逃げたい! 縁談相手、怖すぎ
逃げよう。
祖父の後ろをついて応接室に近づくにつれて、足が重くなった。
廊下にもにじみ出ている神力。
まだ見ぬ相手であるが、これほどの神力を感じたことなど一度もない。
日菜子は小原家の娘であったが、その力の種類は母の実家である藤原家のものに近い。藤原家はその家の役割から神力が強い人間が多く、普段から慣れ親しんでいる。今まで馴染んできた神力とは種類の違う濃厚な力に体が震えた。
恐ろしいわけではないけれども、触れてはいけない何かを感じる。説明のしようのない、重苦しさに息がつまる。
まだ相手の顔を見ていないのに。
無理だ。
絶対に無理だ。
もう一度、宣言する。無理だ。
日菜子は廊下からでも感じる神力にすっかり弱気になっていた。あまり物怖じしない性格ではあるが、これほど明確な差を見せつけられれば恐ろしくもなる。
きっと相手は高貴な相手。
でも、この神力から感じるのは、人食い熊のような、それとも昔話に出てくるような物の怪のような大男であっても納得してしまいそうなほどの圧倒的で暴力的なものだ。
「日菜子」
「はい!」
逃げ出そうと考えているのを見透かされたのか、部屋に入る前に正彦が立ち止まって後ろを向いた。いつもの優しい祖父の顔ではなく、前当主として威厳に満ちた表情をしていた。日菜子は自然と背筋を伸ばした。だが、すぐに漂ってくる神力に意識を持っていかれ、体が震えてくる。
「恐ろしいだろうが、挨拶はちゃんとするように」
「挨拶なんてとても。お祖父さまから一言お断りしてくださればいいのでは?」
震える手をぎゅっと握りしめ、情けない顔で正彦を見返した。正彦は同情するような色を浮かべているが、それでもしなくてもいいとは言わなかった。
「断ることはできるが、お前に会いに来たのだ。自分で断らない限り、この縁談は潰れない。お腹に力を入れて、足を踏ん張れ」
「――わかりました」
大きく息を吸い、覚悟を決めた。
◆
座り心地の良いソファにセットになっているテーブル。
部屋全体は光がたっぷり入るため明るめ。
離れにある応接室は客人が過ごしやすいようにと畳ではなく、床の上に絨毯が敷かれていた。
いつもならば気負うことのない部屋であるのに、気分は最悪で、ぞわぞわした感覚が日菜子の全身を包み込んでいた。
逃げるなと自分自身を鼓舞したが、それでも気持ちが負けそうになる。
微かな衣擦れの音に、日菜子はようやく顔を上げた。丁度、ソファから軍服を着た男性が立ち上がったところだった。
彼は正彦に向かって会釈する。
「はじめまして。朝香隆臣です。突然の訪問、お許しください」
「何、構わんよ。君がここに来たということは、良樹が許可したということだろう。歓迎する」
「ありがとうございます」
「まあ座りたまえ。それで」
うむと威厳を見せつつ、正彦が後ろを振り返った。日菜子はそのタイミングで、今歩いていた廊下を走り出した。
「日菜子!?」
驚愕する正彦の声がしたが、構っていられない。ちらりと後ろを振り返り、悲鳴のような声で謝罪をする。
「ごめんなさーい。やっぱり、わたしには無理です! お断りします!」
貴族の娘としての礼儀がなっていないという非難は甘んじて受けよう。
それぐらい、そこにとどまっていることができなかった。だけど、着物を着ていることを忘れて大股で走り出したせいか、足袋が床を滑ってバランスを崩した。
「危ない」
「きゃあ」
前のめりになったところに、腕が回される。危なげなく体を支えられ、転ぶことはなかった。だけど、距離がぎゅっと縮まったことで、先ほどよりも息が苦しくなってくる。
早く離れたくて、態勢を整え、一歩後ろに体を引こうとした。だが、腰に回された腕は外れることなく、かえってしっかりと抱き寄せられる。あと拳一つ分の距離に、日菜子の頭は真っ白になった。
「君は俺の神力が恐ろしいか?」
耳を擽る低い声。
日菜子は恐る恐る顔を上げた。自分を支える男を見て、卒倒しそうになる。答えようとするが、声にならなくて、仕方がなく真っ青な顔でこくこくと頷いた。
「威圧を感じながら意識を失わない。なかなか優秀だ」
「本当にもう無理です。ごめんなさい、気持ちが悪いんです。とてもではありませんが、お見合いなんて無理。まして、結婚なんてありえない」
とにかく、縁談の断りはしなくてはという強い脅迫概念で、言葉を並べた。礼儀作法に則れば、その言葉遣いも、断る文言も無礼なものであった。でも、頭がまともに働かないのも本当で。
「はあ、あまり孫を虐めないでほしいんだが」
「ああ、申し訳ありません。どうしても確認しておきたくて。流石に神力で気絶する相手とは結婚できませんので」
「……全力で神力を出すのもどうかと。朝香殿にとって重要なことかもしれないが、孫は威圧に馴染みがない。今すぐにでも気絶してもおかしくない」
「そうですね」
隆臣の言葉の後、すっと彼の神力が消えた。日菜子は突然消えた力の圧にぽかんとした顔になる。隆臣は日菜子の腰から手を離すと、ゆっくりと一歩後ろに下がる。
「え? え?」
「はじめまして。朝香隆臣です。この度は縁談を受けていただき、ありがとうございます」
「藤原日菜子です。どうぞよろしくお願いします?」
空気に呑まれて、反射的に挨拶をしたが。
よろしくお願いするのかどうかすらもよくわからない。
「え、わたし、縁談を受けたことになるのですか?」
「そうですね。あなたの生家からは承諾の連絡を頂きました」
どういうこと、と祖父を見れば、正彦はひどく渋い顔をしている。
「日菜子は藤原の家に入っている。小原には何の権限もない」
「……前回の縁談の時に、三年後に延期になったとお話ししたはずなんですが」
「え? 前回のお話の時は、わたしができそこない過ぎて、拒否されたと伺っています」
明確な食い違いに、双方、言葉を失った。