封印の姫
不安定に、落ちていく。
すべてが闇に閉ざされていて、今自分がどこにいるのか、わからない。
落ちていく先の闇は今いる場所の闇よりも深く。
二度と明るい世界には戻れないのではないかと思うほど。夜を怖いと思ったことはなかったが、この闇は恐ろしさを感じる。
日菜子の震えを感じたのか、彼女を抱きしめる隆臣の腕に力が入った。
「大丈夫だ。側にいる」
「そうね、隆臣さんがいるもの」
隆臣の頼もしい囁きに、日菜子は安心したように微笑んだ。
絶対にはぐれまいと、隆臣にぎゅっと抱き着いた。布越しに伝わる彼の温かさが恐怖に縮こまった体の緊張を解いていく。一人でこんなところに堕ちなくてよかったと、心からほっとする。
「このままずっと闇の中なのかしら」
「そうではないだろう。空間が歪められているだけだと思う。前に瘴気の中に堕ちた時もこんな感じだった」
常識的には考えられないことを言われ、驚いた。
「え? 落ちたの」
「ああ。滑った」
大したことではないという様子に、日菜子は言葉を失った。あまりよく討伐隊のことは知らないが、もしかしたら想像すらできない恐ろしい体験をしているのかもしれない。
そんなことを思っているいるうちに、足が固い物に触れた。その途端、どこまでも深く終わりのなかった闇が取り払われ、手入れの行き届いた美しい庭園が現れる。
奥には小さな川が流れ、緑の芝は瑞々しい。高くそびえる木々、低く刈り込まれたつつじ、そして庭石が絶妙に配置されている。景色だけを見れば、まるで夢のように清々しい。
しかし、その美しさとは裏腹に、青い空はどこかくすみ、空気は恐ろしいほど淀んでいた。まるで、重い霧に包まれているかのように、体がねっとりとした感覚に覆われている。
たどり着いた先の、どこでもあるこの国の景色に、日菜子は頭が混乱する。もっと訳の分からないような場所へ行くと思っていたから余計に。
隆臣は日菜子の肩を抱いたまま、ぐるりと辺りを見回した。日菜子もその視線に引き寄せられ、一緒に辺りを見渡す。日菜子には見覚えはなかったが、隆臣は違うらしい。小さな舌打ちが聞こえた。
「ここ、どこなの?」
「清水家の別邸だな」
隆臣が答えたのと、砂利を踏む音が聞こえたのが同時だった。
音の鳴った方へ、目を向ければ。
深みのある赤に小さな黒い花をあしらった振袖を纏った果歩がいた。彼女の着物は、毒々しいほどの個性を放ち、清楚さを感じさせるどころか、どろりとした妖艶さを際立たせている。日菜子はその変貌に思わず息を呑んだ。
「ようこそ。その女だけでよかったのだけども、歓迎するわ」
隆臣は日菜子を背中に隠すと、すぐさま浄化の護符を果歩に向けて放った。同時に神力を軍刀に巡らせる。
「隆臣さん!?」
突然果歩に斬りかかった隆臣の行動が理解できず、思わず名前を呼ぶ。
果歩は少しも慌てず、軽やかに後ろへ飛び退く。同時に宙を舞う浄化の護符に指を向けた。浄化の護符は突然現れた黒い闇に呑まれ、力を失っていく。護符の効果を発揮する前に握りつぶされ、日菜子は驚きに目を見張った。
「え? 護符が」
「そのようなもので、わたくしがどうかなるとでも?」
果歩は袖口で口を隠し、おかしそうに笑う。隆臣は無言のまま果歩との距離を詰め、彼女に向かって刀を振り下ろした。果歩はするりとその攻撃を避ける。
「まあ、怖い。なんで、そんなことをスルノ」
果歩に避けられた隆臣はすぐさま距離を取り、刀を握り直した。隆臣は探るような目を彼女に向ける。果歩は面白そうに笑った。
「お前、誰だ?」
「ふふ。もちろん清水果歩よ」
「その濁った神力を誤魔化せると?」
果歩は目を細め、唇を弓なりにして微笑む。その表情はやはり日菜子の記憶にある笑みではなく。隆臣の言うように、果歩によく似た何か。
「とても綺麗なカラダでしょう? こんなにも美しい体はホカニナイ。果歩にないものは神力だけだった。だからね、ワタクシ、お願いシタノ」
言葉の合間に、時折混ざる雑音。
日菜子は恐ろしさを感じ、体が震えた。
「お前が果歩を選べば、こんなことにはならなかった」
「どういうことだ?」
「果歩よりも哀れなお前とならば、果歩は自分の方が恵まれていると信じラレル」
それはあまりにも隆臣を馬鹿にした話だった。この果歩ではない何かの言葉を信じるのなら、果歩は自分よりも哀れな存在を手に入れたかった。自分の幸せを感じるために。
「果歩が精神を保テレバ、封印の姫として生きてイケタ。なのに、おマエに裏切られて。哀れで、カワイソウナ女」
雑音交じりの声は果歩を気の毒がりながらも、どこかバカにしたように言う。
封印の姫という言葉に、三崎の言葉が重なる。ちゃんと事情を聞いたわけではない、だけども目の前には果歩と、果歩の中に別の何かがいる。
