軍人の婚約者
いつもと変わらない仕事終わり。後片付けを終え、奥の控室で帰り支度をする。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
帰る前にカフェの同僚たちに挨拶をすれば、明子が不思議そうな顔をした。
「今日は一人なの?」
「ええ。隆臣さん、仕事の調整がつかなかったようで」
昨日のうちに、今日は迎えに来られないと謝られていた。あまりにも申し訳なさそうな顔をするので、日菜子も慌ててしまった。隆臣と再婚約するまでは一人で帰っていたのに、ここ一か月で随分と過保護になってしまったものだ。
「まあ、大丈夫かしら? 最近、物騒になっていると聞いているのに。もしものことがあったら」
美園屋の夫人から聞いた話は、ここしばらくの間で色々な人が知る噂に変化していた。カフェに来る学者たちも時々口にするようになり、帝都であっても靄が成長することがあるのかもしれないと日菜子も思い始めている。
とはいえ、隆臣と遭遇した時以降、小さな靄も、噂のような怪異にも遭遇したことはない。
「明子姉さん、心配しすぎ。その変な靄は夕暮れ時に現れるのでしょう? まだ明るい時間だから大丈夫よ」
「そうね。すっかりお迎えがあることが自然になってしまって」
「隆臣さんもいつまでもわたしに合わせることはできないです」
明子の過保護さにくすぐったい気持ちを味わいながら、カフェを出た。一人、道を歩けば右側に誰もいないことに寂しさを感じる。
隆臣はあまり自分のことを話さないが、話をきちんと聞いてくれるので、日菜子は一人色々なことを喋っていた。隆臣は日菜子の話を否定せずに、時々意見を挟んでくる。そのちょっとしたやり取りはいつの間にか日菜子の楽しみになっていた。
屋敷に着くまでのほんのわずかな時間でしかない。それなのに、話す相手がいないことに戸惑う。
「急いで帰ろう」
寂しさを振り払うようにして、日菜子は足を速めた。
「小原日菜子さん」
突然、背後から名前を呼ばれて、足を止めた。振り返れば、二人の軍人がそこにいる。
一人は背が高くがっちりとした体格の男性。もう一人は日菜子よりも少し背の高い、短髪の女性だ。
二人の着ている軍服の襟章から、隆臣と同じ軍属だと気が付いた。
「どちら様でしょう?」
日菜子は警戒心を持ちつつ、丁寧に対応した。もし隆臣の同僚であれば無礼な真似はできない。ただ内心は首を傾げていた。藤原姓ではなく、小原姓で呼ばれたことが不思議だった。
「私は川口という。彼女は住吉。我々は朝香副隊長の部下になる」
「……ご丁寧に。それで何か御用でしょうか?」
「討伐隊の隊長の宇根元が是非、あなたにご挨拶をと」
「挨拶?」
よくわからず、瞬いた。隆臣との付き合いから軍の関係者と繋がりができるなど思ってもいなかった。当然、挨拶のための迎えが来るなど思い至らない。しかも、今日に限って隆臣がいない。
ふと、隆臣がいない時を狙ったのではないかという疑惑が生まれた。それに、目の前の軍人たちは隆臣の同僚として日菜子に挨拶をしているが、本当に同僚であるか、判断がつかない。
「申し訳ありませんが、この後予定があります。挨拶は後日、隆臣さんと一緒に伺います」
頭を下げ、断りを入れた瞬間。
二人から神力の威圧が放たれた。
とても鋭く、普通の人なら立ちすくんでしまうほどの強さ。
日菜子はびっくりして目を丸くした。以前なら、あまりの強さにへたり込んでしまっただろう。さりげなく周囲に視線をやれば、顔色悪くうずくまっている人もいる。周囲の迷惑を考えずに、威圧しているようだ。
「あの、ここでそんなに強い威圧を出されると他の方にご迷惑が」
威圧をものともしない日菜子に、二人は動揺を見せた。困ったように少し曖昧に微笑む。
この一か月、隆臣と無駄に交流していたわけではない。初日は隆臣の神力の圧倒的な強さに逃げ出してしまったが、今では隆臣から強い圧力をかけられても受け止められる。
「隆臣さんの神力に慣れていますので」
「……」
「挨拶しないと威圧をやめないというのなら、ついていきますから」
二人から威圧が消えた。
◆
日菜子は興味本位にきょろきょろと辺りを見回した。二人の軍人に案内された場所は軍本部のある建物で、カフェと屋敷しか行き来しない日菜子にとって物珍しい場所だった。貴族の屋敷とは違い、どこか物々しい雰囲気だ。
石造りの重厚な建物は見る人を圧倒するし、不穏な空気を纏う研究棟とはまた違っていた。随分前に聞いた話によると国外にある古城をイメージしているそうだ。
