意図しない合流
強い神力が黒い蔓に放たれた。鋭い刃のような神力はそれらを細かく斬り裂き、ぐずぐずに溶かす。
「え?」
訳が分からなくて、茫然としていると、中年男性が日菜子たちの横をすり抜ける。
数日前に見た、見覚えのある帽子と背中。
「お父さま?」
だが日菜子の呼びかけに、博一は答えない。黒い蔓の溶けた中心に近寄り、立ち止まった。どろりとした液体状になった黒い蔓は地面に水のように広がり、その中心に人の形がある。だが、その姿は人間とは思えない。黒く染まったそれは日菜子の目には異形としか映らなかった。
その黒い異形に恐れがないのか、博一はそっと手を伸ばした。大切な人に触れるような優しい仕草。
「綾乃、ずっと探していた。心配していたんだ。さあ、家に帰ろう」
綾乃の名前が出て、日菜子は息を呑んだ。もう一度、そこにある黒い異形を見る。目も鼻も口も何もないのに、大きさや形が女性に見える。
「ひろ、かず、さ、ん」
攻撃的な空気が一瞬にして凪ぐ。次第に黒色が薄まり、少しずつ異形の姿が露になる。滑らかな肌は枯れ木のように水分が抜け、いつも美しく結われていた髪はごわごわに縮れている。見た目は綾乃とは到底思えない。
だが、その声が。
その雰囲気が。
確かに綾乃だと日菜子に教えていた。博一もほっと息を吐くと、彼女を優しく抱きしめた。
「ああ、綾乃だ。無事でよかった」
「ごめんなさいごめんなさい。あの子が囚われて。どうしようもなくて」
夫婦の様子に、日菜子は自分がいかに家族でなかったのかを知った。たとえ母の雪子が生きていたとしても、このような博一は見ることはなかっただろう。瘴気に吞まれ、変貌した綾乃に気が付いたのも、そんな彼女を厭うことなく迎えに来たと言えるその気持ちも。
父の愛情など今さら必要としない。それなのに、胸の奥が詰まって息が苦しい。
「日菜子、今のうちに移動しよう?」
真理が動けない日菜子の腕を引っ張った。日菜子は頷くと、二人に気が付かれないように気配を消しながら、そろそろと移動する。今は落ち着いているが、いつまた先ほどのような状態になるかわからなかった。
「帰ろう。ここはよくない。なあに、大丈夫だ。何とかなる」
「無理よ。お嬢さまは変わってしまったわ」
そんな会話が耳に届く。日菜子は痛みと苦しさと、それでいて冷めた気持ちを抱え、二人の会話と何とはなく聞いていた。それは真理も同じで。彼女は何かを察して、日菜子を慰めるように優しく腕を撫でた。
少しずつ移動して、あと少しで藤原の結界に入ろうという場所で。
「あの子の代わり、を連れテ、イカナイト。マダ、タリナイ、アノコガ、クワレテシマウ」
綾乃の声が変質した。
そして、空気が変わった。穏やかさは消え、怒りが黒い靄とともに勢いよく広がった。
「綾乃!?」
博一は黒い蔓に横から叩きつけられ、宙を飛んだ。日菜子と真理は慌てて走ろうとしたが、地面が波打った。足を踏ん張り、倒れないようにするがとてもではないが前に進めない。
「ちょっと、これはまずいんじゃない!?」
混乱した真理が悲鳴を上げた。日菜子は真理としっかりと手を握り、一歩足を踏み出す。そのたびに地面が揺れ、あと少しの距離が縮まらない。どうしたら、と必死になって方法を考えていると。
「うおおう、何だこりゃ?」
暢気な声が飛び込んできた。驚いて声の方を向けば、藤原の結界から飛び出してきた宇根元と川口がいる。
「え? なんで……」
「日菜子君たちか、なんか楽しそうじゃないか!」
「楽しくないわよ!」
真理が緊張が極限に達したせいなのか、宇根元に噛みついた。そして感情の振れ幅が大きいのか、ぽろぽろと泣きだした。その涙に宇根元がぎょっとする。
「俺が悪いのか!?」
「他に誰がいます?」
すぐさま川口に断定され、顔を引きつらせる。
「とにかく、彼女たちは安全な場所に――」
そう言っている間にも、日菜子たちに向かって、黒い蔓が鞭のように空を切って襲ってきた。
すかさず宇根元が黒い蔓に足蹴りを食らわせた。その衝撃で黒い蔓は千切れ飛ぶ。さらに神力を本体と思える部分に叩きつけた。
「え、うそ」
「これでしばらくは動けないはずだ。そうだ、さっき小原のおっさんが飛び出してきただろう? どこ行った?」
「え? お父さまなら」
綾乃に近づいて行ったのは見ていた。だがその後はどうなったのか。
聞かれて、辺りを見回す。少し離れた地面の上に倒れているのが見えた。思わずそちらに行こうとするが、すぐに川口に止められた。
「近づいては駄目です」
「でも、お父さま、動かない」
「それでも。あなたに助ける力はない」
