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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
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かちかち山

作者:
掲載日:2012/01/31

 



 この山に一人で暮らす狸には、長年心を焦がしている存在があった。

 それは人里にほど近い山すそに住居を構えた白兎で、一目見たときからその小柄で凜とした姿に魅せられたものだった。

 大柄でどこか愚鈍な雰囲気を持つ狸は、自分に無い魅力を放つ兎とどうにか懇意になりたくて、胸の情熱を臆すことなく晒してみせた。


「私には心に決めた人がいますから」

 にべもない兎の返事に眉を下げながらも、狸はこの恋を諦めることが出来なかった。来る日も来る日も兎に言い寄り、引き時を見誤って腐った死体でも見るかのような視線を向けられても懲りることはなかった。

 本心から気持ちをぶつけていけば、いずれ報われるものだと信じていたのだ。それは良く言って素直、悪く言って押し付けがましい考えであり、兎の気持ちを全く考慮していないという点では恐ろしく自己中心的なやり方だった。



 さて、兎のほうといえば話の通じない狸に本気で嫌悪を覚えており、どうにかして殺してやれないかと考え出す始末であった。兎とて鬼ではないから、狸と出会って間もない頃は礼儀を弁えた態度で接していた。狸が自分に恋心を告白したときも、想い人がいるからと真摯にきちんと断ったではないか。

 にもかかわらず毎日毎日兎を無理矢理引き止めては話しかける狸の締まりのない笑い顔。あの顔を思い出しただけで憎悪と嫌悪に鳥肌が立つ。腕を掴まれてしまっては振り解けない力の差も本当に腹立たしかった。


 殺してやりたいという欲求が日に日に高まっていく中の、ある朝のことだった。

 兎にしては珍しく朝寝坊をして、寝間着から普段着へ着替えるために服を脱いでいたところに狸が現れた。

 白い肉体を晒した兎に狸が朝から劣情を覚えるのは必至で、脚に脱ぎかけたズボンを絡めているせいで咄嗟に動くことの叶わなかった兎を寝台に力任せに押し倒した。

 両手を頭の上でひとまとめにされながらも必死に顔を背ける兎の首筋を舐め上げて、下着を脱がそうと狸が片手を下腹部にやった時だった。拘束が片手分の力になった隙を見逃さず、兎は渾身の力で狸の頬を爪で抉った。

 肉を削がれる痛みに仰け反り血の噴く頬を両手で抑える狸の横腹を力任せに殴りつけ、寝台から転がり落ちた狸の脳天を滅茶苦茶に蹴り飛ばした。怒りと殺意と屈辱で気が狂っていた。

 しかし所詮は力の弱い兎のこと、狸は這って逃げ出そうとしたし、兎も素手の暴行でこの獣の息の根を止められるとは思っていなかった。

 それでも何か自分の味わった屈辱の一部でも送り返さなければ気が済まず、部屋の隅に置いた排泄物を溜めている桶の蓋を開けて、狸の腹を踏んで仰向けに引き倒すと顔に中身をぶちまけた。

「それは私が肥料に使おうと思っていたものだ。肥溜めが似合いの貴様にくれてやる。死ね!糞狸」




 汚物をまともに浴びて嗅覚を犯されながら、狸はふらふらと水場を探して民家に辿り着いた。

 兎の家からそう遠くないその家には井戸があり、汲み上げた水で狸は顔を洗った。

 兎のものと思えばそう厭なものでも無かったが、やはり顔面に糞を垂れて歩くのは気が引けた。

 何だって兎はああも自分を拒絶するのだろう。まだまだこの熱い想いが伝わっていないのだろうか。兎の云う想い人とやらも気になる。死ねとまで罵られては流石の温厚な(愚かしくて嫌味に気付かない)狸も胸を痛めた。

 その時だった。井戸を使う音に家主が気がついたのか、引き戸の開く音が聞こえて狸は振り返った。


「兎どんか?」


 痩せた老人は手に野菜の盛られた皿を持って顔を出し、井戸に居るのが狸だと気付いて一瞬きょとんとした表情を浮かべたものの、すぐに「兎どんじゃあねぇならこれはやれねぇ」と皿を引っ込めた。

