表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小生さんがゆく。  作者: 釜瑪秋摩


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

第3話 帰宅ラッシュ時の駅そば決断物語

 小生の名は、文谷修蔵(ふみやしゅうぞう)

 腹は空いた。だが時間はない。

 そんな時、小生を呼ぶのは――駅の立ち食い蕎麦である。


---


 仕事帰りの夕刻、午後七時。


 今日は長かった。

 朝から続いた会議、終わらぬ資料作成、上司の大杉課長からの差し戻し。

 定時で上がれたのは幸いだが、小生の胃袋は既に悲鳴を上げている。


 昼食は例のアジフライ定食だったが、それももう遠い記憶だ。


 改札を抜けようとした瞬間、ふと立ち止まる。

 ホームの片隅に佇む、あの看板が目に入ったのだ。


「駅そば」


 その二文字には、不思議な魔力がある。

 豪華さも洒落っ気もない。

 だが、旅人も労働者も、学生も老人も――誰もが等しく受け入れられる包容力を持つ。


「駅そば……それは庶民の胃袋にして、時の交差点だ」


 時計を見れば、次の電車まであと八分。

 家に帰ってから自炊する気力はない。コンビニ弁当も味気ない。


 ならば――ここしかあるまい。


 小生はふらりと、駅そばの暖簾をくぐった。


 狭い店内には、既に数人の客がすすり込んでいる。


 作業着の男性、スーツ姿のサラリーマン、大学生風の若者。

 皆、無言で丼に向き合っている。

 ここに会話はない。あるのは、ただ食べるという行為だけだ。


「立ち食いという文化……これもまた、日本の美学であろう」


 券売機の前に立つ。

 かけそば、たぬき、きつね、天ぷら、月見……どれもが小生に「私を選べ」と訴えかけてくる。


「かけでシンプルに行くか……? いや、ここは天ぷらで華やぎを……だが揚げ物は昼に食べたばかり……」


 背後には、すでに数人の客が並び始めている。

 この場における逡巡(しゅんじゅん)は許されぬ。


「駅そばは戦場……小生は即断せねばならぬ!」


 小生の指は、意を決してボタンを押した。


《天ぷらそば 420円》


 ふと、スマホを取り出しかけて思い直す。

 《《あのグルメサイト》》では星が3つ程度。レビューには『可もなく不可もなく』『普通の駅そば』と書かれていた。


「……他人の評価など、所詮は他人の舌である。小生には小生の味覚がある」


 そう、小生が信じるのは己の舌と胃袋だけだ。

 スマホの中の星の数など、食の本質とは無縁であろう。


 食券を差し出すと、厨房の奥から聞こえてくる湯気と出汁の香り。

 そして、鍋にそばが沈められる音。


 ジャバァッ――。


 わずか一分足らずで、丼がカウンターに差し出された。


 黄金色の出汁、浮かぶネギ、そして中央に鎮座する天ぷら。

 七味唐辛子の赤が彩りを添える。


「おお……これぞ即席の芸術品。一分で立ち上がる、この完成度よ」


 立ち食いカウンターに身を寄せ、まずは出汁をひと口。

 熱が舌を刺すが、その後にふわりと広がる鰹と昆布の香り。


「効率の極み……だが、確かに美味い」


 この出汁を、誰が「普通」などと評せようか。

 疲れた体に染みわたる、この温もりを。


 箸でそばをすすり込む。

 つるりとした喉越し、弾力のある麺。

 天ぷらは出汁を吸い、ふやけながらも衣の香ばしさを残している。


「……うむ。天ぷらは衣がふやける前に食べるか、出汁を吸わせて滋味深くなるか。人生は二択である」


 小生は半分を早々にかじり、残りをじっくりと出汁に沈めた。


 隣では、スーツ姿の男性が恐ろしい速さでそばをかき込んでいる。

 恐らく小生と同じ、疲れたサラリーマンであろう。

 彼もまた、この一杯に救いを求めているのだ。


 駅そばは、孤独ではない。

 ここにいる者たちは皆、同じ釜の飯……いや、同じ出汁を分かち合う戦友なのである。


 七味を振る。

 ……振りすぎた。思わずむせる。


 隣のサラリーマンがちらりとこちらを見た。

 しかし彼は何も言わず、再び丼に向き直った。


「駅そばでは、咳払いすら許されぬ……ここは静寂の食場だ」


 あっという間に丼は空となる。

 それでいて、胃の奥には確かな温もりが残った。


 時計を見れば、まだ四分ある。完璧なタイムマネジメントである。


 勘定を済ませ、改札を抜ける。

 夜風がほんのり冷たい。


 ホームには、仕事帰りの人々が疲れた表情で電車を待っている。

 小生もその一人だ。四十八歳、平社員、今日も何の成果も上げられなかった。


 だが――この一杯が、小生を支えている。


「駅そばは、腹を満たすだけではない。駅そばは――人生の一呼吸である」


 《《あのグルメサイト》》の星の数など、関係ない。

 レビューに『普通』と書かれていようと、小生にとっては特別なのだ。


 大切なのは、己の舌で味わうこと。

 スマホの画面ではなく、自分の胃袋で判断すること。


 それが小生の、ささやかな矜持である。


 電車が滑り込んでくる。

 小生は満員の車内へと乗り込んだ。


 明日もまた、大杉課長の小言を聞き、書類と格闘するであろう。

 だが、この駅そばがある限り――小生は戦える。


 そう心に刻みながら、小生は家路についた。





-続く-

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