本当の事だった。日菜子は唇を噛む。確かに日菜子は何も持っていない。
宇根元は日菜子と博一を交互に見て、ため息をついた。
「気にすることはない。これは自業自得だ。神力があるだけで瘴気がどうにかなるわけがない」
「どうしますか?」
冷静に川口が問う。博一が出てきたことも、その後から宇根元と川口が現れたことも、突然すぎて、日菜子は真理と顔を合わせた。
「二人は避難を。ここ一帯に結界を張りますので」
淡々とした川口の口調に、大変なことが起こっているのだけわかった。討伐隊が動いているのなら、何もできない日菜子や真理は邪魔だ。素直に二人は川口の指示に従う。日菜子は藤原の結界ならば安全だと思っていたが、そうでもなかった。藤原家の屋敷までいかないと安心はできないらしい。
そんな説明を受けていると、慌ただしい足音が聞こえた。顔をそちらに向ければ、隆臣たちがちょうどやってきたところだった。彼らはこの状況に足を止めた。
日菜子は真理から離れ、隆臣へと走り出した。日菜子に気がついた隆臣が駆け寄る。
「隆臣さん!」
「無事だったか」
ぎゅっと抱きしめられて、ようやく体から力が抜ける。
「どうしてここがわかったの?」
「研究所の護符を使っただろう? それでわかった」
修二から貰った護符は特殊で、どこで使われたか追跡ができる仕掛けがあるらしい。もちろん成功品ではないので、中途半端らしいのだが。
ぜーぜーと息を切らしながら、修二も追いついた。三崎も一緒だ。
「日菜子君も真理君も、無事だったか。ああ、よかった」
「おじさま」
「それより何があったんだ? こんなところで怪異が発生するなんて」
修二は呼吸を落ち着かせると、辺りを見回した。地面はぼこぼこになり、黒い蔓の破片があちらこちらに飛び散っている。
「怪異は真理を狙っていて」
川口の側に立つ真理に目を向けた。真理は川口に身振り手振りで説明していた。
「真理君が?」
「ええ。なんでも幼い頃、果歩さんの遊び相手として候補になったことがあったとか」
「ああ、なるほど!」
三崎が理解した、と手を打った。
「清水家は封印を維持するための贄を持っているんです。その選定の事でしょう」
「贄?」
「そうです。何人か、贄がいますね。わたしが知っているのは三人ぐらいですが」
感心するよりも、心配になる。三崎はただただ得意げだ。
「もっと盛大に褒めて讃えてよいですよ。わたしの根性と無謀さが掴んだ情報ですから!」
「後ろ暗いことをしているくせに、胸を張るな。それよりも、他に被害はないのか?」
これ以上はまずいと思ったのか、修二が話題を変えた。三崎もそれ以上は言わず、辺りを見回す。
「センセ、無事じゃない人があっちの方に転がっていますよ」
「ん? あれだは誰だ? 顔が見えない」
「父の小原博一です」
日菜子が感情を乗せずに告げると、修二が目を見開いた。
「はあ? 何でそんな人がこんなところに」
「事情は分かりませんが、藤原の屋敷から飛び出してきたので伯父さまに用事があったのかも」
「センセ、今それどころじゃないですよ」
詳しいことを知りたいという前に、三崎が修二の顔を掴んで捻った。その先には、千切れた黒い蔓が集まっていく様があった。
「まずい、浄化をしていないせいか。再生していく様はなんとも気持ちが悪いな」
「幻想的です。一つ目とかになるんでしょうか」
見ている間にも怪異が一つに集まり、ぱっと地面に広がり黒い水たまりになる。そしてその中から、大量の黒い蔓が伸びてきた。勢いよく上に上にと伸びていく。その大きさは人の二倍はあり、さらに複数の蔓に分裂する。
「初めて見ました、実体化した瘴気!」
「話には聞いていたが……」
二人の研究者が目をランランにさせて、変貌する怪異に見入る。
「これは蔓じゃなくて蛇ですね! 一匹手に入りませんか? ちょっと実験してみたいです」
「無茶を言うな! あんなもの、置いておけるわけないだろうが」
「大丈夫ですよ。ほら、どこかに廃棄予定の施設があったじゃないですか」
研究者たちがいつものような会話をしている。どうしたものかと戸惑いしかない。日菜子は困ったように隆臣を見上げた。
「あの二人、どうしたらいいの?」
「放っておけ。勝手にやるだろう。日菜子は川口のところへ」
黒い蔓が互いにぶつかり合い、耳障りな音を発した。その音に再び恐怖がこみ上げてくる。隆臣は日菜子の頬を大きな手で撫でた。
「大丈夫だから」
「怪我をしないで」
そう願うしかない。
隆臣は日菜子に微笑むと、軍刀の柄を掴み、鞘から引き抜いた。




