私のことですが、自分の気持ちが分かりません
「ごちそうさまでした!」
「お粗末様でした」
私は両手を合わせて頭を下げた。黒鷺が鍋を持ってキッチンに下がる。
(さて、お腹もいっぱいになったし、帰ろう。このままだと、いつまでも居ちゃいそう)
いつもより重く感じる腰を上げてコタツから出た私に声がかかる。
「ちょっと、こっちに来てください」
「なに?」
「そこに座ってください」
「え?」
リビングにあるテーブルの椅子を指さされた。
帰ろうとしていた私に薄茶色の瞳が視線だけで圧をかける。
その眼力に負けた私は渋々、椅子に腰を下ろす。すると、目の前に赤いランチョンマットとフォークが置かれた。
クリスマスの時にも、正月の時にもなかったのに。急にオシャレな雰囲気に。
「まだ、なにかあるの?」
「秘密です」
黒鷺は一度キッチンに下がると、ラベルのない瓶と細身のグラスと皿を運んできた。
「どうぞ」
声とともにグラスに淡い琥珀色の液体が注がれる。細身のグラスの中で小さな気泡が浮かび、皿にはカットされたティラミスがのっている。
「これ……」
「ドルチェはあまり作ったことがないので、味の保障はできませんけど。あと、ティラミスに合うデザートワインです。炭酸で割って甘さを調節しました」
「え?」
「傷もほとんど治っているなら、アルコールもいいでしょう? 一応、アルコール度数は低めにしていますが」
「そうじゃなくて、これ……」
私の確かめるような言葉に黒鷺が顔を背けた。
「……バレンタインプレゼントです」
「!?」
驚きで声を詰まらす私。よく見れば黒髪の隙間から覗く耳が赤い。
「で、でも、バレンタインって女性がチョコをあげる行事じゃあ……」
その言葉に黒鷺が無言のままリビングから立ち去る。
「え?」
呆然としていると、すぐに戻って来た。その手にはバラの花束。
「どうぞ」
差し出されたバラから香りが触れる。包み込まれるような良い匂い。
「私に?」
「他に誰がいるんですか?」
ここで私は思いついた。
(テレビ番組でレギュラーを引退する出演者の人が最終日に花束を渡されるやつだ。こんなに感謝されるほどのことは、してないんだけどな。でも、気持ちは嬉しい)
寂しさを隠すように花束を両手で受け取る。
「ありがとう」
落ちた言葉と表情に対して薄茶色の瞳が鋭くなった。
「……わかっていないですよね?」
「なにが?」
黒鷺は大きくため息を吐くと片膝を床につけて、私を下から見上げた。
そのまま薄い唇が何かを言いかけて閉じる。キュッと口の端を結び、躊躇うように頭を軽く振る。その姿は、どこか緊張しているようで。
無言で見守っていると、黒鷺の両手が微かに動いた。ふぅ、とお腹から息を吐き、意を決したように顔を上げる。
迷いなく私を見つめる薄茶色の瞳。その真剣な眼差しに私の顔が映る。戸惑い、不安気に揺れる表情。
そんな私の気持ちを吹き飛ばすように黒鷺がキッパリと断言した。
「僕は柚鈴が好きなんです」
音が消え、時間が止まる。
「……え?」
まったく想像していなかった言葉。むしろ聞き間違いの可能性のほうが高い。
私の考えを否定するように、黒鷺がトドメを刺した。
「おでんの大根とか、ティラミスとか、他もモノじゃなくて、柚鈴のことが好き、ですからね」
言われた言葉を働くことを拒絶している頭に無理やり反芻させる。
(黒鷺が、私のことを……スキ…………すき………………好きぃ!?)
言葉を拒絶していた頭が、ようやく意味を理解する。
その瞬間、全身が沸騰した。
顔が、全身が熱くなる、なんて可愛らしいものじゃない。心臓が耳元でバクバクと不整脈を打ち、雷が落ちたかのように体が痺れる。
(こんな症状、経験したことない!)
