王女の推しゴト
フラン王国、小さくとも豊かなその国は、常春の国といわれるほど平和だった。
中立を保つことで周辺国から一目を置かれている。そして、中立であり続けることが信用に繋がり、侵略されない代わりに周辺国の金庫番の役割をもっていた。そのため、戦争はなくともこの国の騎士たちは堅実堅牢であった。
そんなフラン王国には、愛されし姫君がいた。アンジェル・アンドレ・ゼナイド・アニエス・ドゥラクロワ、やわらかなミルクティー色の髪は腰を過ぎるほどに長く、小さな顔にはくるりとした瞳とさくらんぼのような唇が絶妙な位置で配置されていた。平和な国で、蝶よ花よと愛でられた彼女は、愛情を一身に受けとても愛らしく成長した。
彼女が微笑むだけで、人々の心に花が咲く。アンジェルは、それだけ愛らしい少女だった。
いつも通りの朝、侍女に手伝ってもらい身支度が整った頃合いにドアがノックされる。頃合いの的確さに思わず笑みを零しながら、アンジェルは入室を許可した。許可を得て入ってきたのは、彼女の護衛騎士セヴラン。彼は朝の挨拶をして、彼女の次の予定を述べる。
「姫様、朝食の用意ができております」
「ええ、ありがとう。生きていてくれて」
首を垂れる彼の手をとり、アンジェルは感謝の気持ちを握らせる。彼女の手が離れてすぐに、セヴランが手を開くとそのなかには金貨が一枚。
「…………姫様、なんですかこれは」
「お布施よ」
曇りなき笑顔で返された答えに、セヴランは溜め息を零したくなる気持ちをぐっと堪える。
「ただの一介の騎士である自分に、一体、なぜ」
「何を言っているの。貴方が生きているだけで、感謝すべきことじゃない。私の目の前に存在してくれる奇跡に感謝しなくて、一体いつするの。貴方の存在は国宝級よ?」
「この国の宝は姫様の方です」
何をいっているのか、と愛らしく小首を傾げてみせるアンジェルに、セヴランの方こそ何をいっているんだと真顔で返す。存在しているだけで国の平和を保っているのは、アンジェルである。騎士だけでなく、国民のほとんどが彼女の笑顔を守るために、と治安維持に努めているのだ。この国では不道徳な行為などを叱るときの文句は、姫君が泣くぞ、だ。恐ろしいもので脅すのではなく、王女の笑顔と天秤にかけさせる方が効果的な国民性である。
「こういったことはお止めくださいと、再三申し上げたはずです」
「大丈夫よ。国税ではなく、合わなくなったドレスをクラリスに売ってもらったものだから」
侍女に私財をつくるのを手伝ってもらったとにこやかなアンジェルに対して、名の上がった侍女へ咎める眼差しを送るセヴラン。王女至上主義の侍女クラリスは、そんな彼の視線をものともせず涼しい顔をして控えている。
王族の衣服は国税によってつくられているため、本をただせば国税であるし、合わなくなったからと簡単に売り払えるものでもない。クラリスは、有能な侍女であるが、そんなところでまで手腕を振るわなくてもよいのではないか。アンジェルの御心のままに、と忠実すぎるのも問題だと、セヴランは感じた。
侍女を視線で咎めても効果がないと、セヴランはアンジェル本人に視線を戻す。
「姫様の私財であれば、余計にいただく訳にはまいりません」
どうか自身のために使うように、とセヴランは断り、彼女の手へ金貨を返した。この一枚で平民が一年は暮らせる。そんな額を毎日渡そうとしないでほしい。
「ああ、そんな真面目なところも、それゆえに固い表情もとても素敵だわ。けれど、こんなに存在するだけで私の世界を薔薇色にしてくれる貴方に、何も貢げないのは辛いわ……」
光悦とした表情を浮かべたあと、至極残念そうにアンジェルは呟いた。愛らしい彼女に物憂げな表情をされると、誰しも首を縦に振りたくなるものだが、セヴランだけは頑として譲らなかった。
「働きに対して充分な給与はいただいてます」
「その頑なさが堪らないわ」
謎のお布施を断ることには成功したが、アンジェルにうっとりとされてしまい、セヴランは頭痛がした。一体いつになったら王女とまともに会話できる日がくるのだろうか。
不毛な押し問答を経て、セヴランはようやく仕える主を朝食へ向かわせることができた。これが一日のはじまりなのだから、先が思いやられる。一方、これからセヴランが護衛として追従することが確定しているアンジェルの表情はいきいきと輝くのだった。
アンジェルの護衛騎士としてセヴランがついたのは、彼女が十七、彼が十六のときだった。
王が愛娘へつけるのに要望した条件を満たしたのが、意外にも年若いセヴランであった。強さだけでなく、真面目を絵にかいた堅物であることで有名な彼ならば、王女付きにしても問題ないと判断された。
近衛騎士団長につれられアンジェルの前に現れた彼は、すでに成長期を迎えており彼女より背が高く、均整の取れた体躯の少年だった。アンジェルも齢を聞くまで、年下だとは思わなかった。
華奢で細い手足のアンジェルと違って、筋肉で締まった彼が騎士服に身を包み、跪いて彼女へ首を垂れる。