 狸はその瞬間直感的にこの老人こそ兎の想い人だと確信した。

 それはどういった絡繰りだろうか。暗愚で、直感などという言葉とは全く反対の位置にいるような狸であるのに、馬鹿者の勘というのもたまには冴えるものらしい。


 嫉妬に呑まれた狸は老人に襲いかかり、喉笛に食らいつこうとしたものの、激情に駆られて起こす行動とは往々にして上手くいかないものであり、狸が老夫婦の手によって天井の梁に逆さ吊りにされるのにそう時間はかからなかった。


「今夜は狸汁じゃ。若い肉からはよく出汁が採れようなぁ」

 嬉しそうな夫婦の会話を耳にして、狸は恐怖に震え上がる。

 老人が畑を耕しに行くと言って家を出てから、狸の側には老婆が監視するようにぴったりと控えており、ちくちくと縫い物をしていた。

「おばあさん」

 消え入るような狸の声に老婆が顔を上げる。

「おばあさん、御手洗いに行かせてもらえませんか」

 長時間吊られた狸の顔は真っ赤になって、額には汗が浮いていた。その顔を見て心根の優しい老婆は気の毒に思い、すぐにでも縄を解いてやろうとしたものの、夫から絶対に縄を解くなと強く言いつけられていたことを思い出して首を振った。

「駄目じゃ。わしを騙すつもりじゃろ」

「そんなこと……。お願いです、少しの間でいいんです」

 苦しげに眉を寄せて涙をポロポロと零す狸の顔は哀れな弱者そのもので、優しい老婆の心を動かすのは容易かった。




 その日の晩、老人の泣き声を聞いた兎は民家に駆け付けた。

 捕まえた狸に妻が殺され、自分は妻の肉で作った「婆汁」を知らず食べさせられたということ。事の顛末を聞いた兎は愕然として、老人の肩を抱きながら自分も泣きじゃくった。

 老婆の死と老人の不幸の痛ましさに泣きすぎて吐き気が込み上げてきたころ、これまでに無い程の狸への憎しみもまた押し寄せてきた。もう到底抑え込むことは出来ない殺しの衝動だった。

「おじいさん。必ず僕が仇を討ちます。狸を必ず殺してみせます。あいつがおばあさんにやったよりももっと惨いやり方で、必ず復讐してみせます」




 この老夫婦は、兎が幼い頃両親を野犬に喰われた時に命を救ってくれた二人だった。兎を護って先に死んだ両親の亡骸の後ろで為す術もなく震えていたところに現れて、野犬を鍬で追い払ってくれたのがあの二人だったのだ。

 幼い兎は心から感謝して、人間が採りに行けないような山の険しいところに生った果物やらキノコやらを届けてやっているうちに二人と一匹はすっかり仲良くなった。

 特に老人は豪放な性格で、冗談を言ってはよく兎を笑わせた。そんな老人に兎はいつしか惹かれていたものの、同じくらい老婆のことも大切に思っていたので勿論気持ちを伝えるつもりなど無く、このまま三人で暮らしていければよいと思っていた。

 その矢先の事であり、また、狸は自分に無体を働いたその足でおばあさんを殺しに行ったのかと思うと、剰りのことに兎は眩暈すら覚えるのだった。




 ◆


「狸。いますか」

 狸のねぐらに外から声を掛けた。

 中から寝ぼけたような声が返ってくる。ぱっと開けた扉の先に兎が居るのを見て、信じられないというように狸は目を擦った。

「驚いたなぁ。どうしてここに?」

「この間のことを謝りたくって。いくら恥ずかしかったからとはいえ、あんな風に乱暴な真似をした挙げ句、汚い言葉も使ってしまいました」

 お茶を濁したような兎の口調に、狸は一瞬何のことかを考えた様子だったが、すぐにいつもの媚びるような笑みを浮かべた。

「ああ、あのこと。気にしちゃいないよ。だけど、フゥン、そうか、恥ずかしかったのか。君はおれに裸を見られたのがそんなにも恥ずかしかったんだね……」

 今度はにやにやといやらしい笑みを浮かべる狸を今この場でしとめてやりたかったけれど、この獣は出来るだけ残虐に、なぶり殺してやらなければならないのだ。

 兎はぐっと堪えて、深紅の瞳を嬌態に濡らした。



「どこまで運べばいいのかな」

 兎が刈った芝の山を背負って、狸は問いかけた。

「二つ先の山まで」

 了解したと前を行く狸の背を見ながら、兎は狸が率先して量の多い重たいほうの束を取ったことを少々意外に思っていた。

 兎は朝早くから狸のねぐらの周りの芝を刈っていて、それを運ぶのを手伝って欲しいと依頼した。謝罪に来た筈の兎から用事を頼まれることへの不自然さすら何も勘付いていない狸は二つ返事で承諾し、機嫌よく兎とのデートを楽しんでいるところだ。