「なるほど、お前は果歩の中に封じられていた穢れか。果歩が俺に執着するように誘導していたんだな」
「お前は自分のことだけ考える、オロカモノだ。でも感謝している。ワタクシはずっとこの血の中に封じられていた。そして、器に生まれるたびにコロサレテキタ。沢山コロサレテキタ、生まれたばかりのワタクシタチ。こうしてカラダヲテニイレルコトが夢ダッタ」
この状況にした責任は隆臣にある。
果歩の姿をした何かはそう告げていた。いちいち隆臣が悪いと滲ませるので、日菜子の心はざわめいた。身勝手な理由を隆臣に押し付ける態度が気に入らない。
こんなことを言われて、隆臣がどう感じているのだろう、とちらり視線を彼に向ける。彼は呆れたように眉をひそめていた。
「それで、何人だ? お前が取り込んだのは」
「人数なんて、覚えていない。でも、この姿を維持するにはタリナイ」
「――果歩と入れ替わったのは最近か」
ここしばらく帝都に起きていた怪異はすべて果歩の中のモノが欲しがった結果なのだろう。果歩はくすくすと笑った。
「だって果歩は神力を持ってイナイ。ないのなら、モラウしかない。沢山この体に入れたけど、すぐにナクナル。でも、面白い神力を見ツケタ。もしかしたら、奪えるカモシレナイ。試したい」
迷惑な発想だ。そして、日菜子は気が付いてしまった。面白い神力を持つのは自分だということを。
「日菜子は絶対にお前にやらない」
「ココハわたくしの空間。お前たちは出ることはデキナイ」
「いや、出るつもりだ」
強い口調で言い放ち、隆臣は地面を蹴った。軍刀を抜き、両手で構える。いつも以上に神力を込めたひと振りに、果歩の腕が切り落とされた。振袖ごと切られた腕は地面に転がり、その代わりに枯れ木のような異形の腕が生えてくる。
隆臣は持っていた浄化の護符を投げつけたが、それはあっさりと防がれてしまう。果歩は慌てることなく首を傾げた。
「ワカッテイナイのね。攻撃だけではワタクシハ死なない。浄化の護符も有限」
果歩の体にいる何かは、護符をよく知っているようで、力を発揮する前に握りつぶしている。長い年月をかけて、この瞬間に備えてきたのだろう。
どうしたらいいのかと、日菜子は唇を噛みしめた。隆臣は次々と果歩に攻撃を仕掛けるが、どれも相手はさほどダメージを与えていない。隆臣の刀など、大したことがないとその行動が物語っていた。
このままでは力尽きてしまう。
日菜子は自分の着物を探った。懐や帯、さらには袖。何か使えるものは残っていないか。今、持っているのは――。
隆臣が刀を振るうたびに、次第に果歩の姿が剥がれてきた。先ほどまでは維持していたのに、徐々に「果歩」を保てなくなっている。
美しい顔の半分は黒く短い毛に覆われ、艶やかな髪は無残にも抜け落ちた。再生しなくなったところで、異形が苦悶の表情を浮かべた。
「ああ、ナンテ酷いことを。美しい姿でイタイノニ。戻らなくナッテシマッタ。神力、足リナイ」
異形が、自分の姿に気を取られている隙に、隆臣の刀が心臓を貫いた。だが異形はどうでもいい様子で、自分の体にめり込んだ刀の柄を掴む。
「ワタクシは死ナナイ。例え体ガコワレテモ、ワタクシノ意識ハ、ツギノ姫ノナカニ」
三崎の言葉が思い出される。三崎の謎理論で作り上げた護符は、とにかく中に埋め込むことが必要。目の前の異形には押し込める場所に傷はなく。押し込める場所は一つだけ。
日菜子は懐にあった護符を握りしめると、異形に向かって走り出した。日菜子の行動に驚いた隆臣が彼女の名を呼ぶ。
「日菜子! 離れていろ!」
「浄化できれば、もう生まれてこれないはずよね?」
「デキルワケガナイ」
異形は大きな口を開けて、嘲笑った。日菜子は刀によって動けない異形の口の中に持っていた護符の塊を突っ込んだ。そして、ありったけの神力を護符に込める。ぎょっとした隆臣はすぐさま日菜子の腰に腕を回し、異形を蹴り倒した。
「なんて無茶をするんだ!」
「だって!」
隆臣は日菜子を抱き上げると異形と距離を取る。異形は蹴り倒された勢いであおむけに倒れる。そして、そのまま口に入ったものを呑み込んだ。
「ナ、ニ」
異形の体の中に入ったいくつもの護符が日菜子の神力に反応する。
異形を中心に結界が張られ、さらにもう一つの結界が異形の体を内側から砕いた。そして最後には。大量の浄化。逃げ場のない結界の中で、異形が城下から逃れようと必死に暴れる。
だが、結界は壊れることなく、強い光が周囲を包み込む。余りの光の強さに、日菜子は強く目をつぶった。隆臣も日菜子を自身の体で庇うように強く抱きしめる。
光が静まると、そこには果歩がかつて身にまとっていた美しい着物だけが残されていた。




