女医ですが、年下大学生に告白しました
どこの病院でも手術室の構造は似ている。使う器材もほとんど同じ。そして、開腹手術をするのは初めてではない。
でも、目の前にいるのが黒鷺だと思うと、いつもと違う緊張感がある。
私が手術を手伝う許可はミーアから得た。
手術台には麻酔がかかり、腹部以外を布で隠した黒鷺。
狭い手術室に心拍の音と、呼吸器の音が反響する。この音がしている間は、大丈夫。ちゃんと生きている。
あとは、これから次第。
気合を入れた私の前に、手術衣を着た堤が立つ。
「CT上では、明らかな内出血や、臓器の損傷はなかった。だが、鉄板が刺さっている角度が悪く、その部分だけは詳細が不明だ。大きな血管や神経、小腸を傷つけている可能性もある。そうなると、盛大に開腹をして処置をする必要がでてくる」
「えぇ」
「まずは、刺さっている鉄板にそってメスを入れ、傷を広げて様子をみる。問題がなさそうなら、そのまま引き抜くが、場合によっては大手術になるぞ」
「小児科でも開腹手術はするから、手順は大丈夫よ」
私の落ち着いた声に堤がマスクの下で笑う。
「よし。じゃあ、始めるぞ」
「お願いします」
私は黒鷺に刺さっている鉄板を掴んだ。堤が皮膚にメスを入れる。
処置によって鉄板が動かないように、これ以上刺さらないように、しっかりと保持する。
そこに堤が指示を出した。
「筋鈎」
私は空いている手で小さな鍬の形をした器材を持った。そのまま傷の端に引っ掛けて視野を広げる。
堤が電気メスで皮下組織を切断していく。少しずつ傷が広がり、鉄板を支えている手に重さがかかる。
筋肉を切断し、腹の内部が見えた。突き刺さった鉄板の全体像が現れる。
鉄板がグラつき、慌てて支えた。
「動かすなよ。鉄板の先に血管があったら大出血だからな」
「分かってるわ」
堤が慎重に鉄板の先を確認していく。
「筋鈎。もう少し上げて、中に明かりが入るようにしろ」
「はい」
私は筋鈎の位置を変え、中がよく見えるように傷を広げた。
何かを見つけた堤の細い目が大きくなる。
「これは……まさに紙一重だな」
「どうしたの?」
「ギリッギリだ。腹膜で鉄板が止まっている。だが、先端は小腸の隙間に食い込んでいるからな。下手に動かしたら、腹膜を突き破って、小腸まで傷つけるぞ」
その図が頭に浮かぶ。
動かせないのは、鉄板だけではない。筋鈎を持っている手も動かせない。もし筋鈎を動かして腹膜を引っ張れば、それだけで鉄板が腹膜を突き破る。
「絶対に動かさないわ」
「あぁ。そのままでいろよ」
堤が慎重に鉄板に触れた。しっかりと掴み、手に力を入れていることが伝わる。
「抜くぞ」
ゴツイ手が繰り出す繊細な動きに合わせ、ゆっくりと、まっすぐ真上に引き抜いていく。
緊張で手が震えかける。
でも、ここで震えるわけにはいかない。ここで下手に動かせば、他の組織を傷つけてしまう。完全に引き抜くまで、余計な動きはできない。
奥歯を噛み、息を止める。刺さっている部分は短いのに、とても長く感じる。
あと少し。もう、少し。
もう…………
「抜けた!」
声とともに抜いた鉄板を台の上に置き、ホッと息を吐く。
そこに容赦ない堤が私を叱咤した。
「おい。まだ、気を抜くには早いぞ。ほら、筋鈎」
「はい」
筋鈎で傷を広げ、腹腔内を確認する。小腸が傷ついている様子もないし、出血もない。腹膜も破れていない。
「よし。消毒して洗浄して縫合だ」
「よかった……」
私はマスクの下で小さく呟いた。でも、まだ安心できない。
すべてが終わって、黒鷺が麻酔から覚めるまで。
それまでは、まだ……
※
モニター音が響くICU。手術が終わり、黒鷺がベッドで眠っている。口には酸素マスク、胸にはモニター、腕からは点滴。
何人も手術をして、何度も見てきた光景。
いままでと同じ、はずなのに、なにかが違う。胸が締めつけられる。
「見慣れた光景なのに……なにが違うんだろう」
私は黒鷺の瞼にかかった髪をそっと横に流した。
そもそも、黒鷺との出会いはペストマスクで。しかも、脅し半分で漫画の監修をさせられて……生意気な子どもだと思った。
でも、漫画に対する姿勢は真摯で、まっすぐで。風邪で熱があっても描こうとして、なかなか言うことを聞かなくて。
それからも、ソファードンで強引に漫画の監修の対価を夕食にしたし。あれには、ドキッとした。
あと、クリスマスには、たくさんのプレゼントをくれた。
正月には新しいビアグラスを一緒に買いにいって、その帰りのバスでは抱きとめられ……いま思い出しても、なんか恥ずかしい。
それから、事件が起きて……その後は、いろいろ迷惑かけた。
