とりあえず、三か月
応接室のソファに腰を落ち着けて、カップを手に取った。
日菜子は祖父である正彦の隣に座り、なるべく前に座る隆臣を意識しないようにカップに集中する。神力を抑えているからと言って、先ほどの恐ろしさはすぐには忘れられない。
いつもの珈琲の香りに、ほんの少しだけ緊張がほぐれた。その勢いで、一口飲めば苦い味が口いっぱいに広がる。お茶をお願いすればよかったと後悔しながら、ちらちらとテーブルの上を見た。正彦のカップとの間に砂糖壺とミルクピッチャーが置いてある。
「……やせ我慢せず、砂糖とミルクを使いなさい」
澄ました顔をしていたつもりだったが、そうでもなかったようだ。正彦はため息をつくと、二人の間に置いてあった砂糖壺とミルクピッチャーを日菜子の方へ押しやった。
「お祖父さま。お気遣いありがとうございます。でも大丈夫です」
にこりとほほ笑むと、胡乱な目を向けられた。
「先ほど淑女らしからぬ逃亡をしたのだ。今さら取り繕う必要はなかろう」
「そういうのではありません」
むっとして言い返してしまう。そんなやり取りをしていると、かちゃりと何かが置かれる音がした。音のした方へ目を向ければ、珈琲カップに大量の砂糖を流し込んでいる隆臣がいる。
軍人らしい、にこりともしない厳しい表情で砂糖壺から何杯も入れ、さらにはミルクピッチャーを景気よく傾けた。
「あの。日本茶の方がお好きでしたか」
「そうですね。苦いものが苦手なので、珈琲はあまり飲みません」
至極真面目な顔で頷かれて、お茶の代わりを用意した方がいいのか悩む。
「もしよかったら」
「問題ありません。砂糖とミルクがあれば恐らく飲める」
淡々と答えながら、彼は注意深くスプーンでかき回していた。ミルクと砂糖を入れたせいで、カップの縁、ぎりぎりになってしまったからだ。しかも彼の手からは黄金色の何かが見える。よくよく目を凝らしてみれば、黄金色の何かは珈琲が零れないようにと壁のようにカップを囲っていた。
「え? 神力ってそういう使い方をするの?」
そんな彼の行動を唖然として見つめた。彼は至極真面目な表情で頷く。
「神力は鍛えれば鍛えるだけ、自由自在に操れる。生活にも色々と使えて便利だ」
そういう話をしているわけじゃない。そう思いつつも、それ以上何を言っていいのかわからず、曖昧な表情で頷いた。
緊張が解ければ、目の前にいる彼に興味が引かれ。
はっきりと観察するのは流石に品がないかなと思いつつ、彼を眺めた。
堅苦しい藍色の詰襟軍服はがっしりとした彼の体格をさらに大きく見せ、二列に並んだ金ボタンが鮮やかだ。袖章も金の太いラインとそれよりも細いラインの二つが入っている。
日菜子は軍部の組織についてにはあまり詳しくないため、彼の服装だけではどの階級に属しているのかはわからなかった。だが襟につけているマークから、彼が辺境討伐専門部隊に所属していることは理解した。あれだけ強い神力を持っているのだ。最前線で活躍しているのだろう。
やや長めの前髪は後ろに流しており、貴族特有の整った顔立ちは優美。
残念なのは表情がないことぐらいか。彼の纏う空気は硬質で、どうしても近寄りがたく感じる。うっすらとでもいい、表情をわずかに緩めたら、間違いなく見とれてしまうだろう。
「うおっほん。それでだな」
微妙な空気が漂い始めて、正彦が大きく咳払いをした。はっとして、日菜子は隆臣から視線を逸らし、背筋を伸ばす。
「朝香殿の話だと、もともと延期していただけだという。だが、我々が受けた説明は縁談の拒否だった」
「……そのようですね。まあ、だいたい何が起こっていたのか、今理解しました」
隆臣はため息をついて、膝の上に手を組んだ。そして、日菜子の方へ目を向ける。
「確認ですが、あなたは直接なにもされていませんか?」
「どんなことを想定しているのかわかりませんが、わたしは縁談が拒否され、役立たずとして生家から縁を切られました」
「物理的な攻撃は」
「物理的、とは?」
イマイチどんなことを想定しているのか、わからなくて困惑する。ちらりと隣に座る正彦へ助けを求めるような目を向けた。
正彦はひどく難しい顔をして腕を組んでいる。いつだって余裕がある態度しか見せてこなかったので、日菜子は戸惑った。
「日菜子、誰かに襲われたことはなかったか」
「いいえ。そういうことはありませんでしたわ。訳の分からない言いがかりを付けられて家を追い出され、途方に暮れていたところに伯父さまが迎えに来てくださって」
人生最悪な日は未だに色褪せることなく思い出せる。あの日ほど、気持ちがどうにかしてしまうほど不安だった日はない。自分がいかに家に守られ、一人で生きていけるだけの力がないことを実感したのも。
息を吐いて、あの日の記憶を振り払う。
「わたしにとって、朝香さまとの縁談は三年前に終わったことなのです」
「帝からの命令だとしても?」
帝という言葉を聞いて、体が震えた。平民であるという建前があったとしても、いくらでも覆ってしまう。今ここでそれを言ってもよかったが、そのことを前面に押して非難されるのは藤原家だ。伯父家族、祖父も何らかの不利益を被るだろう。
何も言い返せることができずに、唇を噛む。
「よかった。あなたにはまだ貴族としての考え方ができるようだ」
「ちっともよくありません。結局、わたしはただ言いなりになるだけの都合のいい存在ではありませんか」
「そう思われても仕方がない。後手に回ってしまったのは、こちらにも責任がある」
隆臣がふと表情を緩めた。硬質な雰囲気が柔らかくなる。
「三カ月、交流してみて、それでも結婚は無理だというのであれば白紙に戻そう」
白紙に戻すと言われて、目を丸くした。
「先ほど、帝の命令だと言いましたよね? それで大丈夫なのですか?」
「大丈夫かどうかと言われれば、大丈夫ではない。でも、元々こんな複雑なことになってしまったのは帝の責任でもある。だから何とかなると思っている」
不安しかない答えではあったが、何もせずに突っぱねるよりはいいのかもしれない。
「日菜子」
黙って同席していた正彦が孫娘の名前を呼んだ。
「はい、何でしょうか」
「家のことは考えなくてもよい。お前の好きにしなさい」
ここ数日、何度も言われている言葉。
日菜子は大きく息を吸い、気持ちを整えると、隆臣に向かって頭を下げた。
「では短い間ですが、よろしくお願いします」
こうして隆臣とは、婚約を前提のお付き合いをすることになった。