第十九話:記憶混乱
凍霊龍の後を継いだ小娘が気に食わなかった、と、アジィアステは言った。
「まあ、人間の候補は全員殺しましたし、そのせいでまだ幼かったシルフェリア・プラントが海の王を継ぐことになったわけですが……まあ、これは良いのですよ。なにせ、彼女は亜人――人間ではありませんでしたから」
そこで彼女は、初めて自分の紅茶に口を付けた。
口を離して、不味いですね、と言ってカップを置く。それきり手を付ける様子はなかった。
「でも、人間と親しくしようとしているのに腹が立ちました。だから殺しました。そうしたら、怒ったマスターに殺されました。――サン。マスター・クロエは悪いことをしていませんよ」
「……クロウ」
「……大体、その通りだ」
ちら、とこちらを見たサンに、控えめな頷きを返す。
ユージュのことはもう本当に、一切合切の説明を放棄して完璧に置いてけぼりにしてしまっているので、しばらくそこでクッキー頬張っていてください。夜にでもちゃんと説明しますので。
「……ヨル姉は」
「もうすでに死んでいます。マスター・クロエに怒るのは間違いですよ」
サンはカップを手放した。椅子に浅く座り直し、身を乗り出す。
「どんな理由あっても、姉ちゃん殺したのは事実や。でも、悪いのも姉ちゃんなんやろ、多分。クロウ――」
「お前の姉ちゃんを殺してしまったのは謝る。ごめん」
頭を下げた。
確かに、殺す気で戦わなければ今頃死んでいたのは俺の方だったのである。でも、だからといって、本当に殺すことは無かったのではないか? 言われてみれば、その通りである。相手を上回る強大な力を手に入れられたので、安易に、簡単に、そいつを殺しました――
そこまで考えて、命を奪ったことに何も思わない、思っていなかった自分に気付き、鳥肌が立った。ゾンビにすればどうせ復活するのだから、殺してしまっても問題がない……?
「御主人様!」
虎姫が叫ぶ。
揺れるテーブルクロス、地面に叩き付けられ割れるカップとポット。俺は椅子を倒して立ち上がっていた。吐き気、眩暈。視界が揺れる。地面が迫る。ぶつかる。泥濘に頬が擦れ、微かな痛みが走る。誰かが俺を抱き起してくれたが、それが誰かはわからなかった。
意識が、そこで途切れたのである。
☆☆☆
「ひゃ、モンスターが出ましたっ!?」
「うーん、半魚人かね?」
……声?
聞いたことがあるような気がする。
懐かしいような気もするし、まるで知らない声のような気もする。
ただ、言葉の意味はよくわからなかった。
半魚人……身近で魚人と言えば、真っ先に思い付くのはシープラか。
ただ、彼女はモンスターではない。だから恐らく、当てはまらないだろう。
「誰だ。……誰だ!」
視界は閉ざされている。
真っ暗に閉鎖された世界、何も見えない。
両腕の、いや、全身の感覚が無い。聴覚以外で外界を感じられなかった。
「ああ、起き上がらないでね。まだ麻酔が抜けきってないと思うから。……ここは病院で、黒くんの病室」
声は聞こえる。自分の声も――誰のものかわからない声も。
黒くん。思い出した。俺には、俺の事をそう呼ぶ姉がいた。
しかし、俺が姉ちゃんと呼ぶ人物もいなければ、そもそも俺に姉はいない。
矛盾している。
でも、姉はいた。いなかった。いる。いない。
――――俺は、きっと一生、この人を泣かせたことを後悔し続けるだろう。
これは、俺の声か。
この人。それは姉の事だ。俺は、姉を泣かせたことを後悔し続けるだろう、と、思っている。過去にそう思った。でも、俺に姉はいない。
もしも俺の姉が殺されて、その犯人が「殺されそうになったんで殺した」と言って出て来たら……俺は、その犯人を許すだろうか。しかし、俺に姉はいない。
俺の姉が凶悪犯だったとする。テロを起こし、誰かを殺してしまった。その遺族が仕返しにと姉を殺した。その姉の遺族たる俺に、姉を殺した遺族を殺してはならない道理はあるだろうか。いや、ない。他人に何かを施すということは、自分にも施しが返ってくるかもしれないことを意味する。それは、復讐だって同様だ。怒りは、悲しみは連鎖する。だが、俺に姉はいない。
俺に姉はいない。
俺に姉はいる。
俺に姉はいない、いる、いない、いる、いない……
「まず大前提としてだけど――お姉ちゃんは、黒くんのことが、一人の男性として好きで! だからお姉ちゃんの黒くんが他の女と仲良くしているのを見るのが嫌で、それで!」
いない!
