この恋、止まれません! ⑪
「いらっしゃいま――やっぱり」
薄暗くなってきたくらいで自宅を出て店に行くと、富永が「思ったとおりだ」という顔をした。富永だけではなく、実里の来店に気がついたスタッフは一様に同じ顔をしている。行動は読まれていたようだ。
「休みには休めばいいのに」
「休みだから創さんとのんびりできるので、来ちゃいました」
「創さん、ね。やめておいたほうがいいって言ったのに」
富永が苦笑したところで実里の背後のドアが開いた。振り返って、実里はぱあっと笑顔になる。噂をすればなんとやら――店に入ってきたのは創だった。
「創さん!」
「なんだ、今日休みか?」
私服の実里を見た創は驚いたような顔をした。少し気合いを入れてお気に入りの服を着てきたから、創の視線が気恥ずかしい。ただのペールグリーンのシャツに黒のチノパンなのだが、気合いを入れてきた事実を実里自身がわかっている。それを見抜かれるのではと思うと、なんとも表現しがたい落ちつかなさを感じて、手に持ったジャケットをきゅっと握った。
対する創は、はじめて会ったときと同じグレーのジャケットに白い襟つきシャツ、ネイビーのテーパードパンツで、どんな服装でもスタイルのよさがわかる。以前スタッフの誰かが言っていたスーツ姿も見てみたい。
「休みですが、創さんに会いたくて来ました」
創のあとからまた男が入ってくるのかと思ったら、彼の背後には誰もいない。
「創さん、今日はひとりですか?」
「ああ」
肯定した創に、実里だけではなく富永も驚いている。思わず言葉を失った実里など気にせず、創はいつものように空いた席に座る。一緒の席に座りたいな、なんて贅沢な願望が心に湧き起こるのと同時に手招きをされた。
「……?」
まさか実里を呼んでいるわけではないだろうと思っていたら、目が合った。創は視線で自身の向かい側の席を示し、実里を見る。
「えっと」
都合よく考えすぎているようで動けずにいたら、富永が実里をちらりと見た。
「呼ばれてるじゃん」
「は、はい」
やはり呼ばれているのか。緊張しながら創の向かいの席に座り、「まさか」が現実となったことに心臓が暴れる。
創がメニューを開き、実里のほうに向けた。
「なに食べる?」
「え?」
「食べないのか?」
窺うように見られて頬が熱くなった。一緒に座っても空気扱いされるかと思ったのに、きちんと同席者として認識してくれている。
「た、食べます!」
メニューに視線を落とし、嬉しさで胸が弾む。こんな夢のようなことがあるなんて、来てよかった。
実里がなににするか悩んでメニューと睨めっこをしていても、創は急かさない。上目で様子を見てみると目が合って、いけないことをしたような気持ちになり、慌てて視線をメニューに戻した。心拍が激しいし頬も火照る。ぱっと見ただけだけれど、創の瞳は優しかった。
「ステーキライスにします」
創がよく食べているものに決めると、創はメニューを自身に向ける。それにさっと視線を走らせ、「俺も」とひと言口にしてからスタッフを呼んだ。席に来たホールスタッフは、創の席にいる実里を見て頬を緩める。
「ステーキライスをふたつお願いします。あとグァバジュースをひとつ」
夏からの限定メニューになっているドリンクも頼んだ創がメニューを閉じる。そういえばグァバジュースの提供は今日までだった。仕事でメニューを教えてもらうときに試飲させてもらったが、甘くておいしかった。創が好きなら、実里もお気に入りにしよう。
「どうしたんですか?」
「なにが?」
「一緒の席に座っていいなんて」
特別な意味はないのだろうが、実里は単純なので期待する。期待しないはずがない。
創は左下に視線を落としてから、少し口もとを綻ばせた。
「気まぐれ」
そっけない言葉と裏腹の穏やかな表情に、とくんと心が甘く疼く。
「そうですか。つき合ってくれる気になったのかと思いました」
「そんなわけない」
創は同じ方向に視線を落としたまま、もう一度「気まぐれだ」と呟いた。それは実里にではなく、自身に言っているような小さな声だった。
先にグァバジュースが運ばれてきて、創がそれを実里の前にと指さす。スタッフがそのとおりにグラスを置いて持ち場に戻り、実里は首をかしげて創を見る。
「創さんが飲むんじゃないんですか?」
「おいしいから」
それだけで、続く言葉はなかった。でも実里にと頼んでくれたのだとわかって、感動しながらストローに口をつける。創はその様子をじっと見ている。ピンク色のジュースは甘くておいしいのに、少しせつない。
「おいしいです」
「……」
答えはないけれど、わずかに表情が柔らかくなったのが見て取れた。
どうしよう、好きだ。
心の中に創への気持ちが膨らんで溢れ、血液のように「好き」が体内を巡っていく。幸せの心音がとくんとくんと心を揺らし、きゅんと疼く胸に甘酸っぱい気分になる。最初に助けてもらったときから、知れば知るほどに創が好きになる。光をくれるような彼の優しさは、実里の心を優しく灯す。
