カフェにやってきた軍人
今日もいつもと変わらず、あちらこちらから楽しげなおしゃべりが聞こえてきている。満席でもないが、それなりの数の客が今日も珈琲を楽しんでいた。見渡せば店の半分以上は学者。独特な雰囲気だ。
学者たちは集まると、自然と意見を交わしはじめる。初めは周囲を気にしてぼそぼそと小さな声で話しているのだが、次第に興奮状態に陥り大声で言い合いになったり、汚い言葉が飛び交い始める。ここに通う学者は皆、線が細く、ひょろっとしている人がほとんど。どんなに騒いでも、微笑ましい感じすらする。
所々聞こえてくる内容はとても難しく、聞いてもよくわからないし、気を利かせて説明されてもさっぱりという残念な理解力の日菜子だが、この独特なふんわりした空気がとても好きだった。
扉が開き、ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
顔を上げて、新しく来た客に声をかけた。入ってきた人物に、日菜子は固まった。
先ほどまでの賑やかさがしんと鳴りを潜め、静まり返っている。修二と明子のあれこれがあった時のような探るような空気ではなく、明らかに凍り付いた。時々ひそひそと何やら話す空気の揺らぎを感じるが、いつものような喧騒はない。
隆臣は周囲を気にすることなく、くるりと店内を見渡した。ばっちりと日菜子と視線が合う。
外回りからの帰りなのか、隆臣は軍服に帽子、さらにはショート丈のマントまで羽織ってやってきたのだ。正直言ってここは辺境じゃない。研究大好きな学者ご用達のカフェである。異分子が入り込んだことで、すっかりカフェの自由な空気が変わってしまっていた。
彼の後ろ側にいる客たちが必死にこっちに来いと合図を送ってくるが、ちらりとそちらを隆臣が見ただけでさっと顔を背けた。大丈夫だと笑みを浮かべると、彼の名を呼んだ。
「隆臣さん」
「家に行ったら、仕事に出ていると聞いたので」
「それは申し訳ございません」
「いや、突然そちらの屋敷に寄ったので気にしないでほしい」
隆臣と会うのはこれで二度目。人となりをよく知らないせいか、話題を見つけようとしても見つからない。日菜子はどうしたものかと、思い悩んだ。カフェは変に静まり返っているし、隆臣は相変わらず無表情だ。眼光の鋭さと漏れ伝わる神力にひるむ。
「珈琲を貰おう」
「え?」
珈琲と言われて、思わず隆臣の顔を見た。隆臣は初めて顔を合わせた時と変わらぬ、無表情さでこちらを見ていた。
「苦い味が苦手だったのでは?」
「ああ。だが、ここはカフェだろう? 珈琲の店だ」
「そうですけど……」
「一つだけ注文いいだろうか」
「はい」
「手間だろうが、珈琲に砂糖とミルクを入れておいてほしい」
どういうことだろうと首を傾げると、胸ポケットから何やら紙を取り出した。差し出されたそれを受け取り、メモを読む。
『珈琲とミルク同量。砂糖ティースプーン五杯』
流麗な、明らかに女の手で書かれた文字。
護符師として文字を書く日菜子も感心するほど美しい。普段なら文字の美しさしか気にならないが、もやりとした何かが胸の奥に生まれる。
「日菜子さん」
じっと紙を見ていれば、明子がすぐに声をかけてきた。はっとして、顔をあげれば、心配そうな目があった。
「珈琲にミルクと砂糖を入れるようにお願いされたのです」
「まあ、ちょっと拝見しても?」
明子は隆臣にお伺いを立てた。隆臣は鷹揚に頷く。
「もちろんだ。義姉がこの分量なら飲めるだろうと書いてくれたのだが、難しいようなら普通の珈琲で」
義姉、と聞いてなんとなく胸の引っかかりが溶ける。自分自身の気持ちの振れ幅を不安に思いつつも、明子の答えを待った。
「大丈夫ですわ。すぐに用意いたしますね。日菜子さん、あちらの日当たりの良いテーブルにご案内して」
日菜子は隆臣を奥にある席に案内した。
◆
「こちらまで来るとは思っていませんでした」
席に案内し、腰を落ち着けたところで告げた。隆臣は目を細めると、ほんのわずかだが口角を上げる。
「交流できる時間は三か月しかない。ならば、時間のある時に顔を合わせるべきだろう」
