南天と雪兎
これはたった1日のお話。
南天は怒っていた。
家の軒先に生える立派な南天の木。
その足元にちんまりとした雪兎の姿があった。
今はやんでしまったが珍しく雪が降った今朝、この家の小学生の姉弟がはしゃぎながら作っていったのだ。
赤い可愛らしいお目めは南天の実。緑の立派なお耳は南天の葉。
姉弟たちがもぎ取って、この雪兎にあげたのだ。
南天は怒っていた。
何で俺の一部をこんなものに使われないといけないのだ。
納得がいかなくて足元の雪兎をにらみつけているとクスクスと楽しそうな笑い声が聞こえて来た。
「おい、何を笑っているんだ」
不機嫌そうにそう言うと雪兎は返した。
「だってうれしいんですもの。こんなに素敵な目と耳をもらえて」
本当に嬉しそうに雪兎はそう言った。
怒ってやろうと思ったのに、南天は何も言えなくなった。
自分の実と葉がそんなふうに喜ばれるのは初めてのことだった。
「これからこの目で色んなものを見て、これからこの耳で色んなものを聞くの。ああ、なんて幸せなのかしら」
今にも飛び跳ねそうな弾んだ声で雪兎はそう言った。
「ねえ、教えて。私にこんなに素敵なものをくれたあなたの名前はなんて言うの」
南天は少し黙るとボソリと答えた。
「……南天だ」
「南天? とっても素敵な名前ね。私、何度も呼ぶわ。南天さん、南天さん、南天さん」
「そんなに何度も呼ばんでいい!」
雪兎はおかしそうに笑った。
南天は怒りながらも、どうしてか少し嬉しかった。
「じゃあ、私の名前は?」
「何だ、自分の名前も知らないのか。お前は雪兎だろう」
「雪兎? 私、雪兎っていうの? なんて素敵な名前なのかしら」
雪兎は何度も何度も確かめるように自分の名前を繰り返す。
南天はおかしなやつだと思った。
こんなもの、ただの物の名前じゃないか。何も素敵なものじゃない。
そう思ったが、南天は黙っていた。
時は過ぎてゆく。
雪兎は南天にたくさん質問をした。
雪兎はたくさん言葉を話せたが、この世界のことをなにも知らなかった。
だから、南天は教えてあげた。
「あれは空だ」
「空。じゃあ、あの空にあるギラギラしたものはなに?」
「あれは太陽だ。ああ、天気が良くなってきたな。やっと温かくなってきた」
「私、太陽は苦手だわ。とっても熱いんだもの」
南天は「おや」と思った。素敵ばかり言っていた雪兎にも苦手なものがあるのか。
「それじゃあ、私の下にあるものは?」
「それは雪だな。あれも空から降ってくるんだ」
「空から? どんな風に降ってくるの?」
「ふわりふわりと」
「ふわりふわりってどんなの?」
「雪が舞うようにだな」
「舞うようにってどんなの?」
「ああ、うるさい、あんなもの説明できるか。お前も実際に見てみればいいだろう」
「ふふふ、楽しみだわ。どんな風に舞うのかしら」
そう言って雪兎は楽しそうにくすくす笑った。
南天は少しだけ雪が降ればいいのにと思った。
時は過ぎてゆく。
雪兎は色んなことを知りたがったが、特に季節の話を聞きたがった。
春の話。夏の話。秋の話。冬の話。
今は冬で季節は巡り、次は春がやってくるのだ。
「どうして季節はめぐるの?」
「そうなっているからだ」
「どうして冬の次は春なの?」
「そうなっているからだ」
「どうして季節は4つだけなの?」
「そうなっているからだ! お前も実際に感じてみれば分かる。それがいいのだと」
「実際実際って南天さんはそればっかりね。全然言葉で説明してくれない」
「すべてが言葉で説明できてたまるか。実際に見て聞いて感じる。それ以上の理解はない。お前には俺の目と耳があるだろうが」
「ああ、そうだった。私にはこんなに素敵な目と耳があったんだった。南天さん、ありがとう」
「お前は本当にうるさいな……」
不機嫌にそう言いながら南天は少し照れていた。
時は過ぎてゆく。
相変わらず空の上には太陽がギラギラと輝いている。
うるさいほど話しかけて来ていた雪兎は今、黙って南天の足元にいた。
南天は心配になった。
「おい、雪兎、どうした、大丈夫か」
雪兎はか細い声で答えた。
「さようならの時が近いのかもしれない。ほら、私の体、こんなに小さくなってきた」
その言葉の通り、雪兎の体はとても小さくなっていた。
「でもね、どんなに小さくなってもこの目と耳はなくさないわ。私の宝ものだもの」
そう言って雪兎は今にも落ちそうな目と耳に力を込めて、一生懸命こらえていた。
南天は空を見上げた。
そこには輝く太陽があった。
ああ、そうだ、雪兎は太陽が苦手だと言っていた。あれのせいで雪兎は小さくなってしまうのだ。
南天は太陽に語りかけた。
「おーい、太陽、お願いだ。照らすのをやめてくれ」
しかし、太陽は何も答えてくれない。
南天の声が届くにはそれはあまりに遠すぎた。
雪兎はおかしそうに笑った。
「南天さん、太陽好きでしょ。そんなこと言っちゃいけないわ」
南天は怒った。
「何を言う。あんなものは嫌いだ。今の俺は雪が好きだ」
南天は空に向かって呼び掛けた。
「雪よ、雪よ、雪よ降れ」
しかし、その声も虚しく、太陽は輝き続けている。
雪の気配など微塵もない。
雪兎は笑った。
願い続ける南天の声を聞きながら、その目と耳を愛しく繋ぎ止めていた。
太陽が沈んで夜が来た。
それなのに雪兎は相変わらず元気がない。
「おい、雪兎、大丈夫か」
話しかけると小さな小さな声で「うん」と言う。
南天は空を睨みつけた。
雲ひとつない夜空には満月が輝いていた。
「ねえ、南天さん、春の話をして?」
雪兎は何度も春の話を聞きたがる。
だから、南天は何度も繰り返す。
春の匂いや景色や温もりのこと。
雪兎は楽しそうにその話を聞いた。
お前もこれから春に会えるじゃないか。
そう言うと雪兎はこまったように笑った。
雪よ、雪よ、雪よ降れ。
南天は空を睨みながら願った。
そうすれば、お前は元気になるだろう。
そうすれば、お前に雪を見せられるだろう。
そうすれば、お前は春に会えるだろう。
願い続けて、いつの間にか疲れて眠ってしまった。
次の日の早朝。
南天は葉の重みで目が覚めた。
驚いた。
ふわりふわりと雪がいくつも降っている。
俺の願いは叶ったのだ。
南天は嬉しくなって話し掛けた。
「おい、雪兎、雪が降ったぞ! ほら、見てみろ、これが雪だ!」
しかし、雪兎の返事はない。
不思議に思って足元を見るとそこに雪兎の姿はなかった。
ただ自分の2つの実と葉が落ちているだけだった。
南天はじっとそれを見た。
南天の葉から雪が落ちる。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
それは泣けない南天の涙のようであった。
真っ白な雪の下。2つの実と葉は見えなくなった。
姉弟がはしゃぎながら家から出て来た。
雪兎を作ろうと南天の木に手を伸ばす。
足元の実と葉には気付きもしなかった。
南天はそれでいいと思った。
これはお前の目とお前の耳。
誰にもあげやしないと思った。