「……こちらには初めてですか」
男性軍人の川口に聞かれ、小さく頷いた。
「はい」
「婚約者には興味がないと」
「興味がないというよりも、まだ顔を合わせて一か月ぐらいですから。お互いのことをまずは知っていこうと」
女性軍人の住吉の足が止まった。探るような目を日菜子に向けた。
「三年前から婚約は継続していると聞いています」
「そのようですね。ですが、三年前に顔を合わせることなく縁談拒否され、そのまま生家を追い出されましたので」
「そんな話、聞いていないが」
住吉がぼそりと呟いた。日菜子は苦笑する。
「今回、隆臣さんが藤原の家を訪問してくださったので、縁談は延期扱いだと知りました。正直、びっくりしています」
二人の軍人はお互いの顔を見合わせた。先ほどまでの無表情とは違う、どこか戸惑うような顔をしていた。
「これから宇根元隊長との面会になるが、事情をまず隊長に説明してもらえないだろうか」
「これは家同士の問題ですから。許可なく話していいのか、判断できかねます」
小原家と藤原家のことについて話すことは簡単だ。だけど、隆臣の方はそうはいかない。どこまで話していいことかわからないし、隆臣は現行の制度を曲げた婚姻をしている。これが一般的ではないことは日菜子も理解していた。
「では、話せる範囲で」
「わかりました」
とりあえず、事情をまず先に話そうと心に決めた。
案内された部屋は討伐隊の隊長に与えられた執務室だった。川口がノックをすれば、すぐに許可が下りた。大きく扉が開き、中に通される。日菜子を認めると、一人の男性が立ち上がった。
「やあ、ようやく会うことができた。君が隆臣の婚約者だね」
そう声をかけてきたのは、軽薄そうな男だった。薄い茶色の髪を長くして、緩く一つに結わえている。軍服を少し着崩し、ボタンを外したシャツからは肌が見えていた。
絶対に近寄ってはいけない人種。
日菜子の頭の中に、学者たちから聞かされていた色々なことが駆け巡った。中央機関の集まった場所で働くことが決まった後、親切な学者たちが絶対に関わってはいけない人たちの説明をしてくれた。
隊長の宇根元と思われる男性は要注意人物の特徴にぴったりと嵌る。
「……あの、もう帰っていいですか?」
彼の目を見ないように視線をやや逸らしながら、聞いてみた。
「はは! 面白い女の子だね。ダメに決まっているじゃないか!」
「でも、目が合って妊娠したら困ります」
心の中で呟いたつもりが言葉に出ていた。
「流石にいくら俺が優れていても、目が合っただけで妊娠はさせられないな」
「隊長!」
日菜子を案内した住吉が、目を吊り上げて非難の声を上げた。日菜子はその声に、自分が思わず言葉にしてしまったことに気が付いた。
「まあ、申し訳ございません。つい本音が。ですが研究棟の先生方にくれぐれも注意するようにと、絶対に近寄ってはいけないと言われていますので」
だから失礼します。
優雅さも何もない謝罪と共に、部屋を出ようと足を踏み出した。
「おっと、まだ帰さないよ」
「そういう誤解を生むような言葉を言わないでください」
住吉が日菜子と宇根元の間に立ち、上司を睨みつける。
「お触り厳禁」
「えー、なんか俺が悪いの?」
「そのちゃらちゃらした格好がいかに駄目であるか、毎回説明していますよね?!」
へらへらした様子の宇根元を見て、どうしていいかわからなくなる。そのままその場に固まっていれば、川口が口を挟んだ。
「話が進まない。それにあまり時間がない」
「そうだった! 隆臣が帰ってくる前に話してしまわないと」
隆臣の名前が出て、ため息が出そうになる。そういうことであれば、宇根元が納得するような答えを聞かない限り、こういうことが度々あるということだ。
「その前に。彼女から婚約についての事情を聞いてやってください」
「ああん? 事情? なんだそれ」
宇根元は怪訝そうに首を傾げる。川口は淡々と先ほど聞いた話を説明する。
「三年前、縁談拒絶されて家を追い出されたそうです」
「は?」
「そうだったな?」
確認するように日菜子に話を振った。日菜子は小さく頷いた。
「そうです。今は小原ではなくて藤原になっています」
「藤原! って、護符師一族の?」
「はい」
小さく頷けば、宇根元は満面の笑みを浮かべた。
「なんていう幸運だ! 隆臣は面白みのない男だが、たまにはいい仕事をするな」
「女性の不幸を喜ぶなんてサイテー」
なんだか状況が飲み込めず。日菜子は戸惑いながら軍人たちの様子を見ていた。