俺に姉なんていない! いたことなんてない!
なら、この声は!? 過去の記憶か!? そんなわけない! 俺に姉なんていたことは無いのだ! 絶対に、無い! 神にでもなんにでも誓って良い、無い!
☆☆☆
「――ぁぁあッ!」
「御主人様! 御主人様!? 大丈夫!?」
ぼやける視界。体が半分ほど沈んでいる。横になっている? なにかに寝かされているようだ。
「御主人様! 大丈夫!? また急に――」
「すいません」
目覚めた俺に声をかけてくれる長身の女性。
虎みたいな派手な髪色、ひらひらのドレスと運動服の中間みたいな服装。
「――どちら様、ですか」
「御主人様!? わたしのこと、忘れたの!?」
「ごめん――思い出せそうにない、です」
この人との関係を思い出すこともできない。
いや、そもそも、俺が憶えていることはなんだ?
…………無い。ゼロだ。言葉を操る事が出来る程度。
「ごめんついでに、ですけど。『俺』って、誰、ですか」
「記憶……喪失? 御主人様の名前は、クロウ、って、いう――」
何かが弾けたように感じた。
自分の奥から、次から次に湧き出すように……
「――クロウッ! 思い出した! 思い出したぞ! 俺はクロウだ!」
自分の名前が呼ばれた瞬間、すべての記憶が元に戻った。今なら思い出せる。というか、このごくわずかな時間だけ記憶を失っていたことの方が今や疑わしい。
完全に記憶が戻ったことを告げると、虎姫に現状を聞いた。茶会の時に倒れてしまった俺と、またしても何のかは知らないがユージュとのじゃんけんで勝ったらしい虎姫以外を置いて、皆は前雷帝龍の七回忌に墓まで移動したらしい。ユージュとサン、ヒルデとバルサンの四人であり、アジィアステは俺が気絶したタイミングで消滅。
体を起こす。
「これは、ベッド、だよな」
「あってる」
記憶が混乱しているようで、どうにも物の名前があやふやだ。見て浮かんだ名前が、そのものの名前であるという確証を自分の中で得られない。
真白い部屋――見覚えがあった。ここは、サンの部屋だ。そのはずだ。
「なんでここに?」
「一番……近く、だったから……?」
立ち上がろうとすると、眩暈に襲われ倒れそうになる。ふらついたところを虎姫に支えてもらって、なんとか地に足を着けた。
「まだ……寝てて、御主人……様」
虎姫に抱えられ、ベッドに。大丈夫だ、と、彼女を手で制し、ベッドの縁に腰掛けた。
「ユージュたちが出かけたのは何時だ?」
「二、三時間前くらい……もうすぐ、帰る……はず」
どうにも頭がすっきりしない。真白い靄がかかったみたいである。
視界の隅に視線を送り、現在時刻を確認すると午後四時となっていた。昨日の俺の最後の記憶から考えて、丸一日眠っていたことになる。
「噂をすれば……皆、帰って来た……みた、い……」
虎姫が小さく鼻を動かし、教えてくれた。そのしばらく後、二人の少女が部屋に入ってくる。よもや疑ったわけではないが、本当に帰ってきているあたりやはり虎姫のレーダーは凄いよなあ、と、一体何度目になるかわからない賞賛。
「クロウ! 大丈夫か!? 目ェ覚ましたんやな!?」
「ふ、ふん、私は別に心配などしていないのだし」
「サン、と、ユージュ。あってるよな」
指さし確認。もちろん正解、二人とも訝しげな顔でこちらを見た。
「いや、悪い、ちょっと記憶が混乱しているらしい」
「う、打ち所が悪かったのかしら!?」
「いや、別にどこも打ってねえけど……?」
それとも、覚えていないだけでどこかで頭を打ったのだろうか?
もしかしたらそのせいで記憶があやふやになっているのかもしれない。それでも大分マシにはなってきたのだが。
心配そうにこちらを覗き込んでくるユージュから目を逸らし、いや、と、首を振る。
「心配かけてごめん」
「し、心配なんてしてないのかしら! つけあがるなだし!」
「あー、はいはい」
ユージュが布団に手をついて身を乗り出し、ベッドが軋む。両の手の位置は俺のそれぞれの腿の外。間近から見上げられ、吐息すら感じられる距離。なぜか恥ずかしくなって、俺は照れ隠しに適当な返事を返していた。
「まあ、元気そうで良かったわ。良かったでな? うん、良かった」
サンが言い、ユージュが慌てて体を起こす。
あのな、クロウ、と、サンは続け。
「この城に来るときに通った龍の墓、あるやろ」
あれさ、ホンマに――あったんか?