 初めの山を登り始めてしばらく経っても、相変わらず一人でぺらぺらと喋り続ける狸の後ろで、兎は隠し持っていた石を打ち始めた。

「うん?何か、変な音が聞こえないか。カチカチというような」

「そりゃあこの山はカチカチ山といいますから。恐らくこの不思議な音が名の由来なのでしょう」

「へぇ、初耳だなぁ。さすがに君は頭がいいや。ところで兎さん、隣を歩いてくれないか。顔が見れなきゃつまらないよ」

「あっ、余所見をしてはいけません。前を見て歩かないと、ここは石が多いので転んでしまいますよ」

「おれの心配をしてくれるんだね。わかった、わかった、それならそうしよう」

 へへへ、と嬉しそうに笑う狸の背中を氷のまなこで見遣った兎は、熾した火を大鋸屑にそっと移し、狸の芝へ投げ込んだ。始めのうちはぱち、ぱち、と静かに燃えていた芝に、兎がそっと息を吹きかけるとたちまち炎は燃え広がり、狸の背中を覆った。その途端ギャア、と狸は悲鳴を上げて、肩から荷物を降ろせばよいのにそのことにさえ思い至らず、ギャア、ギャア、と叫びながら大慌てでその場で一周ぐるりと回った後で、一目散に駆けていった。狸がいなくなったのを見ると、兎は「ふん」と鼻を鳴らして背負っていた芝を乱暴に投げ捨てた。




 あくる朝、兎は再び狸のねぐらを訪れた。

 葉っぱを積んだ寝床の上で今にも死にそうな顔をしている狸を見て、兎は内心愉快で愉快で大笑いしていたが、そんな感情はおくびにも出さずに、心底心配しているという風に言った。

「大丈夫ですか」

「いいや、ちっとも。背中が痛くって痛くって、食べることも眠ることもできやしない。どうしてこんなことになったのだろう」

「私もとっても驚きました。どんな不幸かわかりませんが、そもそも私が手伝いなど頼まなければあんな目に遭うこともなかったでしょう。そう考えると私は申し訳無さで自害してしまいたいくらいなのですよ」

「いや、いや。兎さんのせいじゃないさ。それに、おれたちまだ口づけもしていないっていうのに、死ぬだなんて言わないでおくれ」

 狸の勝手な妄想を聞き流して、兎は言った。

「貴方の為に、薬を買ってきたんです」

「おれのために、薬を?」

「はい。すこうし沁みるかもしれませんが、私が塗ってあげましょう」

 そう言って兎は、唐芥子と塩とそこらへんの虫の死骸を練り合わせて作った出鱈目な薬を入れた瓶の蓋を開けた。

 狸の背中はそれはもう酷い有様で、皮膚はすっかり焼け爛れ、肉が見えているところも少なくなかった。狸がうつ伏せているのを良いことに、兎は嫌悪感を剥き出しにした表情でその背中を見た。狸は痛みに苦しみながらも幸せで、それはひとえに兎が自分を見舞いに来てくれたのみならず、自分を心配して薬まで買ってきてくれた、その上それを手ずから塗ってくれるらしいという嬉しさによるものだった。

 たっぷりと手に取った薬は兎の健康な手のひらにさえ多少ひりひりとするもので、彼はそれを容赦無く狸の背中に、火傷の激しいところに特に念入りに、塗りつけた。

 当然狸は悲鳴を上げて、身をよじって逃げ出そうとしたが、それを見越して狸の腰に乗り上げていた兎の尻がそれを許さなかった。しかし半狂乱になった狸の力には兎の全体重を以てしても勝つこと能わず、勢い余って家を飛び出した狸の身体の上から兎は振り落とされ、どしんと尻餅をついた。彼の可愛らしい真っ白な尻尾は土で汚れた。




