おでんですが、普通にいただきました
リビングに入ると、出汁の香りが私を出迎えた。しかも、この匂いは……
「おでん!」
私の予想通りコタツの上には鍋が。クツクツと美味しい音をたてている。
「僕一人だと食べきれないんですけどねぇ」
薄茶色の目が伺うようにこちらをチラ見した。
(残すなんて勿体ない!)
口から出かけた言葉を飲み込む。そうではない。私はご飯を食べに来たのではない。
くぅ。
私の心情を察してか、お腹がいつもより控えめに鳴る。
そういえば、チョコを買うことで一杯になっていて夕食を買い忘れていた。このまま帰っても、アパートにご飯はない。
現状を考慮し、葛藤した結果。
「仕方ないわね」
私はコートを脱いで荷物を置いた。それからキッチンに移動して、食器棚から器と箸をだしてコタツに並べる。
その間に黒鷺がお茶と湯呑を運ぶ。
(勝手知ったる我が家状態だ……)
コタツに入った私は、おでんを前に我に返った。そこに黒鷺が声をかける。
「なにを食べますか?」
ぐぅー。
食べられると分かったとたん、お腹が盛大に空腹を訴えた。こうなったら開き直るしかない。
「大根! あと、卵に、しらたきも! あ、牛スジもお願い!」
「はい、はい」
軽い返事とともに器に盛られる具材。湯気とともに私の前に、ホカホカのおでんが差し出された。
「寒い日には、おでんよね。いっただっきまーす」
いつものように両手を合わせる。まずは、出汁が染みた大根から。箸で簡単に切れるほど柔らかくなった大根を口に放り込む。
「あちちっ」
口の中が熱いけど、それよりも美味しさが勝つ。ほくほくの大根は噛めば噛むほど溢れる汁と旨味。
次に卵。二つに割れば中から黄身が現れた。表面に味が染み込んだ少し硬めの白身に、ぽろぽろと崩れる黄身。あっさりとした白身に黄身の甘さが引き立つ。
そこに大根を食べれば、大根から染み出る出汁が、パサパサの黄身を潤して、新しい味へと変化させる。
「美味しい」
「よかったです」
満足している私に黒鷺が苦笑する。その顔で私は一気に状況を思い出した。
(そうだ。こうして、いつも通り食べている場合じゃなかった。私には、ここにいる理由がない。今日で、最後なんだから……)
沈む私に驚嘆の声がする。
「ちょっ、どうしたんですか!?」
「へ?」
顔を上げると頬からナニかが落ちた。しかも、それは次々と落ちて、コタツにシミを作る。
「な、なんで?」
箸をおいて頬に触れると濡れていた。
「とりあえず、拭いてください」
「あ、ありがとう」
私は渡されたティッシュで涙を拭いた。
「いきなり、どうしたんですか?」
「……わからない」
「わからないって……」
「だって、本当にわからないんだもん。どうして、涙が出たのか……」
俯くとまたボロボロと零れる。差し出される追加のティッシュ。
「ありがとう」
「辛いことでもあったのですか?」
「辛いこと……」
「職場から異動命令が出た、とか」
私は驚きで身をのりだした。
「どうして、それを知っ、て、ゲホッゴホッ!?」
口の中に残っていた卵が喉を塞ぐ。
「お茶飲んで落ち着いてください」
差し出されたお茶を飲む。息ができるようになったところで、再び訊ねた。
「どうして、知ってるの?」
「蒼井先生から聞きました」
「いつの間に!?」
唖然とする私に黒鷺が詰め寄る。
「だから、出て行こうとしたのですか?」
「え?」
「手紙」
内容的にはお世話になった礼と、迷惑をかけた謝罪と、自分のアパートに帰る、ぐらいの内容。だけど、薄茶色の瞳は怒りの色が見える。
気まずくなった私は黒鷺から視線を逸らした。
「最近はお互いに忙しくて、話をする余裕なんてなかったし……あと、なんか面と向かって言うのが恥ずかしいというか、なんか言い出せなくて」
「今生の別れのような文面で、焦りましたよ」
「そんなつもりはなかったんだけど……」
でも、異動したら会えなくなるから、ある意味間違いではないと思う。
「とにかく。僕はこのまま終わりっていうのは嫌ですから」
「嫌って言っても、漫画の連載が終了したら、私は必要ないじゃない」
