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子育てですが、難しいです

 今日はリクと約束した、お礼の食事会の日。


 静香に教えてもらったイタリア料理店の予約はした。


「問題は私の仕事が何時に終わるか……定時は無理でも、できるだけ早く仕事を終わらせる。まずは、午前の外来を手際よく済ます!」



 朝から気合いを入れて外来へ向かう。すると、切羽詰まった声が聞こえてきた。



「起きた時からこんな状態で! 早く、診察してください!」


「落ち着いてください。まずは、受付を……」


「そんなことより先に!」



 ニ歳ぐらいの子どもを抱えた母親が、看護師に訴える。ただならぬ様子に、私は駆け足で近づいた。



「どうしました?」



 私に気が付いた母親が迫る。



「子どもが! いくら声をかけても返事がなくて、すぐ寝てしまうんです! 顔も青白いし、こんなこと初めてで……」



 確かに子どもの顔色が悪く、ぐったりしている。呼吸は落ち着いており、苦しんでいる様子はない。


 看護師が困ったように、私と母親の間に入った。



「ですから、まずは受付をしてください。そうしないと、診察ができませんから」


「でも!」



 私は看護師に訊ねた。



「処置室は空いてる?」


「はい」



 私は母親に言った。



「先に処置室で子どもの診察をします。お母さんは、その間に受付をしてください」



 看護師が子どもを預かろうと手を出す。だが、母親は子どもを差し出すのを躊躇った。



「で、でも……」



 私は早口で説明をした。



「受付をしなければカルテが作れません。早く診察をしてほしいなら、予約の診察前である今の時間しかありません。それとも、子どもを抱っこしたまま受付をして、その後で診察をしますか? ただ、その頃には予約の診察が始まっていますので、かなり待ってもらいますけど」


「お、お願いします」



 母親が子どもを看護師に渡す。子どもは少し愚図ったが、すぐに力なく眠った。



「処置室ですぐに採血と血糖値を測定して、そのまま生理食塩水(生食)の点滴を繋いで。あと、緊急でCTもお願い」


「はい」



 子どもを抱いた看護師が処置室に入る。その姿を母親が心配そうに見つめる。



「こちらは大丈夫ですから、お母さんは早く受付を済ませてきてください。受付が終わりましたら、お子さんのところへ案内しますので」


「は、はい」



 母親は受付へ走った。





 私が処置室に入ると、すぐに看護師が来た。



「採血と点滴をしました」


「ありがとう。採血は至急で検査に出して」


「はい」



 看護師が駆けていく。私はベッドで眠る子どもに視線を落とした。


 ニ歳ぐらいの男の子。髪は短めで、体は痩せ気味。手足に軽い傷がある。


 私は聴診器を装着して全身を診察した。そこに看護師が慌ててやってくる。



「先生、血糖値ですが……」



 報告を聞いた私は頷いた。



「予想通りね。すぐに20%のブドウ糖をゆっくり注射して。それから、意識状態と血糖値に注意しながら、CTをしてきて」


「CTを、ですか?」


「念のため、ね」


「はい」



 指示出した看護師が駆けだしたところで、他の看護師が報告に来た。



「この子のお母さんが受付を済ませました」


「診察室に入ってもらって」


「分かりました。朝一の予約の患児が待っていますので、手早くお願いします」


「……そんなに予約が詰まってる?」


「早くしないと、ゆずりん先生のお昼休憩がなくなるぐらいには」


「私の名前は柚鈴(ゆり)だから。急いで終わらすわ」



 私は診察室へ移動した。





 私がパソコンでカルテに記録をしていると、母親が診察室に入ってきた。



「あ、あの……」


「壮太君のお母さんですね」



 母親が受付をして、やっとあの子の名前が分かった。二十代後半の女性がおずおずと頷く。よく見れば髪の毛はボサボサで化粧もしていない。どれだけ必死だったのかが分かる。



「は、はい。先ほどは、すみませんでした」


「気が動転していたんですから、仕方ないです。それより、少しお聞きしたいのですが、いいですか?」


「はい」



 母親の表情が何かに怯えたように強張る。



「壮太君は昨日まで普通でしたか?」


「はい。昨日はしっかり遊んで……あ、いつもと違う公園に行って、草むらでバッタを捕まえました。それが楽しかったようで、早く寝ました」


「早く寝た……夜ご飯は食べましたか?」



 母親が逃げるように少しだけ視線を下げた。



「は、はい」


「いつも通り?」


「……はい」



 私は一枚の紙を出した。



「こちらは壮太君の血糖値です。今回の症状は、低血糖が原因です」


「てい……けっとう?」


「はい。血液の中にある糖が少なくなり、最悪の場合は意識消失して、脳に障害が出ることがあります」


「しょうがいっ!?」


「幸い、壮太君はすぐに処置をしましたので、今のところ明らかな異常はありません」


「そうですか」



 母親が初めて安堵の顔になった。けど、安心するのは、まだ早い。



「ですが、低血糖になった原因を探さないといけません。夕食を食べず、十六時間以上の空腹が続いた場合は、低血糖になることがあります。十六時間も空いてなくても、低血糖症状が出ることがありますが。ただ、壮太君の場合は夕食を普通に食べたので、他の原因を探さなければいけません」


「え……」


「子どもが低血糖になる原因の病気として、血糖上昇機構の遺伝的な欠損や未熟性、また先天性にインスリン分泌が過剰になる先天性高インスリン血症があります。他にも、血糖上昇機構の遺伝的な欠損、先天代謝異常症なども考えられます。ですので、そのような病気がないか調べます」