彼女の言葉の意味が分からない。
「どういうことだ?」
問い返す。すると、帰ってきたのは要領を得ない返事であった。
「うん……えっとな、僕らァが通って来た『龍の墓』って、火山? みたいな感じやったやん? でも、あれってほんまに『龍の墓』やったんかな?」
「……どういう、ことだ?」
「あ、いや、あんな? 僕がちっちゃいころからよー知ってる美しヶ丘が別名・龍の墓ってゆうらしいんはさっき兄上から聞いたんやけどな? でも、今日行ったのも、そこやってん」
「はい?」
助けを求めてユージュを見ると、どうやら助け船を出してくれるようであった。組んでいた腕を解き、口を開く。
「私たちは、この城に来た時に通った道をそっくりそのまま逆回しで『龍の墓』に向かったのかしら。そうしたら、私たちが通った時には火山であったはずの『龍の墓』は、美しヶ丘の名に恥じない、小奇麗な丘に変わっていたのだし。なら、私たちが通ってきたあの火山は、一体どこに行ったのかしら、と、そういうことかしら」
「そうそれ! そんな感じのことが言いたかったんやけど僕も」
つまり、まとめるとだ。
俺たちが通ってきた火山の『龍の墓』は存在しない、または実は龍の墓ではなかった。
あるいは――『龍の墓』は二つ存在する。
大体このどちらかである、と、そういうことか。
それなら、
「明日もう一度現地に行ってみよう。明日は俺も行く」
☆☆☆
明けて翌朝。
もう体の調子はすっかり良くなっていた。ほとんどのものを久しぶりに見るような不思議な感覚に苛まれはしたが、それもほとんど落ち着いている。記憶の混乱ももう無さそうだ。
朝に城を出て、美しヶ丘、通称・龍の墓に辿り着いたのは良いのだが――
「確かに、何の変哲もない普通のお墓だよなあ」
この場合の何の変哲もない、とは、火山のような突飛な施設が存在しないお墓である、という意味である。
俺の記憶では火口があった場所に、小高く盛り上げられた土。辺り一面が背の低い芝のような草に覆われ、色とりどりの花が咲き誇っている。
その丘の中心には大理石のお墓がそびえ立ち、過去の雷帝龍の名前が彫られていた。
「ちなみに、その隣の小さい方が雷帝龍以外の親族のお墓なんやで」
サンが指差し教えてくれる。
周囲に背の高い木々は無く、丘を墓の方まで上ってみれば素晴らしい見晴らしであった。空には雲一つ無く、数羽の鳥が群れになって太陽を横切る。時折吹く風が髪を揺らした。
夏特有の湿気の高さ、それをわずかに紛らわせてくれる涼風。照りつける日差しでさえもどこか心地良い。
なるほど、これは確かに美しヶ丘だ。
これでは確かに、この前俺たちが見た「火口」の方が夢幻であったのではないかと疑いたくはなる。
でも――
「あ、御主人様……あれ」
虎姫が指を指した。
俺はそれに頷きを返すと、丘を下り、そちらに向かって歩いていく。
「なんや? なんか見つけたんか?」
丘をぐるりと囲む緑の壁、その割れ目がこの墓の入り口である。
その入り口からちょうど十数メートルほど、丘の裾野に沿って時計回りに入ったところにそれはあった。丘の上に登る道しかないために、普通はこんなところを通らないというような場所。
下草に紛れて、丘の上からでは確かに見辛かった――まあそれでも注意していれば丘の上からでも見えるわけだが――ものが、近づくにつれて見えてくる。
「これ、見覚えはないか」
「いや、無いけど」
焚火の後。
少しだけ下草が燃え、乾いた地面が露出していた。
「これ……わたしたち、が……焚火してた、場所……」
「というかなんでサンは覚えてねえんだよ」
「いや、細かいことは気にせんでええやん? 大雑把でええねん、大雑把で」
危機感が無い……のは、まあ当然か。
彼女には詳しい説明をしていないのだから。していないというか、できないわけなのだが。今日だって、火山が無くなっているのはなんでだろうなあ、ちょっと見に行くか的な適当な理由でここに来たと説明しているわけだし。
「な? 変やろ? 火山無くなってんねん。というか火山が無い方が普通なんやけど、それやったら火山はどこから出て来たねんちゅう話やわ」
今更だけれど美しヶ丘っていう表記なんかキモいですね←




