伯父との話し合い
応接間に入れば、すでに伯父の藤原良樹は座って待っていた。普段は着物が多いのだが、今日は白い糊の効いたシャツにズボンだ。珍しいこともあるものだと思いつつも、部屋の中に入る。
「お待たせしました」
「座りなさい」
日菜子が浅くソファに座ると、喜代が珈琲の入ったカップを彼女の前に置く。立ち込める珈琲の香りはカフェで嗅いだものと同じだ。夕食の後と聞いていたので、驚いて喜代を見た。彼女は困ったような顔で、ちらりと良樹を見る。
「夕食の後でと申しましたのに、どうしてもとおっしゃるので」
「新しい珈琲豆だというじゃないか。日菜子だって興味があるだろう?」
そう言って、良樹はカップを持ち上げた。
「先に楽しんでしまったら、伯母さまに怒られませんか?」
「心配ない。集中力がなくなっていたからと言えば納得してくれるさ」
「修二おじさまと同じだわ。気晴らしに珈琲を飲むのがいいんですって」
「修二か。カフェによく来るのか?」
修二は昔からちょくちょく藤原本家に顔を出す。護符師ではないが、護符の研究をしているのでよく相談に訪れるのだ。その縁で、日菜子も幼い頃から可愛がってもらっていた。
「ええ。明子姉さんがお好きなのよ」
明子の名前を出せば、良樹は目を丸くする。
「あいつでも人間を好きになるのか」
「伯父様、流石に失礼ですわ。おじさま、毎日ソワソワしてカフェに来るの」
「そうか。今度来た時にでも、聞いてみるか」
そんな世間話をしながら、珈琲を一口飲む。
芳醇な香りとほんのりとした甘みを感じたあと、苦みがあった。
とても美味しいと思うが、日菜子は珈琲の苦みがやや苦手。これまでに飲んでいた珈琲よりも苦味は弱かったが、それでも口の中に残る。
ちらりとテーブルの上にある砂糖壺とミルクピッチャーを見た。どちらもたっぷり入れてしまいたい。
「香りがとてもいいね。いつものよりも、酸味が弱いかな」
「少し甘く感じます」
「そうだね。ミルクや砂糖を入れるのはもったいない味だ」
そのままでも十分美味しいと、良樹はそんなことを言う。
「……そう言われると、入れにくいわ。意地悪ね」
「意地悪なんて言わないさ。日菜子はいつまで経ってもお子様の舌だからね。砂糖もミルクも遠慮せず入れるといい」
子供扱いにされて、むっと唇を尖らせた。だけど反発して、どちらも入れないなんて行動はとらない。遠慮なく砂糖とミルクを入れた。
その量を見て、良樹はくすくすと笑った。
「それで、話は何かな?」
「もう知っていらっしゃるのでしょう? 綾乃さんがカフェに来ました。中央から縁談が来たから小原に戻ってくるようにとおっしゃっていました」
「小原も困ったものだね。日菜子はすでに藤原家の者だ。そんな勝手が通るわけがない」
良樹は先ほどの柔らかな空気を消した。ぴりりとした雰囲気に、日菜子は伯父の怒りの度合いを知る。
「明子姉さんが心配してくださって。きちんと縁切りされているのかと。お祖父さまがきちんと手続きしているはずですよね?」
不安に思って聞いてみれば、良樹は頷いた。
「もちろんだ。日菜子は藤原の姓を名乗っているだろう?」
「よかった」
ほっと胸を撫で下ろしたものの、綾乃が帝国の法を知らないはずがないのにという気持ちもある。言葉にできないモヤモヤとしたものが心の底にあって、どうしても不安は消えない。
「しかし、どういう心情なのだろう。三年前の縁談では、一方的に向こうから断りが来たと聞いているが」
「もしかして、同じ方からの申し入れなのですか?」
「ああ、そうだ。気になって遣いをやったら、同じ人物だった」
縁談が来ているとしか聞いていなかったので、驚いてしまった。まさか同じ人との縁談だとは思っていなかった。
三年前、身上書だけで知る日菜子の婚約者だった人。どんな姿をしているのか、どんな性格をしているのか、知る間もなく縁談はなくなってしまった。知っているのは名前と年齢と。それぐらいだ。
「……朝香さまは他の方と結婚したはずでは」
縁談が断られた後、すぐに上位貴族の娘と結婚したと聞いた。一度も顔を合わせていなかったから、彼とどうこうなりたいという気持ちはなかったが、綾乃に散々役に立たない娘だと嫌味を言われたので酷く傷ついたものだ。
「前の婚姻は終了となったそうだ」
「婚姻の終了?」
意味が分からず、言葉を繰り返した。
「聞きなれないかもしれないな。滅多にないことなんだが、稀に結婚後に病気をしたり、神力が合わなかったりして触れ合うことができない場合がある。そういう時に、お互いの戸籍を汚さないために使う制度だ。婚姻して三年のうちに子供ができない場合に適応される」
「病気はわかりますが……婚姻前に神力の相性はわかるものではないのですか?」
お互いの感情を後回しに結婚は決められていた。もちろん反発する人も多い。人の感情はとても複雑で、個を無視した縁談が幸せになることも少ないからだろう。
だけど、現実問題、強い神力を持つ人間は必要不可欠。この世界は瘴気に満ちており、神力によって祓っているのだから。貴族は神から力を授けられた一族の総称で、平民とは魔を払うだけの神力を持たない者たちだ。貴族でも十分な神力を持たなければ、いずれは平民となる。この帝国において貴族でいることは、特権も多いが、果たすべき義務も重い。
特に神力を持つ人間を一人でも多くこの世に生み出すことは貴族の一番求められていることだ。だが、強い神力を持つ子供は年々生まれにくくなっている。
「まあ、色々あるのだよ。感情が拗れるよりは一度は結婚させた方がいい場合もある」
「でも、力が違い過ぎる相手と一緒になるのは苦痛では」
「そうだが、神力だけでなくて、身分のこともあるからね」
身分、と聞いて、日菜子は顔をしかめた。不相応な結婚をして婚姻終了となった場合、女性の方が圧倒的に傷つくような気がした。結局は、血筋を守るための結婚で、子供を産むのは女性だからだ。
まだ縁談相手と顔を合わせてもいないのに不適合だったと烙印を押されてしまった日菜子には、その制度は嫌なものとしか感じなかった。
「日菜子」
良樹に名前を呼ばれて、顔を上げた。目の前に座る伯父は何か含みを持たせた笑みを浮かべた。
「そういうことなのだよ。朝香の事情も」
「でも、朝香家は皇族の次に身分の高い家柄で」
そこまで口にして、言葉を切った。
朝香家に横槍を入れることができる家柄。
一つだけあった。
それは皇族だ。
日菜子がきちんと理解したことを認めると、良樹は褒めるような笑みを見せた。
「日菜子は小原家と縁を切っている。藤原の養女にはなっているが身分は平民のままにしてある。もし結婚する気があるなら、貴族籍の方に入れる手続きをしよう」
「結婚は遠慮しておきますわ。もうよくわからないことで振り回されたくありませんから」
はっきりと思いを告げれば、良樹はそうだろうなと頷いた。