憂鬱な気持ち
日菜子はため息をついた。
清水果歩と会ってから、何か変だった。
思い返しても、顔を合わせたのはほんの少しの時間。
果歩は日菜子を少しも見ることなく、子供を得られる手段として扱っていた。彼女の紡ぐ言葉は恐ろしいほど利己的で。
一途に愛しているようなのに、彼女にとって隆臣の感情はどうでもいいようだった。
彼女が手に入れたい「隆臣」は何だろう。自分の隣にいればいいだけなのか。それが愛とは思えなかったが、そういう行動の根底にはきっと日菜子には理解できない形の愛がある。
彼女と隆臣の会話から、帝が一度彼女の希望を叶えた理由をおぼろげながらに理解した。
諭す言葉ではダメなのだ。彼女に言葉は届かない。すべてを歪に捉え、自分の都合のいいように書き替えていく。その様子は理解しがたく。隆臣が以前苦手だと言っていたのも納得だった。
内覧する屋敷を果歩の手の者にすり替えられていたのも合わせて、清水家に苦情を入れると言っていた。なので、今後会うことはないだろう。そう思うのに、どこか憂鬱な気分が抜けない。
「日菜子、ため息」
突然、目の前に真理の顔が現れた。その距離の近さに、瞬いた。真理は心配そうに日菜子の顔を覗き込む。
「仕事中なのに、随分と浮かない顔をしているのね。珍しい」
「ちょっとね」
態度に出てしまっていたことを大いに反省した。客が少ないとはいえ、今は仕事中。答えの出ない考え事をしている時ではない。そう落ち込んでいると、真理はそっと囁いた。
「もしかして、清水のお嬢さまの事で悩んでいるの?」
「どうして」
「勘、と言いたいところだけど。朝香さまの前妻だと聞いたから。この間、街で見かけた時も気にしていたようだし」
その通りなのだが、隆臣の前妻が清水果歩であることを知っているのは、一握りしかいない。宇根元のへらへらした顔を思い出し、こぶしを握った。デリカシーがないというのか、人とズレているというのか。宇根元はトラブルを引き起こす発言しかしない。
「あら、情報元わかってしまった?」
「わかるわよ」
「うふふ、確かに。宇根元さま、軍人なのが信じられないぐらい、口が軽いものね」
一人でぐるぐるしていても行き詰まるだけ。真理に相談してみようかと、日菜子はちらりと店内を見渡した。二、三人がそれぞれがゆったりとした時間を過ごしていて、明子は奥の方で何やら書き仕事をしていた。学者たちや軍人たちがいない空間は、とても静かで穏やか。
「ちょっとだけ話を聞いてもらってもいい?」
「じゃあ、休憩に入りましょう」
二人は明子に断りを入れて、少し奥にある休憩室へ入った。
◆
「それで、何を悩んでいるの?」
「婚約が決まって、結婚後に住む家を探しているの。その下見に行った時に、清水のお嬢さまが絡んできて」
先日、果歩と会った話をした。紹介された物件が想像以上の大きさだったこと、その物件は果歩のお気に入りであること。さらには。果歩が日菜子に子供を産ませて、再び再婚すると信じていることを。
「それ、本当の話?」
流石の真理も顔をひきつらせた。子供が生まれない夫婦が離縁して、夫が後継ぎを設けるために再婚する話はこの国ではよくある話。平民にはあまり当てはまらないが、貴族の血が流れていればいるほど、血の価値は大きい。血筋だけではなく、神力の強さも求められるから、子供が生まれたとしても安泰ではないのがこの国の貴族だ。もし、子供の神力が弱い場合は、下手をすれば離縁させられてしまう。
だが、流石に子供を産めなかった妻のために、他の女性と再婚して子供を産ませ、さらに元の夫婦に戻るというのはあり得ない。それならば、素直に親類の中から条件を満たす子供と養子縁組をするべきだろう。
「考えていることも想像以上のことでびっくりしたけど、隆臣さんとまったく会話が嚙み合っていないところがあって」
