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サポート対象外 〜「分からない」と言う人たちについて〜

作者: ミケ

 内線電話が鳴った瞬間、私はだいたいの結末を予想する癖がついてしまった。

 この仕事を三年もやっていれば、呼び出し音の長さだけで、相手の温度が分かる。


「お忙しいところ失礼します。システムサポートです」

「ログインできないんだけど」


 はい、来た。

 主語も目的語も失われた、完成度の高い第一声だった。


「承知しました。どちらのシステムでしょうか」

「いつものやつ」


 いつものやつ。

 それは正式名称を持たない概念であり、会話を霧散させる呪文でもある。


「ありがとうございます。では、ログインIDを教えていただけますか」

「営業部」

「……部署ではなく、IDをお願いできますでしょうか」

「ああ……なんか数字だったと思う」


 この時点で、私は心の中で一度だけ深呼吸をした。

 感情を挟むと、こちらが先に負ける。


「では、画面にエラーメッセージは表示されていますか」

「なんか赤いのが出る」


 赤いの。

 それはエラーか、警告か、あるいはこの人の怒りの可視化か。


「その赤い表示に、何か文章は書かれていますでしょうか」

「細かいところは見てない」

「かしこまりました。では、昨日はログインできましたか」

「分からない」


 昨日という概念が、今ここで消えた。


「本日、初めてログインをお試しでしょうか」

「分からない」

「……パスワードはお分かりになりますか」

「分からない」


 もはや様式美だった。

 ここまで一貫されると、こちらの質問力が試されている気すらする。


「恐れ入りますが、何が分からないのか、分かる範囲で教えていただけますか」

「だから分からないって言ってるでしょ」


 分からないことは、こちらも分かっている。

 問題は、その先だ。


「ありがとうございます。では、一度ログアウトしてから再度――」

「いや、今これをやろうとしてるんだよ」

「はい。そのために再度ログインを――」

「だからログインできないって言ってるんだけど」


 会話が円を描き始めた。

 美しく、そして抜け道がない。


「別の業務を先に進めていただくことは可能でしょうか」

「なんで?」

「ログインが確認できないためです」

「でも今これをやらないといけないんだよ」


 理屈ではなく、意志。

 この人は今、ログインと人生を賭けている。


「恐れ入りますが、こちらでは操作状況を確認できませんので」

「じゃあ、そっちで何とかしてよ」


 来た。

 すべてを解決する魔法の言葉だ。


「申し訳ございません。こちらで代理操作はできかねます」

「困るんだけど」


 私もだ。


「本日は一度お時間を置いていただき、明日管理者にご確認いただけますでしょうか」

「……分かったよ」


 分かっていない声だった。


「お手数をおかけいたします。失礼いたします」

「――あ、ちょっと待って」

「はい」

「今、入れた」


 ……入れた。


「承知しました」

「じゃあ、いいや」

「失礼いたします」


 受話器を置いたあと、私はしばらく自分のモニターを見つめていた。

 理由は、最後まで分からなかった。


---


 受話器を置いてから、私はまだ三十秒も経っていなかったと思う。

 画面の隅で、内線ランプが再び点滅した。


 嫌な予感というより、正確な予測だった。


「お忙しいところ失礼します。システムサポートです」

「あ、さっきの」


 さっきの。

 自己紹介は不要らしい。


「はい、先ほど対応させていただきました」

「今度はさ、別の画面が出てきたんだけど」


 私は、心の中で椅子に深く座り直した。

 まだ第一ラウンドが終わっただけだったらしい。


「承知しました。どのような画面でしょうか」

「白い画面」


 白い画面。

 世界は、だいたいこんなものだ。


「画面上に何か表示はございますか」

「文字はある」

「どのような内容でしょうか」

「英語」


 英語。

 それは、私にとってあまり良い知らせではなかった。


「差し支えなければ、その英語を読んでいただけますか」