「本日より仕えさせていただくセヴラン・ノエル・サロモン・ル・ゴフです。誠心誠意、王女殿下をお守りいたします」
礼節に則った挨拶。真顔で固い声音で述べられたため、定型文のようだった。俯くに従って、さらりと前髪が流れ、目にかかる。ストロベリーブロンドの前髪越しに、伏せられた同じ色の睫毛が覗いた。
「好き」
ぽろりと零れたのは、アンジェルの心の声だった。
王女の返事を待っていた周囲は静寂を保っていたため、その呟きは部屋にいる全員の耳に届いた。本来なら、王女から挨拶を返されれ、面を上げる許可をいただくところだ。その許可を得られなかったセヴランは、予想されなかった言葉を耳にして俯いたまま固まる。
その場にいた全員が聞き間違いを疑ったが、続くアンジェルの言葉がそれを否定した。
「ストロベリーブロンドの髪に甘やかな顔立ち、なのに厳格にひきしまった表情、服のうえからでも分かる鍛えられた身体、騎士服は貴方のためにあったのね。この世に、ここまで完璧な人が存在していたなんて……! もう好き以外のなにものでもないわ!」
彼女のいう通り、セヴランは外見だけでいえば、微笑みかければ女性が一目で落ちるだろう美丈夫だった。しかしながら、彼の生真面目な性格が如実に表れた表情筋は笑うことなく、眉間に皺がよりがちだ。真一文字に結ばれた口は、必要最低限しか話さない。年相応な可愛げが一切ない、と騎士仲間からは揶揄されていた。
だが、その性格がにじみ出た表情筋含め、彼の容姿すべてがアンジェルの好みど真ん中であった。好みの集大成が具現化して現れたものだから、彼女は驚愕と歓喜に震えてた。王が大事な愛娘にうつつを抜かさない男を護衛に選んだというのに、まさか愛娘の方がうつつを抜かすことになるとは、アンジェルの父も思わなかっただろう。
理解の及ばない言葉が降り、困惑したセヴランは彼女の許可なく顔をあげる。その行動を咎めることなく、むしろ彼の瞳の色をよく確かめることができアンジェルは歓喜し、光悦の滲む眼差しを向ける。国中から愛される王女から、おそろしく唐突な愛を一身に受け、セヴランは彼女との間に時空の歪みが発生したように感じた。
以降、現在にいたるまでアンジェルは護衛騎士セヴランへ日々讃辞を贈り、どうにか彼へ貢ごうと試行錯誤する。そして、それらすべてをセヴランは過分だと頑なに断り続けるのが日常と化した。
セヴランが非公式な場で姫様と呼ぶようになったのも、彼にとっては発端が謎な押し問答の結果だ。尊び敬う相手に畏まられるのはおかしい、とアンジェルがいいだし、名前で呼ぶように懇願してきたのだ。あまつさえ、逆に自分に敬称をつけて呼ぼうとしたものだから、セヴランは本当に困った。尊び敬うべき相手はアンジェルの方だというのに。その事実も説くも、彼女が主張を変えないものだから、いたしかたなく妥協案として王女殿下ではなく姫様と呼ぶことでこちらを様付けで呼ぶことを防げた。
アンジェルと話していると、警護とは別のところで気疲れしてしまう。警護中は堪えているが、自室に帰るとセヴランは長い溜め息を吐くようになってしまった。
その日は、式典があり、王女であるアンジェルが国民の前に顔をだす。警護の観点と、全員が王族の顔をみえるように広場に面した二階のテラスからの挨拶だ。テラスは半円状に突き出した箇所があり、そこから広場が見渡せるようになっている。
王の挨拶を粛々と聞いていた民衆が、王女の挨拶の段になると歓喜に湧く。可憐な彼女の声を聴くため、アンジェルが話しているときは静かに耳を澄まし、終わった瞬間に民衆から歓声があがる。アンジェルはそんな彼らに微笑んで手を振ってみせた。
たおやかな愛されし王女の振る舞いをしていたアンジェルであったが、彼女の全神経は背後へ集中していた。
他の騎士たちとともに整列し、警護にあたるセヴランが背後にいる。周囲を警戒しながらも、自分が突飛なことをしでかさないかと視線が向いているのを感じる。アンジェルとしては、心配してくれていることも嬉しいし、周囲への警戒を怠らない真面目さもとても好きだ。叶うなら後ろに振り向いて警護している彼を、延々と見つめたい。内から湧く欲求と闘いながら、彼女は公務を全うするのだった。
式典の挨拶を終え、私室へ戻ったアンジェルを、侍女のクラリスが出迎えた。クラリスの持つ盆には、レモン水のはいったグラスが二つ。
「あら?」
「どうして二つもあるんだ」
アンジェルが小首を傾げるのと、セヴランが数が合わない点を指摘するのは同時だった。そして、なぜ相手が疑問を感じるのかと、お互い顔を見合わせる。
「アンジェル様、本日は陽光が強いのでセヴランが用意するように、と」
「まぁ、そこまで心配してくれるなんて、なんて神対応なの……!?」
「もう一つはアンジェル様からあなたにです。セヴラン」
「何……?」
推しである護衛騎士の細やかな気遣いに感銘を受けるアンジェルと、自分の分もあることに驚きを隠せないセヴラン。
「だって、陽射しが暑いほどなのに、セヴランってば長袖の騎士服をきっちり身に着けているじゃない。脱水症状でも起こしたら大変だわ」
