この恋、止まれません! ⑳
翌日から創と富永を避けた。店に来てくれても、他のスタッフに任せて実里は席に行かない。富永ともなるべく距離を取った。
「村瀬さん、創さんや富永さんとなにかあったの?」
スタッフに心配されたけれど、なにもない、と答えた。事実を言う勇気が実里にはない。
帰りも待っている創に声をかけずに走り去る。彼の頬の傷が目に入るたびに、申し訳なくて消えたくなった。
そんな日が一週間続いても創は店に来てくれたし、実里を待っていた。富永は今までのように声をかけてくれるが、どこかぎこちない。そんな富永に対して、徐々に申し訳なさを感じはじめた。だから、もうやめようと決める。
この想いを捨てよう。
胸に手を当てて、ひとつ深呼吸をする。つらいけれど、創が傷つくことはもっとつらい。
「っ……」
今日も待っている創を置いて走り出す。逃げる実里の背を見ている彼がわかるが、振り返れない。もうやめると決めたのに、なぜか創が近づいてくる。面倒な実里なんて気にせず、忘れてしまえばいいのに。
仕事が休みの日は店に行かず、布団にくるまってすごす。昼でも肌寒くなってきたことが心細さを増長させるが、もう誰にも手を伸ばさないと決める。逃げることしかできないことも申し訳ないけれど、創はもう実里とかかわらないほうがいい。
金曜日の今日も創が来ている。仕事で疲れているんだろうからまっすぐ帰ればいいのに、などと思ってしまう。誰よりも自分が汚く嫌な存在になっていくようで、こめかみが痛む。
仕事に集中しないといけない。気持ちを仕事に向けても、創からの視線をずっと感じて落ちつかない。同時に富永からも視線を感じる。両方向から向けられる視線が痛くて、実里は顔をあげられない。そういえばこの頃の自分は俯いてばかりいる気がする。
創の黒い瞳を見てはいけない。どんどん苦しくなっていき、胸が絞られるように痛む。軋む心が求めるのは創の笑顔で、一度知った幸せから離れられない。
でも、と思い直す。実里のせいで彼が傷を負った事実は消せない。
わかっているのに、ちらりと創に視線を投げてしまった。視線を落としていた彼と不意に目が合い、慌てて顔を背ける。なにをやっているのだろう。
「……はあ」
仕事が終わり、階段をあがるけれど足が重い。きっといる。
「お疲れ」
やっぱり――口に出しそうになって呑み込んだ。
相手を見ないように瞼を伏せて、その前を素通りした――のに、なぜか前に進めない。背後から手首を掴まれているのだと、ぼんやりとした頭で気がつく。
「あ、あの、離してください」
「なんで避けるんだ?」
目を合わせないようにしているのに顔を覗き込まれ、強い視線に捕まる。身体が竦んで唾を飲んだ。頬の傷は薄くなっているが、まだ見て取れる。自分のせいだ、自分が悪い、全部自分のせいだ――責める気持ちが胸に渦巻き、足が震えはじめた。
「どうした?」
その震えに気がついたのか、創が心配げな表情をする。実里を気遣ってくれているのに、それさえつらくて顔を背ける。
「避けてないので、離してください」
奥歯をきつく噛んで震えをこらえる。どんなに強がっても、創はすべてを見透かすように実里をじっと見つめてくる。
「嘘だな。最近のおまえは俺から逃げてる」
「――」
逃げるしかできないのだ。創に怪我をさせた自分なんかがそばに近寄ってはいけない。
一歩あとずさろうとしたが、逃がさないというように掴まれた手が引かれた。距離を詰めた創が、さらに近い距離で顔を覗き込む。
「またあいつらになにか言われたのか?」
「言われてません。離してください」
手を振りほどこうとしてみても、手首を掴む力はますます強くなって敵わない。身体が震えて、少し力を抜いたら座り込んでしまいそうだ。
「……離して……」
呆れて離れていってくれていい。もう追いかけないし、手を伸ばさない。なにもかもやめると決めたのだ。実里がそばにいることは、創にとってよくない。
次の瞬間、創の体温を感じていた。抱きしめられているのだとわかり、身体が竦む。ムスクの香りが胸をせつなく締めつける。
「今さら逃げるな」
「は、離して……」
「逃がさない」
まわりの人も見ているのではないか。周囲を確認しようとする実里の視界を覆うように、顔を胸に引き寄せられる。たくましい身体を服越しに感じて、こんなときなのに心が疼き、肌が熱く騒ぐ。
