘が躍っていた。
「お前が、雷帝龍を殺した後に霊体として召喚したんだ」
「その通りです」
アジィアステの小麦色の皮膚が、ところどころ白くなりはじめている。よく見れば、黒い部分はまるで生物のように蠢いていて、更に目を凝らせば、それが文字であることが分かった。
「この骸骨のお面、お爺様の頭蓋骨なんですよ。地縛霊としてこの場所にお爺様を縛り付ける触媒を兼ねて、お面に加工したんです」
でも、もういりませんね。
アジィアステがお面を外すと、そのお面を追うように、彼女の身体中の文字がそれを追いかけた。緩慢な動きで地面に放り投げられるお面に、アジィアステの全身から剥離した文字は一斉に群がっていく。
「わたくしから力を奪ったお爺様を、殺した程度で終わらせるつもりなんてありませんでした。凍霊龍の力を備えていたのは偶然でしたが、そのおかげで、死んだ後もお爺様を苦しめることができました。地縛霊として、世界が滅びるまで、この何もない火山を彷徨い続ける呪い――わたくしがヤマト・タタールにいた間に、入口を作られていたみたいですけどね」
聞けば、この空間を作ったのはやはり迦楼羅天だという。
棄てられたお面は、黒い文字群に群がられ、そして頭蓋骨に変形した。いや、元に戻ったというべきか。
「結局マスター・クロエに邪魔されてしまいましたけど、わたくしは、もう、満足――」
そこで、アジィアステの姿が掻き消えていた。
海の王の力を百パーセント引き出せるようになって、視力も大幅に強化されている俺の目でも追う事が出来ない動きであった。
「――するわけ、ないやろ」
声は背後。
丁度、意識の外に追いやっていた、サンの方向から聞こえた。
素早くそちらに体を向けると、丁度サンの首根っこを摑まえたアジィアステが飛び上がるところであった。
「ウチの復讐は、力取り戻してこのボケ殺すまで終わらんのじゃ!」