アンジェルは、セヴランの騎士服姿が好きだ。それまで騎士服に特別思い入れなどなかったが、セヴランに出会いこの制服は彼のためにあるのだと啓示を受けた。彼のためにある服といっても過言ではない。ただそう思っているのは、アンジェルただ一人である。
しかしながら、暑い中気崩すことなく不動で立っていたのだ。服装含めて一貫したストイックさは堪らない半面、体調が心配にもなる。推しが倒れたら大変だ。
「そこまでお気遣いいただかなくとも……」
思いもよらない配慮を受け、セヴランは戸惑う。日頃の過剰な貢物と違い、今回は真っ当だったから余計だ。
「屋外の警備にあたってくれた騎士たちにもレモン水を手配しているのよ。もう用意してしまったのだから、ね。セヴランも」
他の騎士たちにも用意したのは、セヴランの生真面目な性格を考慮してだ。自身だけ優遇された場合、彼は頑として断るだろう。しかし、公平な配慮なら彼も無下にはできない。そう、これはひとえにセヴランに貢ぐためであり、他の者の分含めて推し活の一環である。騎士たちはそうとも知らず、まさしく未来の国母に相応しいと、彼女の配慮に感激し、アンジェルへの支持が高まるのだった。
アンジェルの布石により、断ることができなくなったセヴランは、グラスに手を伸ばした。ぬるくならないうちにと一気にグラスの中身を干し、袖口で口元を拭って、盆へ返した。
「ありがとうございました」
きまり悪げに礼を述べると、アンジェルは両手で頬をおさえ、わなわなと震えていた。
「~~っいやらしいわ!」
「は?」
「なんていやらしいの!? 水を飲んで隆起する喉といい、濡れた唇を拭う様といい、色気が溢れすぎているわ! 一気飲みする男らしさとそんな色気を兼ね備えて、どうする気なのっ、私以外の女性が目にしたら卒倒するだけでなく孕んでしまうわ……!」
「そんな訳ないでしょう」
勝手に昂ぶるアンジェルに、セヴランの感謝の念すら静まった。奇怪しな理論に冷静に返す。ただ水を飲んだだけで、人が倒れたり孕んだりはしない。
「不意打ちだったから、記憶に焼き付けるのを失念したわ。もう一回!」
「一杯で充分です」
自分の分を差し出してまで、食い気味に懇願してくるアンジェルに、セヴランはにべもなく返す。他人の健康管理を気遣うなら、自身の健康管理を怠らないようセヴランは彼女を諫める。そうして、アンジェルは渋々諦めて自分の分のレモン水を口にするのだった。
彼女に気を許すとロクなことにならないと、セヴランは内心で嘆息する。
たかが飲む様子ぐらいで、と思ったセヴランは、彼女が飲み終わるまでの間、ついその喉元や口元に視線がいっていたことに気付かなかった。
夜も更け、王宮を一人歩くセヴランに声がかかる。
「今日も、お勤めご苦労さん」
「団長……」
声の方に振り返ると、獅子のような男がいた。げんなりとした声音で、セヴランは上司の可笑しげな様子へ不服を訴えた。そんな態度を吹き飛ばすように、ラザールは笑ってみせる。
「帰るとこだってのに、かてぇな。お前は」
「まだ見回りが残っています」
「それはお前が勝手にやってることだろ。姫さんのために毎日残業して、感心なこって。そんなに惚れ込んでんのか」
「護衛として当然のことをしているまでです」
固い表情と口調で、職務の一環だと断言するセヴラン。平和な国の王宮で何かあろうはずもないが、そういった隙を周辺国に狙われる可能性は零ではない。この国は中立を保つことで、不可侵条約を周辺国と結んでいる。平和ボケしないよう騎士が厳しく訓練されているとはいえ、限りなく零に近いリスクに余念なく警戒しつづけるのはセヴランぐらいなものだろう。
蟻の子一匹通さない厳格さが、王女を大事に想う気持ちの表れとラザールは踏んでいるが、指摘しても本人が認めないものだから平行線のままだ。
「その調子じゃ、まだ折れてやってないのか」
「まだも何もありません」
ラザールは、二人を引き合わせた張本人のためアンジェルがセヴランに傾倒していることを知っている。初対面のその場に居合わせ、爆笑したい衝動を必死にこらえていた彼だ。日々くり広げられるアンジェルとセヴランの攻防を面白がっていた。
仏頂面で面白味のない男だが、要望された条件にちょうどよいと、王にセヴランを推薦したのは騎士団長のラザールである。愛嬌の塊のような王女の傍にいれば、少しは彼の態度も軟化するのでは、という目論見もあった。結果として、むしろ渋面が増すとは可笑しすぎる。いずれにせよ、アンジェルはセヴランの表情筋を動かすことのできる数少ない人物となった。
「一年以内にお前が絆される方に賭けている俺の身になれよ」
「息子を賭けのネタにするな」
そんな親がどこにいると、セヴランが眉を寄せると、ラザールはここにいると胸を張った。セヴランは呆れて溜め息を吐く。