「大丈夫だ。おまえは悪くない」
実里の震えをなだめるように、背を撫でられる。穏やかな手つきが優しくて、視界がゆらりと涙で揺らめく。
「おまえは悪くない」
実里の心情を読み取ったのか、言い聞かせるように繰り返される。低い声で紡がれる慰めが、心をほぐしていく。
落ちつかせるように何度も背中を撫でられ、徐々に力が抜けてきて彼の腕に身を委ねた。
「僕のせいで、創さんが怪我をしました」
「違う。おまえのせいじゃない」
強い言葉で否定され、それに縋りたくなる。でもまた同じことが起こったら、実里は自分を許せない。
「僕のせいです。そばにいると、また迷惑をかけてしまいます」
こらえきれない涙が次々に溢れて頬を濡らす。離れようと広い胸に手を置いて押すが、離してくれないどころか、かえって強く抱きしめられた。
「お願いです。離してください」
「だめだ」
「迷惑をかけたくないんです。わかってください……!」
こんなにも強く抱きしめられたら決心が鈍るけれど、それでもそばにいることを選んではいけない。創だって実里を鬱陶しいと思っていたに違いない。それならば離れたほうが、彼も気持ちがすっきりとするはずだ。
少しだけ身体が離れ、また実里の目を覗き込んだ黒い瞳がせつなく細められる。胸が詰まるような彼の表情は、実里の言葉を失わせた。
「おまえがそばにいないほうが迷惑だ」
顎を持たれ、強引に唇が押し当てられた。自分に起こったことなのに、された行為があまりにも非現実的で、身体も思考も固まった。柔らかな感覚が唇に触れている。温もりが離れ、強い視線が実里をとらえる。
「逃がさない」
今、なにをされたんだろう。
「……?」
なにをされて――しばしして答えに行きつき、燃えるように頬が熱くなった。唇に残った感触が、それを現実だと教えている。思わず手で唇を押さえたが、たしかにそこには温もりの名残がある。
「なんで――」
なんでキスなんてするのか。
なんで逃がしてくれないのか。
なんでそんなに愛しそうに見つめるのか。
たくさんの疑問が頭の中にまわり、創の顔をじっと見る。実里を見つめ返す瞳は、熱い意志が宿っているかのようにまっすぐに向けられて、わずかも逸れない。視線に捕まり、身動きが取れない。見えない糸で雁字搦めにされたみたいに、指一本も動かせない。
「実里が好きかもしれない」
はじめてきちんと呼ばれた名前の響きが、耳にくすぐったい。今頃心音が激しくなってきて、拍動が鼓膜を叩く。実里の心臓の音が異常なのに創の声はいつもどおり落ちついていて、余計に夢の中の出来事のように感じさせる。
「創さん……?」
静かな瞳が実里をまっすぐに見つめている。
「好きかもしれないんだから、責任取れ」
低く掠れた声が脳を痺れさせる。
たしかに現実なのに、まだ信じられない。でも、絡んだ視線が教えてくれる。他の誰かがもらった言葉ではなく、自分に向けられたものだと。
「好き『かも』って……?」
創はばつが悪そうに眉を寄せて、実里の手を取る。
「こういう恋愛が久々でよくわからない。だから、おまえがわからせろ」
彼の腕に手を添え、自分の心に問う。
ここまで言ってくれているのに、まだ逃げるのか。
実里をとらえる視線のまっすぐさに心が疼き、創の胸に飛び込むように抱きついた。周囲の視線なんて気にならない。創しか見えない。
「面倒な男は嫌いなんじゃないんですか?」
「嫌いだよ」
どこか拗ねた声に顔を見あげると、声音に反した優しい瞳と出会った。微笑みをたたえ、黒い瞳が穏やかに細められる。
「じゃあどうして?」
こんなに優しい表情を見せられたら、ますます気持ちが膨らんで止まらない。甘く脈打つ心音が、全身に響くのを感じる。
「たぶん、実里は特別なんだと思う。……悪い。自分でも本当にわからないんだ」
止まった涙が、またひと筋流れ落ちる。
実里よりも創のほうが困惑した表情をしていて、自身の感情に戸惑っているように見える。そんなにも深く彼の心を揺らせていることが、嬉しくてたまらない。
「こんな気持ちにさせた責任、取ってくれ」
自分は世界一の幸せ者だ。そんな責任なら、いくらでも取る。
溢れる涙を指で拭ってくれた創が、もう一度実里を抱き寄せた。




