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日菜子の事情

「ただいま」

「おかえりまさいまし、お嬢さま」


 カフェでの仕事を終えた日菜子が屋敷の玄関をくぐると、すぐに女中頭の村田喜代が出てきた。喜代は藤原家の家政のすべてを取り仕切る女性だ。日菜子を未だ幼い子供だと思っているのではないだろうかと思うほど、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。


「喜代さん、これお土産。明子姉さんが分けてくださったの」

「まあ、珈琲豆ではありませんか。しかも、新しい品ですか?」

「そうみたい。まだ飲んだことがないから、味はわからないけど。頼む人が多いから、人気があるみたい」


 明子は新しい珈琲豆を仕入れると、店で出す前に複数の人から感想を貰う。時々、誰の口にも合わない豆もある。流石に飲めない珈琲を出すわけにはいかないため、こうして従業員の家族や知り合いにまずは試してもらうのだ。


 とはいえ、明子が日菜子に渡してくるタイミングは大抵店に出す直前で、美味しいものばかり。時には不味いと評判の珈琲も飲んでみたいと思うのだが。明子は決して外れの珈琲豆を寄越さない。


「お夕食の後に出しましょう」

「楽しみね」

「珈琲もよろしいですけど、お嬢さまには是非とも茶道を極めてもらいたいものです」


 日菜子は顔をひきつらせた。まさか珈琲豆の話から、茶道に飛び火するとは思っていなかった。

 茶会に関しては、興味がない。招待されれば恥ずかしくない振る舞いはできるが、喜代が望んでいるのは主催者側だ。


 客をもてなすのも嫁入り前の令嬢の嗜みの一つ。そう言って伯母たちは何とか日菜子を一人前にしようと手を変え品を変え。


 ただ貴族と結婚をするつもりがない日菜子には必要ない、とここしばらくは逃げ回っている。


「えっと。茶道はそこそこできていると思うけど」

「奥様の補助がなくなってからが一人前でございます。しっかりと本腰を入れて取り組めば、すぐにでもお一人で茶会を開くことができますのに」


 喜代の口調が本格的な説教になってきて、日菜子は慌てて話題を変えた。


「ところで、伯父さまは家にいるかしら?」

「執務室にいらっしゃいますよ」

「では、時間が取れないか、聞いてもらえる?」

「わかりました。お嬢さまはちゃんとお着替えをなさってください」

「え、このままでいいじゃない?」


 着替え、と言われて、首を傾げた。仕事に行くときも、この組み合わせで喜代が文句を言ったことはなかった。


「お仕事に行くのなら、その恰好で申し分ありません。ただし、ここは伯爵家なのです。良樹さまに面会を求めるのなら、格式に合った、きちんとした格好を」

「あああ、わかったわ!」


 着物にお召し替えを、と言われる前に、日菜子は慌てて靴を脱ぎ、喜代の用意したスリッパに足を突っ込んだ。上品とは言えない忙しい動きに、喜代の眉が跳ねあがる。


「お嬢さま!」

「ごめんなさい、急いで支度してくるわ」


 喜代はまったくと言わんばかりの顔をしたが、日菜子は慌ただしく玄関フロアの奥にある階段を登った。喜代が追ってこないことを確認すると、歩みを緩め廊下を進む。誰にも会うことなく、自分の部屋にたどり着いた。


「喜代さんもあれがなければいい人なんだけどなぁ」


 部屋に入ると、自分勝手な感想を呟いた。喜代は代々仕えている一族のため、どうしても口うるさくなる。特に藤原伯父家族には息子ばかりだ。伯母と喜代は日菜子を引き取った日から、藤原の娘らしく教育することに力を注いでいる。


 日菜子の生家も藤原と同じく伯爵家であったが、あり方が全く違う。

 藤原家が護符師として中央に近い仕事を任されている一族であるのに対して、小原家は他国との貿易で栄えている一族だ。両親の結婚はやはり中央から決められた縁談で、神力のバランスで選ばれた。貴族の義務とはいえ、異なる家風の結婚はかなり大変だったそうだ。


 亡くなった母の雪子を思い、ため息を漏らした。


 娘の目から見ても、幸せな結婚とは思えなかった。父は外に出るのが好きな人で、常に新しい何かを欲していた。一方、雪子は伝統を大切にする一族だ。気に入ったものを大切にする。


 新しいものに興味を示さない雪子は父にとって面白くない人間だったろう。日菜子が物心ついた頃、すでに父は滅多に顔を見せない人だった。

 日菜子の生活は雪子と数人の使用人がいる小さな世界。雪子は時々、実家である藤原に戻ってきていたが、それでも長居はしなかった。不幸な結婚生活であっても、実家に戻るとは決して言わなかった。


 ある時、雪子が体調を崩した。手の施しようのないところまで病状が進んでも、家に帰ってくることは稀だった。何度か、会いに来てほしいと手紙を出したが、顔を出すことは一度もなかった。


 雪子が亡くなった後、戻ってきた父の隣には赤子を連れた綾乃がいた。後妻として紹介されて唖然としたものだ。まだ喪が明けて間がなかった。それに異母弟として紹介された赤子は確かに父によく似ていた。ほとんど家に帰ってこなかった理由がこれかと、父に期待していた気持ちが消えた瞬間だった。

 日菜子にとって家族は母と藤原の伯父家族、それから祖父だけだ。


「今になってどうして縁談なんて持ち上がったのかしら」


 前回の縁談は、日菜子が特に関わっていることはない。まだ顔合わせもしておらず、準備をしておくようにと日程が連絡されていただけだ。


 うつうつとした気持ちを振り払うように、首を左右に振った。

 着替えようとクローゼットから紺色のボウタイワンピースを取り出す。ごくシンプルなフレアワンピースは若い女性に人気のデザイン。


 喜代の基準からすればワンピースも眉を顰める選択だろうが、一仕事してきた後だ。楽な格好がしたい。着物にさほど窮屈さを感じたことはないが、ワンピースや袴の過ごしやすさを知ってしまえば自然とそちらに手が伸びる。


「やっていられないわよね。何で今さら戻らなくてはいけないの」


 過去を振り返っていただけでも、お腹の底から怒りが湧いてきた。後妻は後継を産んだことで立場は盤石なのだから、たとえ一つの縁談が白紙になっても、日菜子から神力がなくならない限り、次の縁談は絶対にある。嫁がせる日まで、日菜子を手元に置いておけばよかったのだ。


 貴族の娘なんて、家にとっての駒だ。それを気に入らないからと追い出すのはどういうつもりだと言いたい。その上、それを了承した父にもがっかりだ。


 ぶつぶつと文句を口にしながら、着替えを終えて部屋を出る。廊下に出たところで、家令の村田誠一がちょうどこちらにやってくるところだった。誠一は喜代の夫で、とても柔らかな物腰をした紳士である。喜代は口うるさいが、誠一はこちらの気持ちを慮ってくれる。


「お嬢さま、旦那様がお呼びです」

「ありがとう。執務室に行けばいいかしら?」

「応接間の方へどうぞ。お嬢さまの頂いた珈琲を飲みながらお話をしようとおっしゃっておりました」


 応接間ということは、気楽に話していいということだ。

 もしかしたら、カフェでの出来事はもう耳に入っているのかもしれない。


 日菜子は足早に応接間に急いだ。

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