平和ゆえに話題性のあることをみつけると湧く王宮内。騎士団や使用人たちは、いつセヴランが陥落するかと期待して見守っている。その筆頭に、自分の父親がいるのはセヴランとしては実に頭の痛いことだ。ラザール・オノレ・フレデリク・ル・ゴフ、騎士団長を務めるセヴランの父親は何事も笑い飛ばすことができる男であった。
「第一、あれは違うだろ」
色恋沙汰として王宮内の噂にあがっていることは、セヴランも把握するところである。しかし、毎日のように貢がれそうになっているセヴラン自身がよく解っている。彼女が自分に向ける感情は、過剰であるが恋愛感情ではない。
感情の質の違いを、ラザールも口角をあげることで肯定した。
「そこをはき違えて自惚れるお前がみたかったのに」
「悪趣味だな」
嬉々として息子をいじらないでもらいたい。ラザールがこんな調子だから、セヴランはどんどん融通が利かない男に育ったのだ。
「そんな不毛なことする訳がないだろ」
「じゃあ、不毛じゃなかったら折れるのか?」
揚げ足取りしてくる父親を黙らせるため、セヴランが拳を振るうと、容易く受け止められてしまった。腐っても騎士団長なだけはある。
多少の口惜しさを感じるも、これ以上反応しては父親の思うつぼだと、セヴランは会話を終了させた。
「……俺は身の程を知っている」
そう切り上げて、セヴランは踵を返し、王宮の見回りに向かうのだった。
その日の公務は、孤児院への訪問であった。
アンジェルの王女としての公務は、式典への参加だけでなく激励を民へ贈る活動もある。そのなかでもアンジェル自身が率先して行っているのが、孤児院への訪問だ。王都近辺の数か所へ、定期的に順番に訪ねて子供たちと話す。孤児院に着くと、汚れてもいいよう侍女から借りたお仕着せを纏い、場合によっては子供たちと泥んこになって遊んだりもする。予想外にドレスのときに汚されたとしても、アンジェルは微笑んで許すのだ。
聖母がごときその様子に、民は彼女への信愛を増してゆく。
「おーじょさまー、ぜんぶかけるようになったのー」
「まぁ、アルファベットを全部? すごいわっ、私がニコレットの歳のときはこんなに綺麗に書けなかったもの」
「ぼくは、この本読み終わったんだ」
「この本は馴染みない単語もあったのに……、ティボーはただ賢いだけじゃなく想像力豊かなのね」
褒めてもらいたがる子供たちに、心からの称賛を贈るアンジェル。会わない間に遂げた成長を報告する子供たちは、彼女の前では天使のようだ。彼女は、孤児だからと憐れむのではなく、したたかに生きる子供たちを心から尊敬している。それが眼差しから伝わるから、子供たちも素直になるのだ。
護衛であるセヴランももちろん同伴している。アンジェルと異なり服装を場に合わせず、常と変わらぬ騎士服を纏っている。アンジェルと周囲が把握できる壁際や木の下で不動で見守っている。銅像のような彼に挑む少年もいたが、あまりの反応のなさに早々に飽きてしまった。
セヴランも、公務の際の彼女は立派だと思う。ただ過分に奇怪しい一面を知っているため、子供たちのように純粋に慕う気にならない。自分に対する態度と雲泥の差に、残念な心地を覚える。かといって、彼女の唯一ともいえる欠点をみせて子供たちを失望させたいなどとは思わない。世の中には知らない方がいいこともある。護衛騎士の守るものは、身辺だけではなく、彼女の地位や名誉も含まれるのだ。
子供たちが遊び疲れ、昼寝の時間になったため、アンジェルは孤児院から帰ることにした。見送りは子供たちの世話をする修道女。彼女は、アンジェルに深く感謝を述べる。
「王女殿下のご慈悲に、いくら感謝してもしきれません」
「尼僧様は大袈裟ですわ」
謙遜するアンジェルに対して、修道女は力いっぱい首を横に振った。
「いいえ、いいえっ、王女殿下が孤児院に寄付くださる金貨一枚で、どれだけ我々が救われていることか……! 必ず子供たちのために使うように、と厳命くださるおかげで、他の孤児院の者たちも感謝しております」
アンジェルが用途を指定して寄付してくれるおかげで、教会の上層部に掠め取られることなく純粋に子供たちの生活と育成のために寄付金を利用できている。現場の人間にはそれがどれだけありがたいことか。
「ほ、本当に、大したことでは……」
感謝の眼差しを受け、アンジェルは気まずさを感じる。実は、純然たる善意による行動ではないのだ。それを暗に伝えようと否定するも、修道女には結局謙虚な人柄だと勘違いされてしまった。何かに勘付いたらしい護衛騎士の視線が刺さりながら、彼女は修道女からの感謝の言葉を受けるのだった。
帰りの馬車にのっても、視線は刺さり続けた。アンジェルは視線を逸らし沈黙を守るが、セヴランには金貨一枚という単位に覚えがあった。
「……姫様、どういうことでしょう」
「な、なにが?」
「自分に握らされた金貨は、姫様の私財です。お断りした以上、今も姫様がお持ちなのですよね」
「それは、もちろんいつも通り……、ね? クラリス」
鋼鉄の表情で圧をかけられ、アンジェルは視線を泳がせながら、隣の侍女へ答えを投げた。クラリスは静かな表情で、頷く。
「はい、いつも通り孤児院へ言葉添えのうえで寄付いたしました」