おでんの具を取ろうとしていた黒鷺の手が止まる。そのままの姿勢でゆっくりと顔が上がった。
その薄茶色の目がすわってる、というか、睨んでるというか、感情が見えない。
表情がない、とは違う。固まっているというか、鬼気迫るというか。とにかく、空気が怖い。
薄い唇が重く動いた。
「……どういうことです?」
「だ、だって、漫画が終わったら、監修の必要はないでしょ? なら、私がここに来る理由はないでしょ?」
私の言葉に、ワザとらしいため息が落ちる。
「まさか、そう思われていたとは……まあ、薄々気づいていましたけど」
「な、なに?」
黒鷺がおでんの具を自分の器に入れていく。私はその様子を黙って見ていた。
海外育ちなのに箸の持ち方は綺麗で上手。母親は日本人と話していたし、しっかり教育されたのだろう。
サラサラの黒髪だが、光りが当たると茶色に輝く。羨ましい髪質な上に、整った顔立ちで、体格もしっかりしている。
これで彼女がいないのが不思議だった。内面に関しては、出会った頃は最悪だったけど、話してみたら楽しいし、一緒にいたら安心できる。きっと、年下の可愛らしい女の子がピッタリだろう。
無意識にポロリと言葉がこぼれた。
「優良物件だと思うんだけどなぁ……」
「ん? なんの話です?」
普通に返事があったことに安堵して、私は考えていたことをそのまま話した。
「黒鷺君の彼女の話。ミーアみたいな美人系じゃなくて、年下の可愛い系が好みなのかなぁって」
「ぶはぁ!」
いきなり黒鷺が吹き出した。
「どうしたの!?」
「どうしたの? は、こちらの台詞です。ずっとこっちを見ていると思ったら、突然、彼女がどうとか」
「あれ? いけなかった?」
「そういうことは思っていても、本人の前で突然言わないでください!」
何がいけなかったのか分からない私は首を捻った。
(黒鷺の感性は独特だから私には分からないところもあるし、とりあえず謝っておこう。険悪な雰囲気で終わりは嫌だもんね)
私は軽い声で言った。
「ごめん、ごめん。最近、よく眠れていなくて。考えていたことが、そのまま声に出ることがあるの」
「ちゃんと寝てください」
「なんか熟睡できなくて」
睡眠薬という方法もあるけど、まったく眠れないわけではないので飲んでいない。
「不眠になるぐらいなら、異動の話は断ったら、どうですか?」
「……異動の話で眠りが浅くなってるんじゃないと思うんだけど」
異動に関連して仕事も増えているけど、どうにかなる範囲だし、異動先でもどうにかなるとは思っている。
「なら、どうして眠れていないのですか?」
「なんでだろう?」
私は首を傾げながら牛スジを食べた。独特の肉の味に歯ごたえがたまらない。
「他に気になることでも?」
「気になること……うーん」
しらたきを食べながら考える。
目の前では黒鷺ががんもを口に入れた。がんもも美味しいし、味が染み込んだ揚げは最高だ。
次は、がんもと厚揚げを食べよう、と考えていたら、黒鷺が睨んだ。
「別のことを、考えていません?」
「そ、そんなことないわ」
「そうですか?」
苦笑いをする私を黒鷺が怪しむ。
「そう、そう」
「まったく」
大きな手が空になった私の器を取った。
「何を食べます?」
「がんもと厚揚げ! あと、大根とちくわも」
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
器を受け取って再び大根を食べる。大根はどうしてこんなに美味しいのだろうか。いくらでも食べられてしまう。
そんな私に黒鷺が微笑んだ。
「な、なに?」
「好きだなぁ、と思いまして」
「へぇー、好きね。……すき……好き!? あ、大根ね! 大根、好きなのね!」
薄茶色の瞳が一気に呆れたものに変わる。
「なんで大根の話になるんですか?」
「違うの?」
「さっきの彼女の話といい……嫌がらせですか?」
「え!? 私、なんか悪いこと言った!?」
「もういいです。とりあえず、食べてください。あとで話しますから」
「むー」
納得いかなかったけど、言われた通り今はおでんを味わうことにした。