私が気をつかわないように、さり気なく私に寄り添ってくれて。眠れない時は側にいてくれて。そのことに私は安心して。
思い出とともに両手で顔を覆う。
「黒鷺君は、ずっと私を支えてくれていた。こんなにも助けてくれていた……」
私の呟きを聞く人は誰もいない。
「なんで、もっと早く気づかなかったんだろう……」
懺悔のような声が機械の音に消される。
「迷惑ばっかりかけてるのに……漫画の監修だけじゃ対価にならない。たくさんのことを私にくれていた……」
あの薄い茶色の目。余裕と自信と、優しさが混じった、あの瞳。
その目で私を見てほしい。そして、声を…………聞きたい。名前を呼んでほしい。
『柚鈴』
記憶の声に胸がキュンと締め付けられる。
(これは不整脈なんかじゃない。たぶん、これは……この気持ちは…………)
私は黒鷺の枕元に祈るように膝をついた。
「……手術は終わったよ」
返事はないと分かっていても、声をかけずにいられない。
「だから、早く起きて。いつもの姿を見せて」
そこで黒鷺の瞼が微かに動いた。薄茶色の瞳がぼんやりと天井を眺める。それから、ゆっくりとこちらを向いた。
(あぁ……いつもの黒鷺君の目だ……)
なんとも言えない感情があふれる。声をかけたいけど、言葉が出ない。胸がいっぱいで目が潤む。
なんとか涙をこらえ、かける言葉を探していると、黒鷺が口を動かした。
「ゆ、りっ……ごほっ、ごほっ。ツッ…」
咳で傷が痛むのか黒鷺が顔を歪める。全身麻酔のため喉に挿管をしていた影響で、息をするだけでも刺激となって咳が出る。
苦しんでいる本人には悪いが、私は声が聞けたことが嬉しい。
「しゃべらないで。挿管の影響で、しばらくは喉が痛いから。あと、今日はこのままICUだけど、明日には一般病棟に移れるわ」
「あ、の……ゆり……ゴホッ」
「無理しないで」
安心させるように黒鷺の髪を撫でた。柔らかく、指に絡む艶やかな黒髪。ずっと触れていたいけど、ここの面会時間は限られている。
私は後ろ髪を引かれながら立ち上がった。
「状態については明日説明するから、今は休んで」
「まっ……て」
その必死な様子に、私は再び床に膝をつき、ベッドに手を置いて耳を傾ける。
「どうしたの?」
「……へん、じ、を」
「返事?」
「こく、はくの、へん、じ」
黒鷺が今にも消えそうな、かすれた声で訴える。だが、私は一気に顔が赤くなった。
「ま、待って。いま、ここで!?」
「ここ、で」
薄茶色の瞳がまっすぐ見つめる。
さっきは自分の気持ちが分からなくて、逃げ出してしまった。けど、今は違う。自分の気持ちに気づいてしまった。
でも、それを正直に伝えていいのか。正直に言って、今の関係が壊れてしまったら……
臆病な気持ちに包まれ、声が出せない。
(……あたたかい?)
視線をずらすと、黒鷺が私の手を握っていた。その温もりに怯えていた私の心がほぐれる。
(……うん。黒鷺君となら、きっと大丈夫。今までの関係を壊してしまうかもしれないけど。黒鷺君となら、新しい関係を作れる)
やっと気づいた、自分の気持ちを伝えないと。
私は覚悟を決めて大きく息を吐いた。
周囲の機械の音がやけに大きく聞こえる。でも、それ以上に胸の音が大きい。ドキドキと早鐘を打つ心臓。でも、それは嫌な感じではない。
私の手に触れている大きな手をギュっと握る。
「……好きよ」
私の返事に、薄茶色の目が見たことないほど大きくなった。
そのまま、信じ難い様子で訊ねる。
「あの……それは、れんあいのすき、ですか?」
私は頭から湯気が上るのを感じた。沸騰したヤカン状態。
でも、黒鷺がそんな質問をしたのは、私の今までの言動が原因でもある。だからこそ、ちゃんと答えないと。
「そ、そうよ。恋愛の好き、よ」
自分で口にしたものの、慣れない言葉にもだえ苦しむ。でも黒鷺は、そんな私の様子を楽しむように笑った。
「な! なによ!」
照れ隠しに出した声は思ったより大きかった。ここはICUで、騒ぐ場所ではない。
慌てる私などお構いなしで、黒鷺が酸素マスクを外す。
「ちょっ、ダメよ! マスクを外したら」
体を近づけてマスクを持つ。そこに黒鷺の手が伸びてきた。
「え?」
後頭部を掴まれ、引き寄せられる。麻酔から覚めたばかりとは思えない力強さ。
固まる私の前に黒鷺の顔が迫り、思わず目を閉じる。
唇に柔らかな感触。
でも、それはすぐに離れて。
私は慌てて体を起こした。視線の先には、イタズラをした子どものような笑顔の黒鷺。
「すぐ、かえる……から、まってて」
「そんっ!? もう、いいから! 大人しく寝ていなさい!」
私は荒い手つきで黒鷺に酸素マスクを装着した。