額が額なので、毎回違う孤児院へ寄付をしている。アンジェルは、ほぼ毎日セヴランへお布施を試みていた。その頻度からして国中の孤児院へ寄付が回ってるとみて相違ないだろう。孤児院勤めの修道女が感謝するのも当然であった。
「姫様?」
「ごめんなさいっ、推し活の一環です!」
私財をなげうつにもほどがあると、セヴランが諫めようと口を開くと、アンジェルが即座に非を認め、謝罪した。欲求には耐えられなかったと。
セヴランに直接貢げないのであれば、間接的に貢ぎたいと、侍女のクラリスに協力してもらったのだ。彼に受け取ってもらえなかった金貨を、孤児院へ寄付することで、間接的にでも推し活ができたと充足感を得ていた。慈善の心ではなく、推し第一の精神による寄付だったのだ。
「どうして、そういうことになるのですか」
「だって、セヴランはル・ゴフ卿の子になったことで才能を伸ばすことができたのでしょう? 優しい貴方は自分と似た立場の子供たちに心を痛めているはずだわ。だから、貴方のように子供たちが充分な教育が受けられるよう支援することで、貴方の心を少しでも軽くできればと……」
セヴランはわずかに瞠目する。
「自分が孤児だと知っていたのですか……?」
セヴランは、騎士団長ラザールと血が繋がっていない。彼は孤児で、ラザールの養子だ。国境の森で獣に襲われた馬車を発見したラザールが、奇跡的に生き残った赤子を拾い育てた。国に忠誠を誓った身だったラザールは未婚だったため、跡継ぎがちょうどほしかったのだと養子縁組をした。
ちょうどいいだけで身元も怪しい子供の親になるなど、酔狂な男だ。成長して物心つく頃には、セヴランは父親をそう評価していた。感謝はしている。どこの国の血が流れているともしれない自分を育ててくれたラザールに報いるために、彼は自身を律し努力し続けてきた。自分を受け入れた国、育った国に忠誠を誓うために。
出自を恥じてはいないが、今となっては話題にのぼることもない事実のため、アンジェルが自分の出自を知っていたことに少なからず驚いた。
すると、彼女は簡単に情報源を明かす。
「ル・ゴフ卿がね、セヴランのこと教えてくださるの。例えば、まだ身体ができあがる前は女顔だってよく揶揄われて、その悔しさからいきなり髪を短くして、ル・ゴフ卿は似合わなすぎて笑ってしまったこととか。ひよこみたいな髪型だったと聞いたわ。そんな思春期のセヴラン、見たかったわ。さぞ可愛らしかったことでしょうね」
貴重な姿を想像してアンジェルは頬を染めるが、セヴランの方は父親へ殺意が湧いた。余計でしかない情報を勝手に漏洩しないでもらいたい。
「そういったささいな出来事をつぶさに語れるほど、ル・ゴフ卿はセヴランを愛しているのよね。本当に素敵だわ」
恥でしかないことを、そのようにいわれてしまえば言葉もでない。
口元を真一文字に引き結ぶセヴランの態度を、照れと断じたアンジェルはその様子にもときめいた。表情の硬さに変わりはないが、いつもまっすぐに見返す視線が逸らされている。推しの貴重な照れ。可愛い。
愛想の欠片もない男に可愛さを見出し悶えることのできる主人に、侍女のクラリスは隣で感心していた。
自身の恥を咳払いで押しのけ、セヴランは気になったことを訊ねる。
「姫様は……、自分が孤児だと知ったうえで、そのような態度でいらっしゃたのですか?」
出自が判らないのだ。他国との境でみつかった、どこの血が流れているとも知れない人間。自分の身には犯罪者の血が流れている可能性だってある。本来なら王族に近付くことも許されない身の上だ。ラザールが身元保証人となってくれているからこその格別の厚遇だと、セヴランはよく解っていた。
だから、不思議でならない。王女のアンジェルが、身分違いにもほどがある自分を気に入るなど。出自を承知のうえだというなら、余計だ。
しかし、アンジェルはきょとりと小首を傾げる。
「人は、どこで生まれるかなんて選べないでしょう? 私が王家に生まれたのも、セヴランが生まれてすぐこの国の地を踏んだのも、たまたまだわ。むしろ、そんな境遇でストイックに生きるセヴランの方が、私よりずっと高潔で素敵よ」
セヴランの出自は、彼を見下す理由にはならず、むしろ彼の生きざまは敬愛すべき美点だとアンジェルは瞳を輝かせた。
存在の全肯定をされ、セヴランは先ほどとは別の意味で彼女から視線を逸らした。常日頃より彼女からの評価は過分だと思っていたが、なんとも面映ゆいことだ。
「そんな貴方は、絶対に幸せにならないと。きっとあたたかで素敵な家庭をもてるわ。それこそ、私が恐れ多いくらいに……」
アンジェルの確信のこもった言葉に惹かれ、セヴランは正面を向く。彼女は一体どんな顔でいっているのか。
悟りきった表情で、わずかに睫毛が伏せられていた。馬車の窓から注ぐ昼下がりの陽光のように、おだやかな笑みを浮かべている。
「恐れ多いのは自分の方です」
セヴランはぐっと拳を握り、手を伸ばしたくなる衝動を堪えた。ひだまりのような笑みだったというのに、諦観にみえたのは錯覚だったのだろうか。
