新しい護符
日菜子と真理は川口の指示通り、藤原の本邸の方へと入っていった。外での騒動はすでに屋敷の者にも伝わっていたのか、玄関では祖父の正彦がいた。腕を組み、同じ場所を行ったり来たりうろついている。
「あら、お祖父さまだわ」
「日菜子!」
日菜子が呟くのと、正彦が日菜子に気が付いたのが同時だった。
正彦は勢いよく近づいてくる。そして頭のてっぺんから足の先まで何度も何度も見る。着物は尻もちをついたり、走ったりして酷い状態だ。髪だって乱れている。それは一緒にいる真理も同じで。
二人を見ていた正彦の眉間のしわが深くなっていった。今にも怒って飛び出して行ってしまいそうな形相に、日菜子は慌てて説明した。
「見た目は酷いことになっているけど、怪我はないのよ。逃げる時に転んだだけだから」
「転んだ!」
「ええっと。袴だと思って大股で走り出したから。怪異を見たのも初めてで、ちょっと混乱してしまって」
あの黒い蔓のようなところに正彦を行かせるわけにはいかないので、ものすごく苦しい言い訳をしてみる。着物で走ることは難しく、裾をまくり上げないと袴のようにはいかないと切々と訴えた。
「なるほど」
納得したのかわからないような険しい表情で、とりあえず頷いてくれた。ほっとしたところで、真理が一歩前に出る。
「はじめまして。真理です。いつも日菜子にはお世話になっています。このような格好で申し訳ございません」
真理はぺこりと頭を下げた。正彦は大きく息を吸って吐いた。少しだけ険しさが取れる。何とか気持ちを抑えてくれたようだ。
「二人はまずは身なりを整えてきなさい。家の者に準備をさせる」
「そう言っていられないの。今、外が大変なことになっていて」
「知っている。護符師たちが今大量に護符を作っているから心配はいらない」
日菜子はほっとしつつ、項垂れた。
「どうした?」
「どうしてもっとまじめに練習をしなかったのかしら。こういう時に役に立たない」
まだ見習いの日菜子は護符作成の戦力とならない。神力もそれなりにあっても、討伐隊のような訓練を積んでいない。何かしたいと思っても、何もできないのだ。
真理は落ち込んだ日菜子の背中を優しく撫でた。
「そうだ、お父さまが助けてくれたのだけど。神力を飛ばしていたの。簡単にできるなら、教えてほしい」
「神力を使いこなせるようになるためには、鍛錬が必要だ。小原が使えるのは、当主の義務だからだ」
「当主の義務……わたしは教わったことがないけど」
母の冬子が亡くなるまで、小原の直系は日菜子だけ。それにも関わらず、日菜子は一度も当主としての教育を受けたことがなかったことに気が付いた。この国では神力がすべての基準。女性だから当主になれないという条件はない。
博一が日菜子に家を継がせる気がさらさらなかった。そういうことなのだ。色々な意味で、小原は他人だと実感する。
「あの、どうして日菜子のお父さまは藤原家に来ていたのですか?」
考え沈む日菜子の代わりに、気になることを聞いてくれた。
「清水家と繋ぎを作ってほしいと頭を下げに来ていたんだ」
宇根元と川口と今日は護符について相談があると訪問予定だったところに、博一が約束なしにやってきたそうだ。切羽詰まった顔をしていて、追い返せずそのまま話を聞いたらしい。その途中で、外が騒々しくなり、飛び出していったそうだ。もしかしたら、綾乃の神力を感じとったのかもしれない。
「何となく状況はわかりました。それでこんな状況になってしまったけど、宇根元さんと川口さんの用事は終わったの?」
「今、護符師たちが対応している」
日菜子も真理と同じく大人しくここにいるのが一番だと言われ、ため息をついた。
「それならば、新しい護符を作ってみませんか!」
正彦の言う通り、屋敷の中で大人しく待っていようと思っていたところに、三崎が飛び込んできた。先ほどまでキラキラした目で実体化した瘴気を観察していたはずなのに、いつの間にか側にいる。少しも気が付かなかった。
「三崎さん?」
「いつの間に……」
真理も驚いて絶句している。三崎は気にすることなく、日菜子の両手を握りしめた。興奮しすぎて顔が赤くなっている。荒い息のまま、彼女はまくし立てた。