声を小さくしながらも、言葉はどんどんと零れてくる。真理は嫌がることなく、うんうんと頷いた。
「わたしも小さい時に会っただけだし、会話らしい会話をしたことはないのだけど。それでも、やっぱりどこか浮世離れしている感じだったわね。顔立ちが整っているし、所作も美しいから、この世の人ではない印象だったわ」
「わかる。近くで会ったのは初めてだったけども、とても美しい方だったわ」
日菜子が言いたいことを言い終えると、真理はひどく真剣な顔をした。
「――ねえ、日菜子」
「何?」
突然の変化に戸惑いながらも、先を促した。
「清水のお嬢さまにはあまり近寄らない方がいいわ」
「近寄るつもりはないけど……どうしてそんなことを言うの?」
不思議に思い聞いてみる。真理はひどく渋い顔をしながら、教えてくれた。
「これは本当に噂で、真実かどうかすらも分かっていないけども」
そんな前置きをして話し始めた。それは果歩についての噂話で、遊び相手として選ばれた子供たちが大人から盗み聞いた話だった。
果歩には皇族に備わっているはずの神力がない。だが、それは何代かに一人という割合でそういう子供は生まれるそうだ。強い神力を持つ子供を作り続けるため、近い血筋で婚姻を繰り返したことによる弊害ではないかと。
「へえ、そうなの」
その程度の話なら、子供の生まれにくい貴族や神力の弱い貴族の間ではよく聞かれる。もちろん、密やかに囁かれる程度で、表立っていう人間はいない。誰もがなんとなくそうかもしれないという、漠然とした共通認識があった。
「もっと楽しみにしてよ」
「しているわよ。それで、そこから先があるのでしょう?」
「そうなの。だけど、皇族の場合は違うんですって。浄化できない穢れを体の中に封じるために生まれてくるそうよ」
あまりの現実離れした話に、呆気にとられた。神話にはよく出てくる話だが、それはあくまでお話だ。
「真理、あまり揶揄わないで! 真面目に聞いちゃったじゃない」
「嘘じゃないわよ、呪術者が話していたの。本来ならば、神力を持たない姫はその体に穢れを封じて葬るのだと。だけど、殺すことができずに、封印を継続するためによく似た神力を与え続ける必要があるのですって」
呪術者と聞いて、背筋がぞくりとした。この帝の呪術者は特殊な地位にある。建国時に集められた禁呪を一手に引き受ける者たち。一族と言われることもあるが、その実態は表に出てこない。存在は教えられるが、同時に決して触れてはいけないものとして、教育される。
聞いてはいけない、踏み込んではいけない何かが警告するように息が苦しくなる。
真理は大丈夫だろうか、と顔を上げれば、そこにはいつも朗らかに笑う真理はいなかった。どこか悲し気な、やりきれない気持ちがにじみ出ている。
それで気が付いてしまった。真理が果歩のために呼ばれた理由を。
「真理……」
「やだわ、そんなにも深刻な顔をしないで。ほら、わたし、神力が弱いからすぐに外されてしまったわけだし」
先ほどの気持ちを綺麗に消して、いつもの朗らかな真理になる。そして片目をつぶって、うふふと笑った。
「それに子供の時以来、全然接触はないんだから。それにお嬢さま、禍々しさはなかったのでしょう?」
真理の言う通り、果歩からは何も感じなかった。もし少しでも禍々しさがあれば、隆臣が気が付いただろう。ふと、彼女の足元にあった黒い影を思い出した。でもあれは一瞬で、隆臣も感じ取れなかった。
「そうね、ちょっとだけ話が噛み合わなかっただけ。聞いているこちらが間違っているのではないかと思ってしまうほどだったわ」
禍々しさは感じないと告げれば、真理はいつもの楽し気な顔に戻る。
その様子に、ずっと心のしこりになっていたんだろうということだけが分かった。