触れるのも叶わぬ相手に、その衝動はおこがましいにもほどがある。握った拳のように、固く固く揺らいではならないと決意を結び直した。
王都が賑わい始めた。アンジェルの誕生日が近いからだ。
アンジェルは、もうすぐ十八となる。彼女を祝う誕生祭のため、王都の民たちは勢力をあげて準備をしていた。自室の窓からみえる夜闇にも、いつもより多い灯りがうかがえ、かすかに賑やかな声や囃子が届いた。きっと祭り当日のための演奏や劇の練習を遅くまでしているのだろう。
いつもなら笑みが浮かぶその光景を、アンジェルはただ静かに眺めた。
「……私が推せるのもあと少しね」
手元に視線を落とすと、書き終えた招待状たちがテーブルに散らばっていた。今回、父王に周辺国の王侯貴族への招待状の一部を任された。アンジェルが手ずから書いて送るのは、歳若い男性がほとんどだ。
一人娘のアンジェルに、王位を継ぐための婚姻が迫っていた。自身の立場をアンジェルは理解していた。十八にもなれば、誕生日のパーティーに招く相手のなかから、婿に迎える人を選ばなければならない。
セヴランがどんなに清廉潔白な騎士であっても、婚約者ができれば異性が近くにいることを快くは思わないだろう。彼を傍におけるのは、自分が婚姻するまでのことだ。
「セヴランに出会えてよかったわ」
存在することに感謝できる奇跡のような存在。ただひたすらに愛せる相手に惜しみない愛情を向ける体験ができた。彼は常に自分を大事にする言葉を向けてくれる。それが、王女という身分によるものでもよかった。職務に真面目な彼に叱られるのも幸せだった。
「クラリスも、協力してくれてありがとう」
「いえ、すべてはアンジェル様のご随意に」
控える侍女へ感謝を伝えると、当然のことと返された。限りがあると解っているから、クラリスも自分の我儘を聞いてくれたのだ。セヴランからすると甘やかしすぎに映ったことだろう。しかし、幼い頃からアンジェルをみてきた彼女が、少しでも主人の希望を叶えてあげたいと願うのはごく自然なことであった。
いつもは誕生日が待ち遠しかった。父が必ずちょっとした我儘を聞いてくれるから。十七の誕生日に願ったのは、物語にでてくるような自分だけの騎士だった。本当に自分だけの、自分の理想が詰まったかのようなセヴランが護衛騎士となったときは、本当に感激した。その感激の分だけ、十八の誕生日が少しでも遠退かないかと願ってしまう。
「セヴランに毎日会える日々は、本当に幸せだったわ」
彼が毎朝迎えにきてくれるたび、心が躍った。鉄面皮のような彼も、一緒に過ごすうちに渋面の険しさが増したり、いろんな表情が垣間見えた。眉間の寄せ方で怒っているのか、困っているのか、判別がつくようにもなった。
「もっといろんな彼を見たかったわ。セヴランの私服が見れなかったのは残念ね……、城下にいくときですら騎士服なのだもの。確かにとても似合っていて、セヴランのための服だし、そんな真面目なところも好きなのだけど。見れないからこそ、稀少な姿を拝みたくなるものよね。それに、一度ぐらい笑った顔も……」
推しのいろんな姿や表情を拝みたいと思うのは、自然なことだ。孤児院へ訪問したときなど、子供たちが畏縮しないようアンジェルがお仕着せを着たのに対し、職務勤勉なセヴランは一貫して騎士服だった。私服でなくとも、騎士服以外の彼がみれるかと期待していたアンジェルは、子供たちが怯えるかもしれないと促してみたが、ならば子供たちに近付かないと返されてしまった。そう一貫した態度をとられれば、アンジェルも引き下がるしかない。
自分が困らせてばかりなせいもあるが、もともと表情の乏しい彼の笑うところなどレア中のレアだ。叶うなら、ぜひ拝みたい。あの彼が笑うことがあるなら、それだけ彼に喜ばしいことがあったときだろう。推しの幸せの瞬間など最高に決まっている。
つらつらと欲求をあげていき、そうしてぴたりと途切れさせた。
「けれど……、きっとそれを拝めるのは、セヴランの奥さんね」
瞳に浮かべるのは諦観だ。
王女の身でできることは限られている。浮かんだ欲求たちは、どれも推し活の範疇を超えた願いだ。彼に相応しくない自分が抱くのは、恋愛感情じゃない。充実した日々を与えてくれていることに感謝するだけでいいのだ。
事実を再確認して、諦観を振り払ったアンジェルは、招待状をまとめ気合を入れた。残された時間、存分に推しを堪能しなければ。
翌日から、元気だった。
「セヴラン、今日も生きていてくれてありがとう!」
「そう言いながら、金貨を握らせるのはやめてください」
眩しい笑顔に直面し、セヴランは朝から渋面になった。
握らされた金貨を押し返され、アンジェルは頬を膨らませた。
「もうっ、一度くらい受け取ってくれたっていいじゃない」
「受け取れません」
セヴランの頑なな態度は相変わらずだ。
「受け取ってくれないと、私は貴方に何も残せないじゃない」
ぽそり、と零れた言葉は、聴こえるか聴こえないかの声量だった。セヴランの視線を感じて、アンジェルはことさら明るく笑った。
