護符師の一族
日菜子は姿勢を正し、書机に向かっていた。護符師見習いとしての戦闘服、つまり今日は着物だ。色鮮やかな群青色に赤い大ぶりの椿。日菜子の気合の表れ。
教本を睨みつける様にしながら、筆を動かした。
幼い頃より、日菜子は母の雪子から護符に使われる神文字の手ほどきを受けていた。そのため、護符を知る人ならば誰もが褒めるほどの美しい神文字を書く。唯一、日菜子が自慢に思っていることだ。
藤原家は代々護符師の一族で、帝国を守るために配置される護符を一手に担っている。神力を込めて書き上げると、筆先に神力が乗り、文字に神力が宿る。そして瘴気を祓う護符となるのだ。雪子は結婚前、優秀な護符師だった。小原に嫁いでからは護符師としての仕事はしていなかったが、日菜子にも許される範囲で藤原で行う教育を施していた。
藤原の養女となった後、護符師になるための訓練を重ねている。護符師として認められれば、結婚しなくても一人で生きていけるという事情もある。
「そこ、払わない」
日菜子の書く字を、少し離れた位置で見守っていた祖父の藤原正彦がのんびりとした口調で注意した。
「そんなはずは」
そう言いつつ、手本を見れば確かに払っていない。とめである。
護符に使われる神文字は普段使っている文字と異なり、護符は神への願いを綴ったもの。
筆にうねりを持たせ、形を作る。神がこの世にいた時に使われていた文字と言われていて、人が使うものと区別されていた。神力を神文字に込め、願いを伝えるのだ。
「日菜子の書く神文字は素晴らしいのだが……このミスさえなくなれば、今すぐにでも護符師として認めるのだがなぁ」
正彦はもったいないと言いながら、しみじみとしている。きちんと勉強を始めて三年、なかなか癖が抜けないことに、日菜子も気にしていた。
「お祖父さま、褒めていただけるのは嬉しいですけど、護符師として致命的ですわよね?」
「そうだな。ほんの少しの間違いがあっただけでも、護符として機能しない。まあ、たいていの護符師が通る道だから、気にすることはない。意識が飛んでいても、無意識に書けるぐらいになるまで、練習あるのみ」
「わかっています。もう一度やり直します」
「今日はもう終わりだ。集中力がなさすぎる」
気が散っていることを指摘され、がっくりと項垂れた。情けないことだが、縁談が気になってしまって、どうしても気持ちはそちらに持っていかれてしまう。ため息をつけば、正彦が表情を緩めた。
「中央からの縁談が気になるのは仕方がないことだ。だがな、日菜子は養女になっているが身分は貴族にしていない。気に入らなければ、断ればいい」
「伯父様も同じことを言っていました。今まであまり気にしたことがなかったのですけど、その都合のいいような身分というのは本当に存在するのですか?」
「理論上は」
恐ろしいことを聞いて、日菜子は固まった。正彦は満面の笑みで、どこか得意気な顔をしている。
「理論上とは、どういうことでしょう?」
「普通、貴族が平民と養子縁組をする場合、貴族院と戸籍課に書類を出す必要がある」
戸籍課は平民のための窓口。子供が生まれたり、亡くなったりした場合に届け出る必要がある。貴族に関しては、貴族院がすべて取りまとめているため、戸籍課には書類を出さない。
そして今回。
日菜子は小原に縁を切られていて、一度平民になっている。そのため、藤原と養子縁組をした時点では、日菜子は平民。
「まさか、戸籍課に届け出をしていないということですか?」
貴族にも、平民にも籍がある。このどっちつかずの状態が、養子縁組したけれども貴族ではなくて平民ということらしい。平民の方が貴族よりも義務が少ないため、この状態になっている人はそれなりにいるそうだ。
「そもそも中央機関が分かれているのが悪い。貴族院がちょっと確認に行けばわかる話だ。横の連携が取れていないだけなのだから、こちらの責任ではないだろう」
そうかもしれないけど。
それって駄目なのでは。
祖父の説明に頭がくらくらした。
「それって大丈夫なのでしょうか? 届出に不備があるから縁組は無効だ、と小原が強く言ってきたら……」
「小原と藤原の力関係があるから、絶対に無効にしない。それに小原だって、今さら戸籍課に確認しに行かないだろう。心配しなくてもいい」
正彦を信用しないわけではないが、制度の落とし穴を使うのは何とも気持ちが悪いし、不安しかない。だが、この件については伯父の良樹も知っている話。それでいて現状のままにしているのだから、日菜子にはできることはない。
この件については見なかったことにした。
「縁談を断って、本当に藤原の家にお咎めはないのでしょうか」
「あるはずがない。一度目、拒否してきたのはあちらだ。全く不思議なことだ。何故、同じ相手に二度目があると考えたのか」
ぶつぶつと文句を言う正彦に、日菜子はまったくだと頷いた。もし二度目の打診がなければ、こんなにも悩むことはなかった。
「大旦那様」
廊下から、使用人の呼びかけがあった。廊下を見れば、襖の影で膝を突いていた。日菜子は口をつぐみ、祖父を見る。
「なんだ」
「お客様がいらしております」
「客だと? そんな予定はなかったはずだが」
正彦は首をひねった。正彦は隠居してから同じ敷地にある離れで気ままに暮らしており、訪れる人間は親しい友人だけだ。見知らぬ客はすべて本邸で追い返していた。
「なんでも日菜子お嬢さまにお会いしたいと」
「日菜子に?」
日菜子は目を丸くした。日菜子が藤原の養女になってから一度も客など訪れたことがない。昔の友人たちは事情を知りながらも、平民になった時に日菜子から離れていった。
正彦はため息をつく。
「ここまでやってくるということは、良樹が許可したということなんだろう」
そうぼやきながら、日菜子に目を向けた。
「どうする? 会えるか?」
「どなたかも知らないのに」
「相手は朝香隆臣だ」
朝香隆臣。
その名前を聞いてあんぐりと口が開いてしまった。
「お祖父さまはエスパーですか」
「なんだ、そのえすぱーというのは」
「先日、修二おじさまに教えてもらいました。なんでも外から入ってきた言葉らしいです」
「修二か。あいつはまたくだらないことを……」
脱線したところで、使用人が再び声をかけてきた。
「客間にお通ししますね」
「ああ、そうしてくれ。すぐに日菜子とそちらに行く」
渋々と言った様子で正彦が答えた。