「いや、読めない」


 読めないのは英語か、状況か、あるいは現実か。


「スクリーンショットをお送りいただくことは可能でしょうか」

「どうやって?」

「画面の右上に――」

「今それを聞いてる余裕ないんだけど」


 余裕は、最初からなかった。


「では、表示されているボタンはございますか」

「ある」

「何と書かれていますか」

「分からない」


 再会してしまった。

 あの言葉に。


「恐れ入りますが、ボタンの色や位置などは分かりますでしょうか」

「下の方」


 下の方。

 情報としては正確で、まったく役に立たない。


「クリックはされましたか」

「したと思う」

「その結果、何か変化はございましたか」

「分からない」


 私は、自分が今、確認作業という名の儀式をしている気がしてきた。


「一度、画面を閉じていただけますか」

「え、閉じちゃっていいの?」

「はい」

「でも、さっき入れたのに」


 その「入れた」は、もう過去形として信用していない。


「問題ございません。一度閉じてください」

「……あ、消えた」

「ありがとうございます。では再度――」

「ちょっと待って」

「はい」

「今度はログイン画面に戻っちゃった」


 戻る。

 人はなぜ、進むより戻る方が得意なのだろう。


「では、再度ログインをお願いいたします」

「えー……また?」

「はい」

「さっきので疲れたんだけど」


 それは、こちらも同じだ。


「IDとパスワードを入力してください」

「……あ、また赤いの出た」


 赤は、何度でも現れる。


「恐れ入りますが、先ほどと同じ内容でしょうか」

「分からない」


 私は、ついに確信した。

 この人は、ログインしていないのではない。思考していない。


「本日はここまでにしていただき、明日改めて管理者にご相談いただけますでしょうか」

「え、今日できないの?」

「はい」

「困るんだけど」


 その言葉を聞いた瞬間、

 私はなぜか少しだけ可笑しくなった。


「承知しました。ご不便をおかけいたします」

「じゃあ……いいや」

「失礼いたします」


 電話が切れた。


 私はそっと、受話器を元の位置に戻した。

 そして思った。


 この人は、ログインできなかったのではない。

 最初から、どこにも入ろうとしていなかったのだ。


---


 三度目の内線が鳴ったとき、私はもう受話器を見なかった。

 見なくても分かる。

 もし今出なければ、少しだけ楽になれる気もしていた。


「システムサポートです」

「あのさ」


 名乗りもしない。

 もはや家族だ。


「今度は画面が真っ黒なんだけど」


 黒。

 ついに色が消えた。


「承知しました。電源は入っておりますでしょうか」

「え?」

「パソコンの電源です」

「それは入ってるよ」

「画面は点灯していますか」

「点いてると思う」


 思う。

 確信は、今日一度も現れていない。


「マウスカーソルは見えますか」

「……あ、いた」


 いた。

 生存確認が取れた。


「では、画面上をクリックしてみてください」

「どこを?」

「どこでも構いません」

「どこでも?」

「はい」

「……押した」

「何か変わりましたか」

「分からない」


 変わらない未来だけは、はっきり見える。


「キーボードの何かキーを押してみてください」

「どれ?」

「何でも大丈夫です」

「……変な音した」


 それはたぶん、あなたの心音だ。


「画面に何か表示されましたか」

「……あ、出た」

「何が表示されましたか」

「さっきの赤いやつ」


 赤は、帰ってくる。


「恐れ入りますが、一度パソコンを再起動していただけますでしょうか」

「え、再起動?」

「はい」

「それ、全部消えない?」


 私の忍耐力なら、もう消えている。


「データは消えません」

「……本当に?」

「はい」

「……じゃあ、やってみる」


 数秒の沈黙。


「……消えた」

「はい。再起動中です」

「今、何も映ってない」

「正常です」

「……怖いんだけど」


 ここまで来ると、ホラーだ。


「しばらくお待ちください」

「……あ、出た」

「ログイン画面でしょうか」

