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父の後妻

 上品な青緑色の着物、前髪に適度にカールをつけて分けた耳隠しの髪型。

 着物も、髪に飾った大きなかんざしも彼女によく似あっており、しっとりとした艶やかな空気を纏っている。


 入口に立った女性が誰であるのか、日菜子はすぐに気が付いた。

 実家を追い出されてから三年、日菜子の父の後妻である小原綾乃と顔を合わせることはなかった。

 八歳の時に母を亡くし、すぐに後妻として入ってきた綾乃。

 建国時から爵位を与えられている名家の分家のお嬢さまで、先妻の娘である日菜子にきつく当たっていた。縁を切って、もう二度と会うことはないと思っていたのに。


 最先端の装いをした女性はぐるりと店内を眺め、日菜子の上に視線を止める。日菜子の見つけないでほしいという祈りは届かず、二人の視線が合わさった。

 日菜子の姿を見て、眉間にくっきりと皴を刻んだ。頭から足の先まで遠慮のない目でじろじろと観察する。


 彼女の目が気になって、自分の姿を見下ろした。

 スタンドカラーの白のブラウス、臙脂の着物、合わせている袴は紺色だ。足元は黒のタイツに白のパンプス。ただ給仕をしているため、白いフリルのエプロンはしている。


 決して変な格好はしていない。ごく普通の若い女性の着こなしだ。


「日菜子さん」


 嫌悪感丸出しの綾乃に名前を呼ばれ、日菜子の顔が強張った。

 綾乃から不服そうな眼差しを向けられると、叱責されてばかりいた過去が頭に蘇る。何をするにも気に入らず、綾乃はよく日菜子の手の甲を叩いた。ごく一般的な子供にする躾の一環だが、実母にそういう痛みを伴う躾をされたことのない日菜子には、とても辛く感じられた。


 今すぐ走って逃げたい気持ちがこみ上げる。

 それでもその場にとどまったのは、逃げてはいけないとすり込まれた過去の記憶があったから。逃げ場がなかった日菜子は、いつだって嵐が過ぎるのを待つしかなかった。


「良家の娘がそんな格好してみっともない。その上、店員として働いているなんて」


 余りの言い方に、何をしに来たのだろうと身構える。綾乃がわざわざ日菜子に話しかける時は大抵碌なことがない。綾乃は日菜子が何も言わないことを気にすることなく、淡々と続けた。


「今すぐここを辞めて、家に戻っていらっしゃい」

「はい?」

「なんという返事の仕方なの。躾が必要ね」


 日菜子の言い分など聞くつもりもないのか、不愉快そうに眉をひそめた。日菜子は反論しようと腹に力を入れ、顔を上げた。だが、言葉を発する前に腕を優しく叩かれる。驚いて後ろを振り返れば、にこやかな笑みを浮かべる修二がいた。


「おじ様?」

「まあ、任せてくれたまえ」


 修二は優しく告げると、日菜子を庇うようにして前に出た。綾乃は突然割り込んできた男を不審そうに見やる。


「日菜子君はすでに小原家との縁を切っている。今さら戻るようにと言われても困る」

「あなたは何ですの?」

「僕は日菜子君と養子縁組した藤原家の分家の者でね。一方的な言い分で連れていこうというのを見過ごすわけにはいかない」


 藤原家の分家と聞いて、さっと彼女の顔色が変わった。先ほどからの強気さは鳴りを潜める。赤い紅を塗った唇を小さく噛みしめ、忌々し気な目を日菜子に向けた。


 生家にいたころには気が付かなかったが、その目の奥に仄暗い憎しみがゆらりと揺れていた。綾乃からは前妻である日菜子の母との教育方針の違いから、かなり厳しい躾けをされてきた。それは前妻の娘など邪魔で仕方がないからかと思っていたが、そういう感情とは少し違う気がした。


「中央から縁談が来ています。断ることはできませんわ」

「中央から? それはおかしなことだな」


 修二は心底不思議そうに首を傾げた。日菜子も縁談と聞いて目を丸くした。


「何かの間違いでは? わたしは三年前に先方から断られております。それを理由に小原家と縁を切られたはずです」

「ですから、なかったことにしようというのです」


 苛立ちを含んだ言い方に、日菜子は目を細めた。


「綾乃さん、ご存じないの? 正式に縁切りがなされている上に養子縁組もしているのです。そう簡単に取り消せませんわ。それに中央からの縁談ということであれば、藤原の方にお話があるはずです」

「……」


 日菜子の言葉を否定できなかったのか、綾乃は黙ってしまった。場の空気が悪くなり始めた頃、明子が柔らかな声で割り込んだ。


「お客様、もし話し合いが必要なら、個室をご用意いたしますが」

「その必要はありません。今日の所は帰ります」

「養子縁組は簡単に解消できません。余計なことはなさらないように」


 修二が挨拶もなく背中を向けた綾乃にのんびりとした声で警告した。綾乃は特に反応することなく、カフェから出ていく。扉が閉じたところで、ぴんと張り詰めていた店内の空気が一変した。先ほどまでの静かさが嘘のように、あちらこちらで目の前で繰り広げられたことを話している。


「ありがとう、おじ様。それに明子姉さんも」

「本当のことを言っただけだからな。それにしてもどういうことなんだ?」

「今さら縁談だなんて……。わたしが小原家を出て、養子縁組していることを知らないのかしら。よくわからないわ」


 日菜子が不思議そうに疑問を口にする。明子がそっと彼女の腕に手を置いた。


「気を付けた方がいいわ」

「明子姉さん?」

「ねえ、先生。日菜子さんの養子縁組は本当にきちんと手続きをしているのですよね?」

「もちろん。藤原の先代がちゃんと整えましたからね」

「前伯爵さまが。そう、それなら大丈夫かもしれない」


 必要以上に心配している明子に、日菜子は首を傾げた。


「明子姉さんは何が心配なの?」

「養子縁組をしているのを知っているのに、日菜子さんを連れ戻せば問題ないような様子が気になって……」

「確かに。どういうことなのかしら?」


 答えを求めるように、修二を見る。修二はうーんと唸った。


「強権を振るえばできないこともないが……普通はありえないだろう。それに先代は抜かりのない人だから、心配しなくてもいいと思うが」

「でも、爵位を持つ名家にはよくあることですわ。法で決まっているからといって安心はできない」


 何か嫌なことでもあったのだろうか。明子の表情はとても厳しく、普段優しい顔をした彼女しか知らない日菜子は驚いた。それは修二も同じだったようで、心配そうに顔を曇らせている。


「明子さん、もしかして何か困ったことでも?」

「え? いいえ。もう過去の話ですわ。でも、用心しておいても損はありませんわ」


 明子がふと我に返った。先ほどの険しさが取れ、いつもの柔らかな明子に戻る。よく知った明子に戻って、日菜子はほっと肩から力を抜いた。


「そうね、お祖父さまに相談してみるわ。今更、小原に戻るつもりはないし」


 あそこは居場所もないしね、と心の中で付け加えた。


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