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小生さんがゆく。  作者: 釜瑪秋摩


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第5話 休日のビーフストロガノフ物語

 小生の名は、文谷修蔵(ふみやしゅうぞう)

 四十八歳、平社員にして、食を愛するひとりの男である。


---


 ことの始まりは、水曜日の昼休みであった。

 弁当を広げる小生に、同期の寺島が突然声をかけてきた。


「おい文谷、駅前のロシア料理屋、行ったことあるか?」


 寺島は、眉毛が太く、声も腹の底から響く。

 強面ゆえ、社内では少し恐れられている。


 第二営業部の課長。小生と同期入社だが、出世は早かった。

 同じフロアの隣の部署。小生とは対照的な人生を歩む男である。


「いや、ロシア料理は未体験だが……」


「あそこのビーフストロガノフ、マジで最高なんだよ」


 寺島は、目を細め、恍惚とした表情で語った。


「濃厚なソースに、柔らかい牛肉。サワークリームの酸味がたまらねえ。パンでもライスでもいける。あれはな、ビーフシチューとは別物なんだ……!」


 普段は仕事の話しかしない寺島が、こうも熱く語るとは。


「……ふむ、寺島がそこまで言うとは。俄然として興味を覚えた」


 向かいの席では、同期の田口が、寺島の後ろでは遠藤が興味深そうにこちらを見ている。

 田口は小生と同じ第一営業部の平社員。

 遠藤は寺島と同じ第二営業部の係長だ。


「寺島、そんなに美味いのか?」


 田口が身を乗り出す。同期の気安さで、課長相手でも敬語は使わない。


「マジで。週末でもいいから、行ってみろよ。後悔しないから」


 その時である。


「あ、あの……文谷さん」


 背後から声がした。振り返ると、係長の光石が書類を手に立っていた。


 ――光石係長。


 小生より五歳ほど年上。背は高いが、声は小さく、いつもおどおどしている。

 大杉課長からは「頼りない」と陰で言われている。


「この資料なんですが、数字に誤りがありまして……午後までに、修正をお願いできますか……?」


「ああ、承知しました」


 小生は書類を受け取る。

 光石係長は申し訳なさそうに頭を下げ、自席へと戻ろうとした。

 だがその時、寺島が声をかけた。


「係長も、よかったらどうです? ビーフストロガノフ」


 光石は一瞬、足を止めた。


「え……あ、いえ、その……」


 いつものように言葉に詰まる。

 だが、その目には微かな興味を浮かべていた。


「駅前のロシア料理屋ですよ。休日にでもぜひ」


「……はい、ありがとうございます」


 光石は小さく頷き、照れたように去って行った。

 寺島は笑いながら弁当を片付ける。


「光石係長も行くかな」


「どうかな」


 遠藤が肩をすくめる。


「まあ、行ったら行ったで、月曜に感想聞けるかもな」


 小生はそう答えたが、光石の目の輝きを見逃してはいなかった。


 休日の午後、二時過ぎ。

 小生は目的の洋食屋を訪ねた。

 レンガ造りの外観に、白い小さな看板。

 ガラス越しに見える店内は、落ち着いた照明に包まれている。


 寺島のような課長が通うには、少し地味な店だ。

 しかし……その分、落ち着いて食事ができそうである。

 扉を押し、ベルが鳴った。


 ――その瞬間、小生は思わず息を呑んだ。


 窓際のテーブルに座っていたのは、係長の光石であったのだ。


「……光石係長……!」


 心の中で叫ぶ。

 彼はナプキンを丁寧に膝に広げ、静かにスプーンを握っていた。


「……なるほど、係長も来たか」


 あの時の、寺島の誘い。

 光石も、小生と同じように心を動かされたのであろう。


 小生は一瞬、踵を返そうかと思った。

 休日にまで上司と顔を合わせるのは気まずい。

 だが腹の虫がそれを許さず、幸いにも光石はこちらに気づいていないようだ。


「いらっしゃいませ、お一人ですか?」


 店員の声に導かれ、小生は光石から少し離れた席へと腰を下ろした。


 メニューを開く。

 ボルシチ、ピロシキ、ビーフストロガノフ……。


「ビーフストロガノフをひとつ」


 注文を告げ、小生は静かに待つ。

 ふと、光石の方へ視線を向ける。

 彼もまた、ビーフストロガノフを食べていた。

 普段は頼りなく見える光石の表情が、今はなぜか真剣だ。


 一口一口を丁寧に味わい、時折目を閉じて余韻に浸っている。

 会議室でオロオロしている姿とは、まるで別人のようだ。


 やがて、小生の前にも皿が運ばれてきた。

 白い皿に盛られたライス、その隣には茶褐色のソース。

 とろりと煮込まれた牛肉と玉ねぎが絡み合い、芳醇な香りを放つ。


「おお……これが寺島絶賛の品……!」


 小生はスプーンを手に取り、ソースをひとすくい。

 口に運んだ瞬間、濃厚な酸味と旨味が舌に広がる。


「……うまい」


 牛肉は箸でほぐれるほど柔らかく、玉ねぎは甘く煮崩れている。

 サワークリームの爽やかさが全体を包み込む。


「シチューが煮込みの芸術なら、ストロガノフは酸味と旨味の協奏曲である」


 寺島が夢中になるのも分かる。

 課長という重責を背負う彼の疲れを、この味が癒すのであろう。

 そして光石も、あの昼休みの会話を聞いて、この店に足を運んだのだ。


 ちらりと光石の方に目をやる。

 彼はまだゆっくりと食べ続けている。

 その横顔には、会社では決して見せない穏やかさがあった。


「食とは、人の素顔を引き出すものなのかもしれぬ」


 会社では、人は役割を演じている。

 だが食事の前では、皆ただの一人の人間だ。

 美味いものを美味いと感じ、満たされる。

 それだけのことである。


 食べ終えた光石は、そっと水を飲み干し、立ち上がった。

 会計を済ませ、店を出る際――彼はふと小生の方を見た。


 目が合う。


 小生は一瞬、気まずさに身を固くした。

 だが光石は、小さく微笑み、軽く会釈をした。


「……いい店ですよね」


 小生も会釈を返す。


「ええ、本当に」


 彼は静かに店を出て行った。

 その背中は、どこか普段よりも頼もしく見えた。


 皿を空にし、小生は深く息を吐いた。


「ビーフストロガノフ……それは寺島の豪胆さをも、光石の繊細さをも包み込む料理。そして小生の胃袋にも、確かな満足を刻んだ」


 あの昼休みの会話。

 寺島の熱い語り。

 光石の微かに揺れた心。

 小生も、光石も、同じ言葉に導かれてこの店に辿り着いた。


 会社では、小生は平社員だ。

 同期の寺島は課長、遠藤は係長。

 田口だけが小生と同じく平社員のままだ。


 四十八歳にして、この先も変わるまい。

 だが――この一皿の前では、皆平等である。

 勘定を済ませ、小生は店を後にした。


 秋の風が心地よい。

 月曜日には、また会社で寺島に会うだろう。

 同期の仲間たち――田口、遠藤とも顔を合わせる。


 小生、今日のことは忘れまい。

 食は、職場の人間模様すらも照らし出す。

 役職や立場を超えて、人の素顔を見せてくれる。


「月曜日、寺島に礼を言おう」


 もしかしたら光石も、同じことを思っているかもしれない。

 そう心に刻みながら、小生は休日の街を歩き出した。





 -完-

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