ほどなくステーキライスが来て、ふたりで食べていたら涙が滲んできた。味がしっかりとわからない。
「どうした?」
泣いたら心配をかけるから、唇を噛んで涙をこらえる。創はそんな実里の様子を穏やかな瞳で見つめている。
「こんなに幸せな食事をしていることが、信じられなくて」
幸せ、と口に出したら声が震えた。涙は零さないように、唇に力を入れる。
「幸せって、おおげさな」
苦笑する表情も優しくて、ますます涙を誘う。そんなに穏やかな表情で見つめられたら、心臓がおかしくなる。
不意に、ひとりで菓子パンを食べながら母を待った記憶が蘇った。あのときの自分は、今のこの幸せを想像なんてできなかった。好きな人が同じ席にいてくれて、同じものを食べている。
「僕にとって、好きな人と食事をできることはなにより嬉しいんです」
こらえていたのに涙が頬を伝ってしまった。慌てて手で拭い、笑って見せた。
「ありがとうございます」
創がまっすぐな視線を向けてきて、真剣な瞳に捕まって恥ずかしい。でも同時に嬉しかった。間違いなく彼の心に入れているから。
「あの、あんまり見られると恥ずかしいです」
それでもあまりにじっと見られて羞恥を感じ、少し縮こまる。創ははっとしたように目を逸らして、スプーンをまた動かしはじめた。
特別な会話もなく、だがたしかに多幸感に包まれながら食事をしていると、男がふたり近寄ってきた。
「創だ」
「今日はそんな地味な子の相手してんの?」
創の両隣に座り、ふたりで彼に触れる。創は無表情でスプーンを置いた。
「ねえ、こんな子より俺たちにしない?」
「前みたいに三人でしようよ」
「だめです」
創ではなく実里が答えるが、男たちは無視して創にべたべたと触れる。苛立ちながら睨みつけても、男たちは馬鹿にした笑みを浮かべるだけだ。
悔しいけれど、実里には人が惹かれるような外見がない。だからといって、創を連れていかれるのを黙って見ているのは嫌だ。
「ねえ、行こうよ」
創は実里を見ていて、男たちをちらりとも見ない。向けられる視線の意味がわからないが、今までのように冷めた瞳ではないのはわかった。
「食べ終わるまで待て」
「創はもう食べ終わってるじゃん」
「行こ?」
男の片方が創の手を引くが、創はそれを振り払った。彼の視線は実里だけを見ていて、男たちは面白くなさそうな顔をしている。
「こいつが食べ終わったら行く」
無言になったのは実里だけではなかった。男たちも同様に黙り、眉を寄せて実里を憎らしげに睨みつける。実里は睨まれながらスプーンを動かし、正面の創を見る。なんの感情も見えなくなった瞳が、まっすぐ自分に向けられている。
先ほどの言葉を気にしてくれているのだったら、こんなに優しい人はいない。胸の高鳴りが抑えられない。速まる鼓動が指先まで震わせた。
「創さん、好きです」
「いいから食べろ」
すげない答えでも心が温かい。男たちは顔を見合わせ、眉を寄せている。
創の優しさを噛み締めるようにステーキライスを食べ終えると、創は男たちと立ちあがった。
「今日はまっすぐ帰れよ」
少し振り向いて残された言葉に頷き、その背を見送りながら胸がひどく痛んだ。氷で少し薄くなったグァバジュースを飲んだら涙が零れた。幸せなのに苦しい。
創との時間の名残を味わうようにゆっくりとグァバジュースを飲んで、実里も椅子を立つ。ボディバッグから財布を出してレジに向かいながら、創があの男たちに触れているところが頭に浮かんだ。唇を噛み、悔しさをこらえる。グァバジュースは実里のお気に入りになったけれど、苦い思い出も同時に胸に刻まれた。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
「お会計なら創さんが済ませていったよ」
「え……」
女性スタッフの言葉に、手にした財布をぎゅっと握る。こういう優しさがずるい。
創から言われたとおりにまっすぐ帰宅し、ベッドを背もたれにして床に座る。創は今頃男たちを抱いている。想像しただけで胸の苦しさが押し迫り、呼吸が詰まるように感じた。
どうしたら創さんの男遊びをやめさせられるんだろう。
本人にやめる気がないのなら、ひとりの相手をするだけで満足できるようにすればいいのではないか。そんな考えが浮かんだ。もちろんそのひとりは実里だ。
テクニックを身につければ満足してもらえるかもしれない。でも、そんなことをどこで学べばいいのか――。
「……風俗?」
その響きにごくりと唾を飲む。
プロに教えてもらえば確実だ。お金はないが、創を諦めたくない。貯めているお金を崩せば行けるけれど……。
遊び相手にでもなれたらいいと思っていた。でも、実里が本当に望むことは違う。自分が勇気を出せば、望みに近づけるかもしれない。