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小生さんがゆく。  作者: 釜瑪秋摩


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第1話 小生の焼き魚定食物語

 小生の本名は、文谷修蔵(ふみやしゅうぞう)である。

 名は文豪のように響くが、物語は書けぬ。

 小生にできるのは……食を味わい、語ることだけである。


---


 休日の朝。

 午前八時三十分


 むむ……目が覚めたのである。

 朝というのは、なぜこうも唐突に訪れるのだろうか。

 小生の胃袋も、まだ半ば夢の中である。


 とはいえ、目覚めてしまったのであれば仕方がない。

 いつものごとく、洗濯に掃除……。

 一人暮らしの小生の一日の始まりである。


 ガラリとベランダの窓を開けると、秋の風が実に心地よい。

 小生はてきぱきと洗濯物を干す。

 独身生活も長いと、家事のスキルも上がっていくものである。


 平日であれば、この時刻には既に満員電車に揺られているであろう。

 会議資料を睨みつけ、上司の小言に耳を傾ける日々……。

 しかし今日は違う。小生は自由なのである。


 コーヒーを一杯、ゆっくりと味わう。

 四十八にもなって、こうして一人の時間を過ごす己を、時折、寂しく思うこともある。

 だが……この静寂もまた、小生には必要な調べなのである。


 大したことはしていないが、新聞に目を通し、ぼんやりと過ごすうち、いつの間にか昼を迎える。


 さて、本日は何を食べようか。

 つと空を見上げると、いわし雲がゆったりと流れている。


 ……ふむ、焼き魚定食など、良いかもしれぬ。


 駅前の喧騒を横目に、小生は足を進める。

 昨今は洋食や中華もよいが、やはり和の心に立ち返るべきであろう。

 食とは日常の詩である。そして小生にとって、和食こそが母国語なのだ。


 あ……あれは定食屋。

 暖簾の揺れ方が、何やら小生を誘っているではないか。

 これも一つの運命であろう。吸い寄せられるようにガラリと戸を開けた。


 おお、木の香りが漂う落ち着いた店内。

 ラミネートされた古びたメニューがまたノスタルジックな気持ちを呼び覚ます。

 そこに小さく書かれたたくさんのお品書き。

 そこには、生姜焼き、唐揚げ、ハンバーグ……。


 なるほど、強敵ぞろいである。

 しかし、小生は迷わぬ。

 焼き魚定食、これ一択である。


「すみません、焼き魚定食をひとつ」


 待つ時間こそ、食の前奏曲である。

 隣の席では、サラリーマンが恐ろしい速さで丼をかき込んでいる。

 うむ、彼の一口は一秒に一度。

 実にリズミカル。


 恐らく小生と同世代であろう彼もまた、平日の喧騒から逃れて、この静寂な定食屋に安らぎを求めているのかもしれぬ。

 一秒に一度の咀嚼は、彼なりの人生のリズムなのであろう。


 小生は……ゆっくり待つとしよう。

 急ぐことなど何もない。この時間もまた、味わうべき一皿なのだから。


 おお……来た……。

 銀色に輝く焼き魚。今の時期にふさわしい、サンマの塩焼き。

 白米、味噌汁、漬物。

 これぞ日本人の正しき昼餉(ちゅうじ)であろう。


 昔、母がよく焼いてくれた魚を思い出す。

 あの頃は当たり前だと思っていたが……。

 今となっては、何と贅沢な日々であったことか。


 ……ほぅ。

 皮はパリリ、中はふっくら。

 炭火の香りが、舌に舞い降りる。

 塩加減も絶妙であるな。


 これは恐らく……いや、確実に天然ものに違いない。

 養殖では出せぬ、この深い旨味。

 秋の海で育った証拠である。


 そして添えられた大根おろしもまた実に良い。

 魚の脂を程よく中和し、口中をさっぱりとさせてくれる。

 白米が進む、進む……!


 世の中には様々な芸術があるが、小生にとって食こそが、最も身近な美学なのである。

 舌先に踊る塩味も、立派な詩の一行であろう。


 味噌汁をすする。

 ああ、胃の奥まで染みわたる。

 小生、今まさに日本人であることを実感している。


 ふう、ごちそうさまであった。

 焼き魚定食、飾らずとも心を満たす力を持っている。

 たかが昼食、されど昼食……。

 この瞬間だけは、小生も確かに生きているのである。


 さて……明日は何を食べに行こうか。

 小生の食探しの旅は、まだ始まったばかりである。




 -続く-

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