 それから三日ほど経った日のこと、兎のねぐらに狸が現れた。

「や、兎さん。この間はお薬を有難う」

「もう具合は良いのですか」

「いや、まだひどく痛むけれど、折角薬を塗ってもらっていたのに、逃げ出してしまったことを済まないと思って、謝りに来たんだよ」

 彼はわざわざそのために大火傷を押してはるばるここまでやって来たのだ。日が開いたのは、まともに歩けるようになるまで三日かかったということだろう。狸のこの行動は兎に好かれたい一心から来るものだったのだが、心の底から狸を嫌っている兎にしてみれば気味の悪い執着に思えて、ただただ不快だった。

「気にしないでください、あの薬は沁みるものですから。だけど、効果はてきめんですよ、ほら、この前見たときより良くなってる」

 兎は声を弾ませて大嘘を吐いた。明らかに傷の状態は悪化していた。

「ほんとうかい、おれには背中が見えないからよく分からないけれど、兎さんが言うならそうなんだろう。それを聞いて、元気が出てきた気がする。兎さん、ちょっとだけ、散歩に行かないか」

「いいでしょう、いいでしょう。そしたら、釣りに行きましょう。私が魚を捌いて、貴方が早く元気になるよう食べさせてあげましょう」


 狸は喜んで川まで従いてきて、この日のために兎が用意していた二艘の舟に感嘆の声を上げた。

「これはすごい。兎さんは器用だなぁ」

「ちゃちな舟ですよ。木で出来たのと泥で出来たの、二つありますが、貴方は身体が悪いから、柔らかい泥の舟のほうがよいでしょう」

「ああ、そうだね、有難う、有難う。兎さんがおれに優しいと、ほんとに嬉しい」

 にこにこと泥舟に乗り込んで陸を離れる狸を、馬鹿な奴めと嘲りながら、兎も舟を漕ぎ出した。


 川に出てしばらくすると、狸が舟の異変に気付いた。

「おや、なんだか、舟が……、わっ、大変だ。沈む」

 にわかに慌てだした狸の姿に声を上げて兎が笑う。

「兎さん、助けて、」

「お前はほんとうに馬鹿な男だ。泥の舟がどうして水に浮かぶことがあるだろう」

「どういうことだ、助けて、水が、」

「貴様のような腑抜けた屑に、おばあさんが殺されたことが何より悔しい。お前のくだらぬ命をもらったところで何の償いにもなりはしないが、生かしておくよりはましなのだ」

「ギャアッ、沁みる、背中の傷に水が沁む、」

 いよいよ舟が崩れて、狸は激痛に喘ぎながらも何とか泳いで岸に辿り着こうと考えた。そこに兎が木の舟をすいっと付け、狸に向かって櫂を伸ばした。狸はそれを兎が自分を引っ張り上げてくれるものと見て縋りつくべく手を伸ばしたが、兎はまずその手を払うと、続けて櫂で狸の頭や背や顔を無茶苦茶に殴りつけた。それでも狸が逃れようとするのを見ると、更に力を込めて頭を殴り、額を突き、背中を刺した。

「死ね!お前がおじいさんとおばあさんに与えた悲しみ、私に与えた辱め、一度の死では到底精算されるものではない、苦しめ、苦しめ!地獄に堕ちろ!お前が私と同じ山に住んでいること、いいや、同じこの世に生きていること、それを考えただけでぞっとする!吐き気がする!お前のその醜い顔が私に向けて腐った笑顔を作るとき、どんなに私が苦痛を味わったか、その糞の役にも立たないような脳みそでは到底考えもつかないのだろう、お前のようなどうしようもない阿呆は初めて見たし、もうこれから先二度と見たくない!ああ、もう、さっさと沈め、死に損ないの金玉滓野郎!」

 血まみれの狸が涙を流しながら、最期にもう一度だけ水面に顔を出し、「兎さん」と呼びかけようとした。

「その汚い口で私の名を呼ぶな!」

 狂乱した兎がヒステリックな声で叫び、狸の喉元を櫂で横殴りにした。その衝撃で櫂は二つに折れ、狸はその一方を握って、握られた櫂も、握った狸も、二度と浮かんで来なかった。