震える口をどうにか動かし、私は声を出した。
「わ、わた……わたし、私のことを!?」
「はい。好きです」
しっかり、キッパリと断言される。
「いや、いや、いや、いや。なんで、私!? いや、もっと他に! ほら、世の中には私なんかより、もっと可愛い子がいるし! 黒鷺と同年代の子とか! わざわざ年上で家事もできない、仕事だけの私じゃなくても!」
パニックになって叫ぶ私の両手を黒鷺が握りしめた。
落ち着かせるように黒鷺がゆっくりと私の名前を呼ぶ。
「柚鈴」
低い声に全身が固まる。まるで見えない何かに囚われたように動けない。
「ちゃんと、聞いてほしい」
薄茶色の真剣な瞳に息を呑む。
「僕は柚鈴が好きだ。だから、このまま関係を終わらせたくない」
「で、でも、私は……」
「柚鈴が僕のことを嫌いなら……この関係を終わらせたいなら、それも仕方ない。でも、そうじゃないなら、柚鈴の気持ちを教えてほしい」
真摯な言葉に、私はどう応えたらいいのか。
「わた、し、は……」
私は黒鷺のことを、どう思っているのだろうか。
(家族? 弟? でも、しっくりこない)
眼前には静かに見つめる黒鷺。そして、印象的な薄茶色の瞳。
(私だって、この関係を終わらせたくない。でも、その理由がわからない。どう答えたらいいの?)
重い沈黙。時を刻む秒針の音が耳に響く。
(どう答えたら、今の二人の関係を変えずにいられるのか……)
悩む私に明るい声が降ってきた。
「ただいまぁ!」
反射的に二人の視線がリビングのドアへ向く。前にも、こんなことがあったような気がする。
ドアが開いて、大きなバックパックを背負ったミーアが登場した。
「やっと帰って来れ……あら、あら、あらぁ~お邪魔虫しちゃったかしら?」
ニヤリと笑うミーア。久しぶりだが、その美女ぶりは健在。
私は黒鷺の手を振り払って立ち上がった。
「べ、別に何でもないの! じゃあ、私は帰るね!」
鞄と上着をひったくり、速攻で靴を履いて洋館を出る。
寒い風が体当たりしてきたが、それどころじゃない。とにかく、一度アパートに帰って対策を練らなくては。
走り出そうとしたところで、腕を掴まれた。
「危ない!」
体を後ろに引かれ、スピードを出した車が鼻先をかすめる。あと一歩出ていたら轢かれていた。
「ふぇ!?」
「この通りは車の往来が激しいんですから!」
「ご、ごめん」
腰が抜けそうになったけど、どうにか踏ん張る。
「で、なんでいきなり帰ろうとしたんですか?」
「だ、だって、いきなりあんなこと言われて……なんて返事をしたらいいか分からないし、ミーアは突然帰ってくるし……」
「姉さんは気にしないでください」
「それは無理で……」
二人の会話を遮るようにエンジン音が近づいてくる。
キキィッ――――!!!!!!
突如、急ブレーキの音。顔を上げる前に、次の音が響く。
ガシャァ――――ン!!!!!!!!!
なにかが激しくぶつかる音と空気の振動。
発生源を探そうとして、腕を引っ張られた。そのまま、黒鷺と立ち位置が変わる。
「危なっ」
黒鷺の声が途切れた。
――――――刹那。
目の前にいた黒鷺がいなくなる。次に大きな鉄の塊が私の前を駆け抜けた。疾風が私の髪を持っていく。
「…………ぇ?」
再び大きな音が響き、静寂がおとずれた。
なにが起きたのか、頭が理解することを拒否する。見てはいけない。でも、確認しないといけない。
ゆっくりと顔を動かす。
壁に激突し、フロントが大破した車。その隣で倒れている黒鷺。
「いやぁぁぁぁぁぁあぁぁ!!!!!!!!!!!!」
聞いたことがない大声が私の耳を塞いだ…………