「朝食でしょ」
もう仕度はできていると、アンジェルは自室をでて食事の間へと向かう。横を通り過ぎてゆく彼女に振り返り、数歩後ろに下がって追従する。腰まであるやわらかな長い髪が歩くたびに揺れ、後ろからでも細い肩が覗く。常に伸びだ背筋、ぶれない軸に彼女の高貴さを感じる。それでも華奢でしかない背中をみるたび、守らねばと思いを新たにする。
数歩先に届かないひそやかさで、セヴランは呟く。
「残るもなにも、消えようがありませんよ」
こんなにも心を占める相手を忘れようがない。彼女はどれだけのものを自分に残しているのか知らないのだろう。
先ほどの声が届いていたのを知らないように――
アンジェルの誕生日は、城下町も賑わっていた。
国中が彼女の誕生を祝っていた。花が舞い、音楽が奏でられる。城下町は人々の笑顔で溢れかえっていた。
パーティーの支度で侍女たちがかかりきりのため、護衛騎士の出番はない。パーティーホールへのエスコートも父王だ。ずっと働きづめだったのだ。セヴランも今日ぐらいは休んだらいいとアンジェルは思う。
明日からどうしようか。今日、婚約者ないし候補者を決めてしまえば、セヴランをいつ解任してもよくなる。護衛は女性騎士で固めることになるだろう。
それがすぐにでないにしても、別れる前に最後に最大級の感謝を伝えたいものだ。それにしても、自分から護衛騎士の解任を告げられるだろうか。言い出せなくとも、父が頃合いを見計らって外すかもしれない。
明日からの展望が浮かばず、アンジェルはつらつらとそんなことを考える。侍女たちにより、身を清め、磨き上げられ、この日のため精緻な花の刺繍が施されたドレスを纏う。八重の花弁のようなスカートがふわりと広がる。あげられ、高い位置で結わえられた髪は、珍しく腰より上に毛先があった。化粧を施されると大きな瞳の愛らしさが際立ち、花の妖精とみまがうほどだ。
見事な仕上がりに、クラリスたち侍女へ礼をいって労う。彼女たちも満足そうに微笑み返した。
心が定まらなくとも、状況は移り変わってゆく。パーティー開宴の時間がきて、父王が迎えにきてエスコートされる。
刻一刻とセヴランと離れる時期が近付いているのを感じる。歩調を合わせて隣を歩く父は優しく、自分を大事にしてくれていると知っている。目に入れても痛くないほど愛されているというのに、自分も誰かを愛したいと願うのは我儘だ。期限付きとはいえ、それを許してくれた父は本当に愛情深い。
「今年のお願いをまだ聞いていないな。誕生日プレゼントは何がいい? アンジェル」
こうして毎年娘の望むものを、と直接訊いてくれるのだ。だから、アンジェルは屈託のない笑みを返した。
「何も、浮かばないの」
本当に何も浮かばない。これまでは、毎年ひとつは浮かんだというのに。王家の者として定められた未来以外、先がみえなかった。
娘の笑みをどう受け取ったのか、少しばかり眉をさげ、父王は浮かんだらいうように言葉を添えた。
宴の間には周辺国の王侯含め多くの人間がアンジェルの誕生日を祝いにきていた。きっとアンジェルが招待状を送った婚約者候補もいることだろう。父王が開宴を告げ、アンジェルも祝いに訪れてくれた礼を述べる。そんな挨拶の最中にも、アンジェルはある人を探して視線を巡らせる。
職務に真面目なセヴランのことだ。会場の警備など他の業務をしていたりしないだろうか。もしそうなら、一目ぐらい推しの姿を拝みたい。父王から休暇を与えられているであろうというのに、そんなことを思い、つい姿を探してしまう。
招待客を見渡せるよう、階段の踊り場から挨拶をしていたので、アンジェルは人を探しやすい位置にいた。
数多の人の頭がみえる。もちろんストロベリーブロンドの髪の者もいくらかいた。けれど、同じストロベリーブロンドであっても、アンジェルには見分けることができる。彼は清潔感のある身だしなみはするが、自身の容姿を磨こうという意識がないため他の貴族令嬢令息と違い艶やかではないのだ。あの淡く光を反射する髪を香油で磨いたら、神々しいこと間違いないとアンジェルは踏んでいる。
そんな自身を粗雑に扱うことのある彼だから貢ぎたくなるのだと、きっとセヴランは知らないだろう。
ほどなくして、アンジェルのよく知るストロベリーブロンドをみつける。それも、目の前で。階段をおりた先に貴公子姿のセヴランが待っていた。
「どう、して……」
アンジェルは呆然として、彼と向き合う。探していたけれど、本当にいるとも思っていなかった。
「見たいとおっしゃっていたでしょう。ひよこ頭」
流さなければ目にかかるほど長い前髪がずいぶん短くなっていた。
「可愛い……、似合っていないのがとてつもなく可愛いわ……!」
拝めると思っていなかった短髪のセヴランに、アンジェルは感激する。感嘆があとから溢れるのを押さえるために、両手で口元を覆うほどに。聞いた通り確かに似合っていない。けれど、それが大変愛らしく映る。本人も似合わない自覚があるのか気恥ずかしそうで、それがまたいい。