「うん」

「では、IDとパスワードを入力してください」

「……あ」

「いかがされましたか」

「さっきの英語、また出た」


 英語は、逃げない。


「恐れ入りますが、これ以上の対応が難しい状況ですので」

「え」

「明日、管理者へご相談いただけますでしょうか」

「でもさ」


 まだ、続ける気だ。


「今日、三回も電話してるんだよ?」


 それは、こちらも把握している。


「はい」

「なのに、できないんだよ?」

「はい」

「そっちの問題じゃないの?」


 私は、少しだけ考えた。

 そして、いつもより丁寧な声を作った。


「恐れ入りますが、こちらは“考えながら操作されている前提”でサポートしております」


 一瞬、沈黙。


「……分かった」


 分かってはいないが、終わった。


「本日はここまでとさせていただきます」

「……じゃあ、また明日」

「はい。失礼いたします」


 電話が切れた。

 私は、受話器を置き、背もたれに深くもたれた。


 三回の電話で分かったことは一つだけだった。


 人は、ログインできなくなるのではない。

 考えなくなると、どこにも入れなくなる。


 次の内線が鳴るまで、

 私は、少しだけ平和だった。


---


 その日の業務報告には、特に書くことがなかった。

 「ログイン不可、原因不明、翌日対応」

 いつもの文言を入力して、私はパソコンを閉じた。


 帰宅すると、リビングの電気がついていた。

 靴を脱ぐ前から、嫌な予感だけは正確だった。


「おかえり」

「ただいま」


 ランドセルが床に投げ出され、

 タブレットが机の上で無言の圧を放っている。


「宿題、やろうと思ったんだけどさ」


 私は、鞄を置く動作を途中で止めた。

 この入りは、知っている。


「ログインできない」


 ああ。

 今日、何度目だろう。


「どの宿題?」

「ラーニングプラット」


 私は、ゆっくり息を吸った。


「学年とクラスと出席番号、入れた?」

「入れた」

「パスワードは?」

「……分からない」


 来た。


「昨日はできた?」

「分からない」

「学校ではできたの?」

「うん」

「じゃあ、今日はどこまで進んだの?」

「分からない」


 完璧な再現だった。

 声変わり前という一点を除けば、昼間の五十代男性と、何一つ違わなかった。


「他の宿題、先にやったら?」

「今これをやろうとしてたのに」


 私は、ゆっくり椅子に座った。

 デジャヴではない。完全コピーだ。


「画面、何色?」

「赤いの出た」


 赤は、家庭にも出るらしい。


「そこに何か書いてある?」

「細かいところ見てない」


 私は、一瞬だけ天井を見た。

 神はいなかった。


「じゃあさ、何が分からないか分かる?」

「分からない」


 その言葉を聞いた瞬間、

 昼間の電話、三度目の内線、白い画面、黒い画面、英語、赤、

 すべてが一つの線になった。


 私は、静かに言った。


「……今日はやめよう」

「え?」

「今日はここまで。明日、先生に聞こう」

「でもさ」

「大丈夫」


 子どもは少し不満そうだったが、

 それ以上は言わなかった。


 私は、タブレットの画面を閉じた。


 その夜、歯を磨きながら、ふと思った。

 私は一日中、ログインできない人たちと話していた。


 会社では五十代の男性。

 家では小学生。


 年齢も立場も違うのに、同じ言葉を使い、同じ場所で止まり、同じように助けを求める。


 「分からない」


 それは、質問ではない。

 考えることを一時停止するための、とても便利なボタンだ。


 洗面台の鏡に映る自分を見て、私は少しだけ笑った。


 ――明日、

 もし私が「分からない」と言い始めたら、

 誰かがそっと、電源を入れ直してくれるだろうか。


 内線は鳴らない。

 今日は、もう大丈夫だ。


 明日、また内線が鳴ったら、私はきっとこう答える。


「申し訳ありません。本件はサポート対象外です」


 それでも私は、今日の私はまだ、サポート対象内でいたいと思っていた。

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