「そうかもしれませんが」
それでもカフェまで来るのはやっぱり想定外だ。日菜子はむむむと眉間にしわを寄せた。不愛想で表情が乏しい隆臣が気にしてくれることはむず痒い。まだ顔を合わせて二度目なのに、不思議と心がざわつく。
「藤原のご当主に貴女がこちらで働いていることと、終わる時間を聞いてきた。もしよかったら、仕事が終わった後、少し一緒に歩かないか」
「――それは送ってくださるということですか?」
「今日だけでなく、貴女が仕事に入る日は都合がつく限り、送るつもりだ」
思わぬ申し出に、日菜子は目を丸くした。
一回目の婚約拒絶のこともあって、今回も期間を設けても顔を合わせることは少ないと考えていた。前回は縁談の連絡があってから拒絶が伝えられるまで、彼に一度も会わなかったからだ。そういうことを気にしない人なのかと思っていた。
どう言葉を返したらいいのか、困っていると明子がトレイを持ってやってきた。
「お待たせいたしました。カフェオレでございます」
「カフェオレ?」
「ええ。厨房の方へお話をしたら、そういう名前だと」
珈琲はここ数年の間に異国から入ってきた高級嗜好品。しかも少し独特な味がすることから、好き嫌いの分かれる飲み物だ。日菜子もそのような飲み物があるとは知らなかった。いつも伯父家族にからかわれながら、大量の砂糖とミルクを投入して飲んでいた。
明子がテーブルに厚手のカップを隆臣の前に置く。ミルクが深いコーヒーの色合いと混ざり合い、キャラメルの優しい色合いだ。そして、甘い香りがする。
「屋敷でもカフェオレにしてもらったら美味しく飲めるのかしら?」
「ふふ、そうね。珈琲とミルクは同量で入れるのがいいそうよ。でも自分の好みの味を探すのもいいかもしれないわ」
そんな話をしている間に、隆臣がゆっくりと味わいながら飲む。
「ああ、この味だ。美味いな」
「では、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
明子が軽く頭を下げてテーブルから離れていくので、日菜子もぺこりと頭を下げて彼女の後を追った。
「とてもいい方じゃない。安心したわ」
隆臣から十分離れた後、明子にそっと囁かれた。カフェにやってきた綾乃とのやりとりを見ていれば不安になる。
「でも、表情の変化が少なくて、何を考えているかわかりにくい」
「ふふ。そうね、でも軍人はそういうものよ。わたくしの夫もあまり感情を表に出す人ではなかったわ」
「そういうものですか?」
「ええ。なんでも感情によって神力は乱れるのですって。ひいては討伐に影響するのだとか」
ああ、そういうことか。
先日、顔合わせをした時に、恐ろしい神力を感じた。あれがもしかしたら討伐での彼なのかもしれない。懐かしそうに目を細める明子に、ついでとばかりに聞いてみた。
「討伐する時、神力というのは普段とは違うものなのですか?」
「違うわね。わたしも夫と結婚した当初、恐ろしくて体が震えてしまったけれども、そのうち慣れていったわ」
そういうものなのかと、頷いた。
「日菜子さんの家は軍人の家系ではないものね。もしかしたら、威圧されたの?」
「あれが威圧だったかはわかりませんが、とにかく恐ろしくて挨拶する前に逃げました」
真顔で頷けば、明子はくすくすと笑った。
「では、慣れるようにしないといけないわね」
「慣れるものですか?」
簡単に慣れればいいという明子に、不審の目を向けた。あれほど恐ろしい気配を受け止められるとはどうしても思えない。
「心配しなくても側にいるだけでも随分と馴染むものよ。さあ、今日はもう上がっていいわ」
「でも、まだ時間が」
「藤原家から、しばらくは隆臣様の行動に合わせてほしいと連絡を貰っているの」
「えー、伯父さま、過保護なんだから」
一人で生きていけるように働いているのに、こういう配慮はどういうことかと目を吊り上げた。
「良樹様ではなくて、正彦様からのお願い事よ」
「お祖父さまったら」
「皆、あなたのことが心配なのよ」
明子はにこりとほほ笑んだ。