チョコを渡そうとしたのですが、連行されました
自分のアパートに戻ると言えないまま、荷物を引き上げると決めた十四日になってしまった。
黒鷺は医療漫画の最終話のペン入れと、新連載となるファンタジー漫画の準備で忙しいらしい。最近は会話どころか、顔を合わせることもない。
「仕方ないか」
お礼の手紙と合鍵をコタツの上に置く。
「ここなら、気付くよね」
私は少ない荷物を鞄に詰めて、こっそり洋館を出た。前もって荷物を運んでいたので、残っていた物は少ない。
外に出ると、冷たい風が突き刺してきた。今は二月の中旬で、寒さの真っただ中。すれ違う人々も自然と早足だ。
バスで移動した私は、北風から逃げるように自分のアパートに入った。
「……ただいま」
暗い部屋に声が響く。自分の家のはずなのに、どこかよそよそしい。
郵便物とか荷物を取りに時々戻っていたし、一か月ぐらいしか空けてない。それなのに、数年ぐらい放置していたみたい。
「きっと、部屋が寒いせいよ」
言い訳をするように私はエアコンのスイッチを入れた。
少しして部屋は暖かくなった。でも、心はなにも変わらない。
(なんか、物悲しい……って、ダメよ! そんな気持ちじゃ!)
私はブンブンと大きく首を振った。
「買い物! 買い物にいかないと! 気分が落ちているのは、お腹が空いたせい! それに、食料も買わないと!」
私は空元気を出して、街へ出かけた。
※※
「なんか、物足りない……」
巷で噂の美味しい天丼を食べたけど、大きなエビ天は私の心の隙間を埋めることはできなかった。
サクッとした衣に、プリッとした甘味が強いエビ。そこに甘じょっぱいタレと白米が調和して、エビの旨味を引き立てる。申し分ない美味しさだった。
でも、思い出すのは洋館で食べた料理。
黒鷺が作った年越し蕎麦のエビ天のほうが美味しかった。
「……はぁ」
ため息がこぼれる。
洋館を出る時に残した手紙を思い出した。
自分のアパートに帰ることと、世話になった礼を書いてきたが、こういうことは、直接言うべきだったかと今更ながらに悩む。あれだけ迷惑をかけたし。
私はほとんど治った右腕に視線を落とした。
「やっぱり、直接お礼を言わないと失礼だよね」
ふとショーウィンドウに目を向ける。可愛らしくラッピングされたお菓子や小物たちが、ここぞとばかりに輝く。
「そうか。今日はバレンタイン……」
街がキラキラして見えたのは、そのせいだったのか。今の私には無縁の煌めき。でも、これだけ輝いているなら、少しぐらい便乗しても、いいかなと思ってしまう。
私は女の子たちで賑わっているチョコレート店のドアを押し開けた。
※※
「あー、どうしよう……」
黒鷺の家の前を何度も往復する。
置いてきた手紙を読まれた後で、チョコを渡しに戻ってきました、なんて恥ずかしい。なら、ポストにチョコだけ入れて立ち去れば……と、ちゃんと直接言わないと……という気持ちがせめぎ合う。
うろうろ悩むこと一時間。明るかった空が薄暗くなり、星が顔を出し始めた。
「やらずに後悔より、やって後悔!」
私は両手に力を入れ、庭に一歩、足を踏み入れた。ずんずんと歩き、玄関の前に立つ。インターホンを押そうとして、指が震えていることに気づいた。
そういえば、初めてここに来た時も緊張で震えていた。
大学受験や医師試験より緊張して。勇気を振り絞ってインターホンを押したら、出てきたのはペストマスクで。
驚いたり、騒いだり、で血圧が下がって倒れた私を黒鷺が…………
その時のことが脳裏に浮かぶ。ポンっと顔が赤くなった気がした。心臓がバクバクと音をたてる。いや、実際に音がするわけじゃないけど、そんな感じ。
(落ち着け。落ち着け、心臓。今は不整脈をおこしている場合じゃないのよ)
両手を広げ、全身で深呼吸をする。
もう一度気合いを入れ直し、握り拳を作った。
「よし!」
インターホンに手を伸ばすと、家の中からドタバタと大きな足音が響いた。そのままガチャガチャと玄関の鍵が開く。
(誰か出てくる!?)
私は反射的に玄関のドアの影に座り込んだ。
――――――バン!
勢いよくドアが開く。
次に黒鷺が飛び出してきた。その手には私が置いてきた手紙。
(もしかして、今読んだのかな)
ドアの影から覗き見る。
「よりにもよって、今日帰らなくても……」
周囲を見ながら呟く。どうやら、私の存在には気づいていないらしい。
黒鷺が玄関にある棚からヘルメットとバイクの鍵を乱暴に取った。
(もしかして、私の家に行くつもり!? 私、ここにいるのに!?)
ドアを閉めてガチャガチャと鍵をかける。無表情で行動が荒い。こんなに焦っている姿、初めてみたかも。
気配を消して観察していると、バイクが置いてある裏へ足を向けながらスマホを出した。少し操作して耳に当てる。
ちゃっちゃらぁ~、ちゃらら、ちゃんちゃん。
私のカバンから、有名な某ご長寿番組のテーマソングが響く。
(待って! このタイミングで、この曲はひどすぎる! なんで、この着信音を選んだ!? 過去の私!!)
後悔で頭を抱えていると、足音が止まった。踵を返し、振り返る端正な顔。
そこで、玄関の隅に座り込んでいる私と目があった。自分で言うのも何だけど、すんごく間抜けな光景だと思う。
恥ずかしさで穴があったら入りたい状態の私に、黒鷺が無言で近づいてきた。そのことに慌てて立ち上がり、言い訳を並べる。
「いや、あの、チョコをね。あの、渡したら、すぐに帰っ…………え?」
思いっきり抱きしめられた。冷えきった体を包み込む逞しい腕。温もりが沁みこむ。
(って、痛い! 力が強い!)
驚きの次に痛みが襲ってきた。私を抱きしめる力が強すぎる。
思わず苦情を言おうとしたら、黒鷺が息を吐いた。
「……よかった」
心から安堵した声。こんな弱々しい黒鷺の声を聞いたのは初めてかもしれない。
不思議な感覚に浸っていると、怒りに染まった顔が迫って来た。
「で、なんで帰ったんですか?」
顔が整っている分、その迫力が怖い。逃げたくても、背中と腰にまわされた腕は抜け出す隙間もなく密着している。
「だ、だって傷が治ったから」
「まだ完治していないでしょう?」
「でも、日常生活は問題ないし」
黒鷺が頭を横に振った。
「いや、傷のせいにしたらいけないですね。とにかく、家に入ってください」
「ま、待って。私はチョコを渡しに来ただけだから」
その言葉に、薄茶色の目が丸くなる。
「……チョコ? 僕に?」
「お、お世話になったから、そのお礼に」
私はずっと持っていたチョコの箱を押し付けた。
受け取るために黒鷺が私から手を離す。やっと自由になれた。
「じゃ、じゃあ、それだけだから」
急いで回れ右をした私の腕を黒鷺が掴んだ。
「はい、はい。詳しい話は中で聞きます」
「いや、私の要件はこれで終わりだから! 話すことはないから!」
後ろ向きにズルズルと引きずられ、洋館の中へ連行される。
「僕は話があります」
わざわざ僕を強調してきたことに恐怖を感じた。