つい反射で推しの供給に反応してしまい、疑問に対する答えになっていないと気付くのが遅れた。これまでの労をねぎらって彼は休暇をもらっていたのではないか。貴族のラザールの養子である以上、臣下として彼にもパーティーに参加する資格はある。しかしながら、彼は常に客ではなく騎士としての立場でいた。だからこそ、アンジェルは驚きを隠せない。
目を白黒させるアンジェルに、セヴランは目元をやわらげ、彼女の前に跪く。
「王女殿下」
姫様と呼ばれないことに、つきり、と胸の痛みを覚える。退任の挨拶をわざわざ彼からされるのか。最後だから、彼が神供給してくれたのだとアンジェルは思った。
「自分は生涯あなたを忘れることがないでしょう。なので、どうか伴侶としてあなたを生涯守る許可をいただけませんか」
だから、最後の挨拶かと思いきや求婚を懇願され、アンジェルの思考は一時停止した。
「ラザールだけでなく、息子のセヴランまで所帯をもたないと言い出すから困ってな。誰なら伴侶にできるのか聞いたら、私の天使だというではないか」
「はい。陛下の大事にされる殿下を忘れることができません。王女殿下が心を占めている以上、他の女性に二心を持つことなど到底無理です」
「進言に耳を貸していただき、感謝いたします。陛下」
「最愛の姫をどこかの国の者と結ばせたら、その国を知らず贔屓してしまうのでは、と懸念するそなたの意見はよく分かる」
騎士団長としてラザールは王女の婚姻について意見をしていた。周辺国と親交を深めるのもいいが、たった一人の王女の婿を優遇しないとは王も言い切れなかった。中立を保つために、国内の者を婿入れさせる選択肢もあってよいというラザールの進言を、王は受け入れた。その進言に親心がなかったかといえば嘘になる。だが、同じ父親である王はその点も含め共感したのだ。
「とはいえ、アンジェルが望めば、の話だ。どうする?」
推しに婚姻を願われているという異常事態を理解するため、アンジェルが固まっている間に、父王が経緯を説明した。つまり、アンジェルの心ひとつで、婚姻相手を選んでもいいと。そして、その選択肢に推しとの結婚もあると。
ようやく理解にいたったアンジェルは、恐れ多さにガタガタと震えだす。
「そんな……、だって、望んではいけないことで……、私は、推しが、セヴランが幸せになってくれれば」
「あなたにフラれれば、自分は少なからず不幸にはなりますね」
「それはいけないわ! 貴方は幸せになるべき人よ!」
推しとの婚姻など禁忌と思っていたアンジェルだが、断るとセヴランが不幸になると聞けば、間髪入れずにその未来を否定した。
「では、お受けいただけるので?」
「うっ、それ、は……」
見上げてくる眼差しから逃れることができず、アンジェルは困惑する。推しの顔を真っ向から拝める機会を棒に振るなど、アンジェルにできる訳がなかった。自分を求めてくれると思わなかったから、顔が熱くて仕方がない。固い彼のことだから、色事に関心を示したらもっと照れたりするのではと想像していたが、予想外に腹をくくると迷わない男だった。そんな彼もカッコいいと惚れ直してしまいそうになる。いや、すでに時遅しだった。
差し出された手の魅力に、アンジェルは抗えなかった。深呼吸をくり返して、ふるふると震えながら彼の手に、自分の手を重ねた。
そうして、隣立つ父親へ振り向く。
「お父様、本当は……、お願い、あったの。私、セヴランがほしいわ」
ずっと、願ってはいけないことだと思っていた。一目惚れして好きだと自覚した瞬間、気持ちを伝えても、気持ちを求めないと決めていた。近くにおけても、手の届かない人だとばかり思っていた。
愛娘の願いに、父王はそうか、と少し寂しそうに微笑んだ。いつかこんな日がくると解っていた。むしろ、十八になるまで、ぞんぶんに愛させてくれた娘は実に親孝行だ。そんな娘の願いならば、叶えてやりたい。
アンジェルは新たな決意を胸に宣言する。
「セヴラン、貴方の幸せが私にあるというのなら、私は精一杯貴方を幸せにするわ」
「ありがたき幸せ」
許可を得たセヴランは、白魚のような手の甲へ唇を落とした。
推しを幸せにするために覚悟を決めたはずのアンジェルは、その触れ合いだけで顔どころか全身を真っ赤にする。一人で立つのも怪しくなるほど動揺を露わにする彼女に、セヴランは愛しさがこみ上げ、抱き上げた。
当然、アンジェルは余計に狼狽する。
「お姫様抱っこなんて、だっ、だめよ、セヴラン!」
「姫様以外の一体誰にお姫様抱っこするんですか」
姫を抱くための名称を王女本人が拒否するとは、奇怪しな話だ。
「推しに触れるなんて、恐れ多すぎるわ……! 供給過多よ!!」
「っふ、もう推しじゃありませんよ。アンジェ」
愛しい人になろうと、推しであることには変わりない。そう主張したいアンジェルであったが、初めてみた彼の笑顔の破壊力と愛称呼びという供給過多に昇天し、気絶したため伝えることができなかった。
期限付きの彼女の推し活は、これから一生涯続くことが確定したのだった。