カフェでの仕事
格子柄のステンドグラスが嵌められた扉が押し開かれ、からんとドアベルが鳴った。ラジオから流れていた今流行りの明るい音楽に、外から流れ込んだ雑音が混ざりこむ。
「いらっしゃいませ!」
カフェの店員として働いている日菜子は片付けている手を止め、愛想よく声を上げた。
帝国の庁舎が建ち並ぶ一角にあるこのカフェはとても異質だ。堅苦しく、統一されたレンガ造りの建物の中に、繁華街にあるようなお洒落な木造の館が建っている。元々はどこかの大貴族の道楽で建てられた別邸だが、今は中央機関が買い上げ、庁舎に勤める人々の憩いの場であるカフェとして営業していた。少し前の時代に流行った異国の建築様式のカフェで、とても華やか。
内装も、深い赤色の絨毯に艶のある飴色のテーブルと椅子、漆喰の白い壁と濃い茶色の窓枠、高貴な貴族の茶会に使われていた部屋を再現している。調度品や小物は当時のもので、今ではほとんど手に入らない逸品ばかりだ。
今日も中央に勤務している常連客で半分ほど席が埋まっていた。しばらく前に異国から持ち込まれた珈琲は常連客たちの心を掴んだようで、いつの時間もいっぱいになる。
「やあ、日菜子君。今日もいつものやつをお願いするよ」
黒の山高帽子を取り、挨拶をしてくるのは、ここの常連である学者の藤原修二だ。帝国内外でとても名のある学者であるが、日菜子にとってはお客というよりも幼い頃から可愛がってくれる親戚のおじさんである。つい気安い態度で声をかけた。
「おじ様、こんな早い時間からこちらに来て……。お仕事は大丈夫なの?」
「行き詰った時こそ、気晴らしだよ」
「昨日もそう言っていたわ」
「そうだったかな?」
空返事をしながら、彼はくるりと店内を見回した。お目当ての人を見つけ、表情が柔らかく崩れる。わかりやすいその態度に、内心呆れながら彼の目的の人に目を向けた。
くすんだ紅の縞の入った紫色の着物に白のエプロンをつけた彼女は明子といい、このカフェの切り盛りを任されている。すでに結婚していたが、数年前に軍人であった夫が辺境への遠征で亡くなり、寡婦となっていた。
時折見せる憂いを含む顔に、彼女を庇護したいと思う男性は多い。常連客になる男性の半数以上が彼女と会うために来店している。明子の存在がこのカフェの繁盛をもたらしているのは間違いない。
常連客になった男性たちも、今ではすっかり行儀よく珈琲を飲んでいるが、初めからこうであったわけではない。明子を狙う男性同士、お互いをけん制し、明子に熱心にアプローチをする。
一時期、それがエスカレートして乱闘騒動にまで発展したそうだが、明子の「皆さま仲良く」という一言で、紳士同盟なるものが組まれた。
この辺りの事情は日菜子にはさっぱり理解できないが、平和に店に通ってくれるのならどうでもいい話だ。
そして他の常連客と同じく、修二がカフェに足繫く通うのも明子に会うためだった。声をかけるわけでもなく、会話をするわけでもなく、ただ彼女の姿を見るために通う。
日菜子にしてみたら気持ち悪い行動であったが、彼の持つ浮世離れした清潔さが周囲の人たちに不愉快さを与えなかった。とはいえ、忙しく立ち仕事をしている彼女をじっと見つめているなんて、不健全極まりない。
日菜子は修二だけに聞こえるように小声で囁いた。
「明子姉さん、呼んできましょうか?」
「日菜子君、何を言って」
「おじ様の気持ち、バレバレよ」
そう返せば、修二は愕然とした顔になり日菜子を凝視する。日菜子はバレているなど少しも考えたことのない修二の様子に、呆れたようにため息をついた。
「そうなのか? いつもと変わらない態度だと思っているんだが」
「おじ様はそう思っているかもしれないけど。いつもぼさぼさ頭の着物姿で仕事をしているのに、カフェに寄る時だけお洒落なスーツを着てくるんですもの。誰もがその気持ちの行き先を勘繰るわ」
ここの常連の大半は修二と同じく帝国の研究機関に勤めている人たちだ。当然、修二とは昔からの顔見知りで、普段彼がどんな格好をして過ごしているのか知っている。その自分の格好に頓着しなかった彼がお洒落な格好でカフェに通うのだから、理由などすぐに知れるというもの。しかも明子に向けるまなざしはとても熱っぽい。
「明子姉さん、気が利いて、優しくて、その上、綺麗だわ。それに、いつも常連さんから誘われているし」
「そ、それは本当か?!」
「もちろん。だから早めにアプローチしないと」
うぐぐぐと唸る修二。
「日菜子さん、先生をからかってはいけませんよ」
二人の様子をどこかで見ていた明子が困ったような顔で立っていた。近くに来るまで気が付かなかった修二は飛び上がらんばかりに驚く。
「明子さん!」
「本当にごめんなさいね。あとで叱っておきますから」
申し訳なさそうに頭を下げる明子に、修二はがしりと彼女の両手を握りしめた。
「そんなことはない! つまらないことで頭を下げないでほしい」
「おじ様、距離が近い!」
驚いた日菜子は慌てて二人の間に体を滑り込ませた。
「いや、すまない、ああ、何てことだ。今日はもう帰る……」
混乱をしてわたわたとした後に、がっくりと肩を落とした。
「そんなこと言わないでくださいませ。さあ、こちらの席にどうぞ」
明子は楽し気に笑みを浮かべると、修二を案内する。彼は戸惑いながら、ずり落ちた眼鏡を押し上げた。
「え、あ、しかし」
「先生のように通ってくださる方がいるから、とても楽しく仕事ができていますのよ。今日もいつもの珈琲でよろしいかしら?」
言われ慣れない艶のある言葉に、ボンと顔を赤くした。日菜子はそんな二人を見つつ、さっさと告白でも何でもしてしまえばいいのにと心の中で独り言ちる。
二人の様子を窺うようなピンとした空気が店内を満たし始めたころ、再びドアベルが鳴った。反射的に笑顔を浮かべ、ドアの方へ顔を向ける。
「いらっしゃいませ……」
扉を開けて入ってきた女性の顔を見て、勢いのあった日菜子の声は尻つぼみになった。
「綾乃さん。なんで、ここに」
もう二度と会いたくないと思っていた父の後妻がそこにいた。