蒼井との約束ですが、すっかり忘れていました
黒鷺に手を握られた私は、いつの間にか眠っていたらしい。起きた時にはソファーの上で、毛布をかけられていた。体を起こすが、黒鷺の姿がない。
温かい室内なのに、寒い風が抜ける。
(…………寂しい)
無意識に浮かんだ感情に戸惑う。
「え? なんで?」
この洋館には黒鷺もリクもいて、一人じゃないのに。
そこに、リビングのドアが開いた。
「あ、起きましたか。すみませんでした、ソファーを取ってしまって」
グレーのⅤネックシャツに茶色のスリムパンツとスッキリした服装。髭も剃って、いつもの黒鷺……なのに、私は急に恥ずかしくなり、顔を背けた。
(髭が! 何故か髭が浮かんで! 今は無いのに!)
挙動不審な私に対して、黒髪が不思議そうに揺れる。
「どうかしましたか?」
「な、なんでもない。黒鷺君は、疲れてない?」
「僕は寝たので、平気です。それで、あの……」
黒鷺が言いにくそうに口ごもる。こんな姿は珍しい。
思わず私は顔を上げた。そっぽを向いている端正な顔が、なんとなく赤いような?
「どうしたの?」
「帰った時のことを、よく覚えていないのですが……変なことしませんでしたか?」
変なこと……手は握られたけど、それは変なことではない、はず。
「いつも通りだったと思うけど」
「そうですか」
明らかに安堵した顔。なにか気になることがあったか悩む。
私が質問をする前に、黒鷺が訊ねた。
「朝ご飯食べます? 時間的には昼ですけど」
ぐぅ。
私より先に返事をしたお腹を押さえる。
(ちょっとは遠慮しなさいよ! このお腹は! でも、小腹が空いているのは事実。と、いうか黒鷺の顔を見たら、安心してお腹空いたというか…………)
ここで私はあることに気が付いた。
(もしかして、黒鷺君=ご飯になってる!? いや、でも、それはいくらなんでも、失礼よね!?)
葛藤している私に黒鷺がフッと笑う。
この笑顔は、お腹の音に対してだと思いたい。決して黒鷺君=ご飯だと考えていたことを見抜かれたわけではない、はず。
「準備しますね」
言葉を残して何事もなかったかのようにキッチンへ。
「情けない……」
呟きとともに私はソファーに倒れた。
※※
その日、私はリビングでだらだらと過ごした。黒鷺の部屋で読書も考えたけど、何故か恥ずかしくなってやめた。
夕食はいつもより量が少ないけど、ちゃんと完食。熱もないし、傷の痛みも少しずつ軽くなっている。
そして、問題の夜。
一人で客室のベッドに潜った。外からの物音に敏感に体がつい反応する。けど、犯人が捕まったためか、昨日ほどの不安はない。
それに、別の部屋には黒鷺がいる。それだけで、なぜか安心する。眠りは浅くて、熟睡はできなかったけど。
こうして、やってきた月曜日の朝。
「病院まで送りますよ?」
私の腕の傷を心配した黒鷺が、玄関の外まで見送りに出ていた。
髭については記憶の奥深くに封印。これで、普通に会話が出来るようになった。とにかく、これ以上、迷惑をかけたくない。
私は黒鷺を説得した。
「犯人も捕まったし、バスぐらいの移動ならこの傷でも大丈夫だって。それに、黒鷺君は漫画描かないと。時間がないんでしょ? 夜ごはんはコンビニで適当に買ってくるから、私のことは気にしないで」
「ですが、バスは揺れます。なにかの拍子で腕に力を入れたり、傷に衝撃受けたら……」
「そんなに気にしなくても大丈夫だから」
————————キキーッ。
二人の前に真っ赤な車が停まる。
何事!? と、二人の視線が重なったところで、車から蒼井が出てきた。
暗い赤のタートルネックのセーターに、焦げ茶色のストレートパンツ。その上に着ている黒のロングコートが長身を引き立てる。茶色の髪は自然に流しているようで、しっかりセットされている。
相変わらずイケメンで医者には見えない。むしろ、これから雑誌の撮影に行く雰囲気。
「迎えに来たぞ」
「「……あ!」」
黒鷺と顔を見合わす。迎えに来ると言った蒼井のことを、すっかり忘れていた。
その雰囲気を感じ取った蒼井が、怪しみながら露骨に首を傾げる。
「どうした?」
「ごめん、言うの忘れてたんだけど…………犯人、捕まったの」
肩眉をあげた蒼井が淡々と質問をする。
「いつ?」
「昨日」
「どこで?」
「ここで」
「どういうことだ?」
私はどう答えるが悩みながら、横目で黒鷺を見た。
すると、何故かこちらも不機嫌な顔になっている。口を開いたら、ややこしいことになりそうな雰囲気。
私は車に駆け寄ると、蒼井を運転席に押し込んだ。
「遅刻するから、早く行こう! 車の中で説明するから!」
「いや、待て。押すな! こける!」
「じゃあ、いってくるね!」
私は黒鷺に手を振ると、助手席に乗り込んだ。
「……って、なに、この車!?」
二人乗りな上に、座席が低い。慣れない車に悪戦苦闘しつつ、座席に腰を下ろす。
「まったく。出発するぞ」
シートベルトを装着すると、車が発進した。かわった天井に目が止まる。
「不思議な車だね。これ、布?」
天井に触れると、布のように弾んだ。普通、車の天井は鉄板のような固さがあり、弾むことはない。
蒼井が運転しながら説明する。
「布みたいなものだな。その布が開いてオープンカーになる」
「すごいね」
「で、昨日は何があったんだ?」
「んぐっ」
話題をすり替えたつもりだったけど、失敗。私は昨日のことを素直に話した。