「え……あ、あの……」


「ですので、しばらく通院してください。あと、今回のような低血糖症状に注意するように」


「は、はぁ……」



 母親が呆然となる。突然の話についていけないのだろう。



「なにか質問がありますか?」


「あ、あの、検査は何をするのですか?」


「採血と、場合によってはMRI検査ですね。MRIは動いたら撮影できないので、薬で眠らせて検査をするようになります」



 母親の顔が青ざめる。



「そこまでして、検査をしないといけないのですか!?」


「それは病気によります。低血糖になった原因が病的なものなら、今後も起きる可能性があります。なにが原因か。そこを知らなければ、対処が難しい場合もありますから」



 そこに子どもの泣き声が響いた。



「ママ! ママァ!」


「壮太!?」



 点滴に繋がれた壮太を抱いた看護師が診察室に入る。



「血糖値が上がったところで、元気になりまして」


「ママ!」



 壮太が看護師の腕から身を乗り出す。目からボロボロと涙をこぼしながら、両手はしっかりと母親を求めている。

 母親は両手を広げて迎えいれると、そのまま愛おしそうに、しっかりと抱きしめた。


 我が子の無事を確認した母親がホッと息を吐く。



「壮太……よかった」


「CTを撮っている途中から暴れて大変でした」



 看護師が苦笑いをこぼした。その疲れ切った様子から、大変どころの騒ぎではなかったのだと想像できる。


 母親に抱かれて安心したのか、壮太が文句を言い出した。



「ここヤダ! 帰る!」


「もうちょっと待って」


「ヤダァー」


「いい子にしてたら、お店に行くよ? どうする?」


「いい子する!」



 壮太と母親が笑い合う、ほのぼのとした雰囲気。この空気を壊すのは忍びないけど……


 私はもう一度、母親に確認した。



「壮太君は昨日の夜、ちゃんとご飯は食べましたか?」



 母親の表情が固まる。一瞬で空気が重苦しくなった。よく見れば、母親の手が微かに震えている。


 その気配を感じた壮太が首を傾げた。



「ママ?」



 母親が俯き、絞り出すように声を出す。



「あ、あの……実は、食べていません。食べる前に寝てしまって……」



 予想通りの答えに私は肩を落とした。



「どうして最初は食べた、と言ったんですか?」



 母親がギュッと壮太を抱きしめる。まるで、壮太を守るかのように。ナニかに奪われないよう、離さないように。



「……虐待してるって、疑われるのが怖くて」



 思わぬ言葉に私は目を丸くした。



「……え?」



 私の声に母親がますます小さくなる。



「泣き声がしたり、叱っている声がしたら、あそこは虐待しているんじゃないかって、近所の人から言われそうで……」



 周りの目に必要以上に過敏になり、怯える日々。近所との関係が希薄な現代の弊害でもあるが……



「大丈夫ですよ」


「え?」


「見たら分かります」



 母親が恐る恐る顔を上げた。



「壮太君はお母さんが大好きで。大好きだから、我儘を言って困らせる。当然、その全てには答えられないし、時には叱る必要もあります。でも、それは必要なことで、虐待ではありません」


「でも、周りからは……」


「もし虐待を疑われたら、私に連絡してください。私が診察をして、ちゃんと証言しますから」


「いいんですか?」


「良いですよ。そのための医者です」


「そ、そうですか……あ、あの、私は、ちゃんと育児が出来ているんでしょうか?」



 シンプルだけど、難しい問題。でも……



「答えは、そこにありますよ」



 私の視線の先には笑顔の壮太。母親に抱かれ、満足している。



「生きて育っている。それだけで、十分です」



 私の答えに母親が慌てる。



「で、でも、この子は標準より小さくて……ご飯も好きなものしか食べなかったり、ムラがあったりして……」


「確かに三歳にしては、小さいです。ですが、母子手帳の成長曲線を見る限り、順調に成長していますから、大丈夫ですよ。さきほどのCTでも、異常はなさそうでした」


「けど、手作りの料理じゃないから食べないんだ、とか。しっかり遊ばせないから大きくならない、とか言われて……」


「そこまで気にすることはないです。むしろ、それをするためにお母さんが無理をして倒れたら? 子どもは、どうなります?」


「……私?」



 呟くような声とともに目が丸くなった。子どもに意識が向きすぎて、自分のことは二の次になる。育児中の親には、よくあること。



「お母さんが元気だからこそ、子どもも元気でいられるんです。お母さんが元気で、子どもが育っていたら、それでいいんです。いろいろ言ってくる人がいますが、その人は壮太君を育てていますか? お母さん以上に、そばにいますか?」


「い、いないです」


「なら、そんな人の言うことなんて、聞かなくていいですよ。お母さんに有益な情報ならいいですけど、そうじゃないなら流しましょう」


「いいんですか?」


「良いですよ。お母さんは、ずっと頑張っているんですから。それは、壮太君を見れば分かります」


「……ありがとうございます」



 母親が目を閉じて、壮太を強く抱きしめた。



※※



 二人が診察室から出ると、看護師がそっと訊ねてきた。



「本当に虐待はなかったんですか? 手足に傷がありましたが……」


「あれは葉っぱで切った傷よ。昨日、公園の草むらで遊んだって母親が話したでしょ? 最初に全身の診察をした時、他に怪我や痣はなかったし、CTにもそんな所見はなかったわ」


「それなら、どうしてあんなに怯えていたのでしょう?」


「子どもが標準より小さいと、不安になる親は多いわ。壮太君を二歳だと勘違いするぐらい小さかったから。初めての育児で手探り状態だし、周りに相談できる人がいないと、余計なことまで不安になるの。それより、予約の患児の診察を始めるわよ。早くしないと、昼ご飯を食べる時間がなくなるわ」



 こうして私はいつもの診察に戻った。



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