「護符師の皆様の手を煩わせるわけにはいかないのですが、少し試したい護符があるのです。これはすごい発見になるはずなんです。あの蛇のような黒い蔓、一体どんな反応を見せるかと想像するだけで、ぞくぞくしちゃいます!」
「お前さんは……」
正彦は戸惑いながら、不思議な格好をしている三崎に声を掛けた。はっと我に返った三崎は日菜子の手を握ったまま、挨拶をした。
「あ、初めまして。修二先生の部下をしている三崎です。今から新しい護符を作るので、日菜子さんを貸してください!」
「新しい護符だと?」
「そうです。先ほどの実体化した瘴気を見て思いついたんです。いくつか実験をしたいので」
「話を聞こう」
正彦が重々しく頷いた。三崎は口を閉ざして、首を傾げた。
「いえ、日菜子さんだけで十分です。それに先代様のお手を煩わすつもりは」
「話を聞こう」
「……わかりました」
こうして正彦の離れに行くことになった。
◆
「今まで報告書で知っている限りでは、瘴気の核は小動物がほとんどでした。今回のように人を核にする事例は初めてです」
正彦の離れに行き、三崎が真面目な顔で説明を始めた。正彦はともかく、研究者でもない日菜子も真理も初めて聞く話だった。
「人を核に。それは本当の事なのか?」
「核にするというのがよくわからないけど、怪異は綾乃さんでした」
綾乃と聞いて、正彦は沈痛な面持ちになる。
「なるほど。だから小原は慌てて飛び出していったのか」
「怪異となってしまっているけど、綾乃さんは浄化すれば元に戻るのよね?」
日菜子が三崎に訊ねる。怪異は穢れであって、人ではない。そう思っていただけに、人が怪異に変容する様は恐ろしかった。あんな風に人が変わっていくのかと。
「どうでしょう? この事例が初めてなので断定はできないのです。ただ個人的な判断では難しいと思いますね」
「でも、お父さまの呼びかけに応えていたわ。ちゃんと会話もしていたから。浄化さえできれば元に戻るのではないの?」
「うーん、そうですねぇ。会話ができたということですから、自我は消えていないと思います。ただ、体が持たないかと」
小動物での話として、三崎が教えてくれたのは。
今までも小動物は浄化をして元の姿を取り戻している。ただし、すぐに肉体が変化に耐えられず、塵に変わるそうだ。過去の事例でも、元通りの姿になって生きているということはない。
「じゃあ、綾乃さんは」
「そのあたりは何とも。今回はちょっといつもと違いますからね。知らないことも多いですから、もしかしたら奇跡が起こるかもしれない」
「小原についてはわかった。それで、新しい護符というのは」
正彦が本来の目的に触れた。三崎はぱっと表情を明るくする。
「よくぞ聞いてくれました! 現行の護符は瘴気を包み込んで浄化をする方法なのですよ。今まで実体化した瘴気は形があったので、そういうものかと思っていました」
ところが今日見た瘴気は黒い水たまりのようなところから黒い蔓が実体化していた。しかも蛇のように蠢き、一度黒い水たまりに入ってから別の場所に現れる。自由自在に形を変えるのだ。
「そこでですね、浄化の護符自体を呑み込ませて、中から浄化したらどうなのかと」
「つまり中にある核を直接浄化するということか? だが、瘴気に触れれば浄化の護符は作用し始めてしまうぞ」
「ですから、ちょっと工夫をするわけです」
日菜子と真理は神妙な顔をしていたが、全く理解していなかった。真理は静かに入ってきた使用人の代わりに、お茶を用意し始める。日菜子は離脱するきっかけを失い、二人の話が途切れるのを待った。
「それで、わたしにできることは何でしょう? 難しいことはできないのですが」
話の触りも理解できていない日菜子は情けない顔になった。
「そんなに気負わなくても大丈夫です。これはあくまで実験です。失敗は成功の母です!」
どうやら三崎は目の前の怪異を何とかするためではなく、純粋に研究のために日菜子の協力が必要なだけらしい。
「ワクワクしませんか! わたしは興奮しすぎて血管が切れました!」
そう言いながら、鼻血を拭いた。彼女の興奮ぶりに、日菜子は顔をひきつらせた。