 兎は、はぁ、はぁ、と荒い息を整えながら座り込み、真っ二つになった櫂を見つめた。全身から汗が噴き出していた。最期の最期までわけがわかっていないような馬鹿面で死んでいった狸が本当に不愉快だ。木の舟の周りを囲むように狸の血が浮いているのに気づいて、鼻を歪めながら兎は陸へ戻った。



 ◆



「おじいさん」

 舟を棄てて、崩れた服を軽く直し、手ぬぐいで汗を拭いてから兎はおじいさんの家を訪れた。任務を終えたその声は明るい。

 陽も落ちかけた時間だというのに家の中は真っ暗で、おじいさんは一人放心したように座っていた。兎はその光景を見て胸を詰まらせ、急いで手燭に火をつけた。

 灯りをつけて認めたおじいさんの顔は憔悴しきって、ちゃぶ台に置かれたままの「婆汁」の食べ残しや食器類には、蝿がたかっていた。おばあさんが死んでからずっとこの状態だったのだろう、垂れ流した排泄物が悪臭を放っていた。

「おじいさん」

 兎は震える声でもう一度呼びかけ、そっとおじいさんの肩に触れた。

「ばさま喰った、わしが喰った……」

 そのつぶやきと共に、おじいさんの虚ろな目から涙が零れた。しわくちゃな顔を濡らす涙は、もう何度も流されたものであるらしく、おじいさんの顔に残った涙の痕をそのままなぞって流れていった。それを見た兎の目からも涙が溢れ、どうしてこの数日間、ただの一度もおじいさんの様子を見に来なかったのかと自分を激しく責めた。狸を殺す計画に忙しかったのも事実であるが、長年連れ添った夫婦がこんな別れ方をして平気で暮らしていられる筈がない。狸を馬鹿だ馬鹿だと言っていたくせに、この私こそ大馬鹿者ではないか。

 兎は涙をぼたぼたと垂らしながら、井戸に出て、茶碗に水を汲んで戻った。

「おじいさん、飲んで下さい」

 兎がそう言ってひび割れたくちびるに茶碗を押し当てると、おじいさんは物凄い勢いで茶碗を撥ねのけた。壁に跳ね返って茶碗が砕ける。

「喰わん、喰わん、わしは喰わん、喰っとらん、ばさま、もう何にも、あ、あ、……」

「ごめんなさい、ごめんなさい、違います、ただのお水で……、僕……、」

 目をひん剥いて口から泡を飛ばすおじいさんを落ち着かせようと、兎は自分の身体が汚れるのも厭わず垢まみれの老人を抱きしめた。

 しばらくの間おじいさんの口からは意味を成さない音が奔流の如く迸ったが、やがて兎の背にそっと触れると静かに言った。

「兎どん、わしはもう生きてはおられん。死ぬつもりじゃ」

「そんな、おじいさん、仇は僕が取りました、狸は死にました、僕では到底おばあさんの代わりにはなれないけれど、でも、僕、僕、……、おじいさん、死なないで」

「そうか、仇を取ってくれたか、有難う、有難う、兎どん。これでもう心残りはない、ばさまをひとりぽっちで行かせるわけにはいかなんだ」

 兎は密着していた身体を少し離し、泣き腫らした赤い瞳でじっとおじいさんの目を見つめた。たるんだ皮膚に覆い隠されそうになってはいたが、その鈍い光はたしかに決心がほんものであると語っていた。二人は無言で見つめ合い、飛び回る蝿の羽音以外に何も聞こえない静寂の中、兎がほとんど聞き取れないような声で呟いた。

「僕がやります」



 ◇



 兎の包丁は正確におじいさんの心臓を突いた。

 おじいさんは、兎にこれ以上世話を掛けるわけにいかない、と申し出を断ったが、兎は何とかしておじいさんの苦痛と恐怖を最小限に抑えてやりたかった。その甲斐あって、おじいさんは殆ど苦しむことなく旅立って行った。

「子のないわしらにとって、兎どんはほんとうの息子のようじゃった」

 心臓に刃を刺されながら、おじいさんは慈しむように目を細めた。

 兎はところどころに肉の残った流しの下のおばあさんの骨を拾い、畑に出て、完全に事切れたおじいさんの亡骸と一緒に並べた。

 涙に視力を流された一匹のちいさな兎が不恰好に火打石を打つ、かちかちという音が、誰もいなくなった山に響いていた。





(荼毘に付す)




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