手術ですが、成功しました
回復室に規則正しいモニター音が響く。私は静かに息をしている灯里の額を撫でた。
「手術は終わったよ」
頭にはガーゼと包帯が巻かれ、痛々しい。でも、これは灯里が頑張った証。
リクの手術の腕は本物だった。
まるで楽器を演奏しているかのように、滑らかに動き続ける手。それは、一時も目が離せず、時間も忘れるほど。
私は鮮明に記憶に刻まれた手術を思い返した。
※※
メスを持ったリクは、迷いなく頭皮を切った。
次に、電気メスで止血をしながら皮膚を頭蓋骨から剥がす。そして、電動ドリルで頭蓋骨に穴を開け、あっという間に頭蓋骨を外した。
そこでリクが声をかける。
「マイクロスコープ、ください」
「はい」
滅菌カバーを被せた顕微鏡が運ばれる。顕微鏡といっても、理科室にある小さなものではない。人の背と同じぐらいの高さがある、コの字型をしたものだ。
手術台の横から顕微鏡を差し込み、灯里の頭にセットする。
リクが椅子に座ったままレンズを覗き込み、高さと位置を確認する。
「ここでいいですよ」
「はい」
顕微鏡の車輪が固定される。
リクは滅菌カバー越しにダイヤルを調節してピントを合わせた。顕微鏡はテレビと繋がっており、リクの視界と同じものが映し出される。
見学者たちがテレビに集中する。
「ワタシの道具、ください」
「はい」
私はリクが持参した手術道具をワゴンの上に並べた。もちろん、滅菌済み。
「Grazie。ゆずりん先生は、良い仕事をしますね」
「何度も言いますが、柚鈴です」
「ゆずりん、可愛いと思いますよ?」
私はツンと無視をする。譲れないものは譲れない。
リクはそんな私を気にすることなく、自分の手術道具を組み立てた。
事前に手術台に装着していた棒に滅菌した布をかけ、その上に自由に曲がるアームを装着。アームの先にはクリップがある。
「アプローチ、始めます」
リクが細く平たいヘラを脳の隙間に入れる。そこから脳を傷つけないよう慎重に広げ、問題の血管までの道を作る。
ヘラの位置が決まると、先ほど装着したアームの先にあるクリップで挟む。これでヘラの位置を固定。
さらに数ヶ所ヘラを固定し、問題の血管への視野を確保する。
リクが顔を上げて私を見た。
「サポート、お願いしますネ」
「はい」
ここからが重要だ。
リクが考案した治療法は、他にある細い血管を縫い合わせて太くする方法。他の血管が太くなれば、そちらに血液が流れ、神経を刺激している血管は太くならない。
人工血管だと成長とともに交換が必要になり、再手術がいる。
それが、この方法だと体の成長とともに血管も成長するため、再手術は必要ない。
しかし、丁度よい位置に細い血管が二本以上なければ手術はできない。
そして、この細い血管を縫い合わせる技術がいる。細く薄い血管を血管の空洞を潰すことなく隙間なく縫合する。
これが最大の難関。この技術を持つ医師は少ない。
「よい位置に細い血管が二本ありました。あとは縫い合わせるだけです」
「……そうですね」
縫い合わせるだけ、が難しいんだよ! という、見学者たちの心の叫びが聞こえた気がした。
一方のリクはどこ吹く風で、細い血管の周囲の組織を剥離していく。それが終わると、血管に極小のクリップを挟んで血流を止めた。
「では、血管を切ります」
「はい」
リクが先の細いメスで血管を縦に切る。血管に残っていた血が広がり、視界を赤色に染めた。
私は小さなガーゼで血を拭き取ると、注射器で生食を注いだ。それから、再びガーゼで生食を拭き取る。血は消え、切り開かれた血管だけが現れた。
「ブラーヴォ。とても良い動きです。もう一本切りますヨ」
「はい」
さっきと同じ作業を繰り返す。レンズ越しに切り開かれた血管が二本並んだ。
「この病気の特徴は、細い血管が同じ場所に何本も出来てしまうことです。その血管を集めれば、もともと出来るはずだった太い血管ができる。つまり、元通りってことですネ」
「はい」
だから! それが簡単に出来たら、苦労しないんだ! という、見学者たちの無言の叫びを背中に感じる。
「じゃあ、縫いますネ」
「はい」
湾曲した極小の縫い針を付けた持針器をリクに手渡す。
リクは左手に先が細い鑷子を持ち、針を血管に刺していく。これだけ繊細な作業なのに、指先が一切震えていない。
まるで精密機械のような作業。
この縫合次第では再手術が必要になり、場合によっては脳に障害が出るため重要な場面。
リクからいつもの軽い雰囲気が消える。微かな息づかいと、鬼気迫る威圧。重苦しい空気に息もできない。
誰も動けず、物音ひとつたてられない。規則正しい心電図の音だけが響く。
全員の時が止まった空間。
しかし、それはリクの声で解放された。
「次、繋げます」
「はい」
その言葉に私はすぐに動いた。見学している医師たちから息を吐く音がする。
永遠にも感じた時間は意外にも短く、時計の針は五分ほどしか進んでいなかった。
リクが息を吐いて集中する。
「縫いますネ」
再びピリッとした空気が走った。気迫とともに広がる静寂。誰もが呼吸を止めて見守る。
太くした血管の端を血管に縫い付ける作業。位置的にも、この作業のほうが格段に難しい。
三分後、リクが顕微鏡から目を離した。
「一回、血を流しましょう」
「はい」
私に声をかけたリクがレンズを覗き、血流を止めていたクリップを外す。すると、平らになっていた血管に血が流れ、円柱形に膨らんだ。
リクが血管を鑷子でつまんで確認する。
「漏れはなさそうですね。では、仕上げをしましょう」
「はい」
声とともにリクがクリップを戻し、再び血流を止める。血管に残っていた血が流れ出たため、私は急いで生食を流し、血を拭き取った。
リクが血管の先を私の方に向ける。
「ちょっと、この中に水を入れてください」
「えっと、この生食でいいですか?」
「そう。その、セイショクを入れてください」
「はい」
私は注射器で静かに生食を入れた。血管から血が混じった生食が溢れ出す。が、すぐに透明になった。
リクが血管をクリップで止める。
「Grazie。繋げますヨ」
「はい」
リクがクリップの先にある血管の断面を、もう一つの血管と繋げていく。
これが最後の作業だが、一番時間がかかった。位置を確認しながら慎重に針を通す。手に汗を握る状況だが、リクは汗一つかいておらず。むしろ、見学している医師たちの方が汗だくになっている。
こうして、気が付くと十分が経過していた。
血管を繋ぎ終えたリクは、血管に付けていたクリップを外した。血管の中にあった生食が繋がった先の血管に流れる。
リクは鑷子で血管の向きを変え、生食が漏れていないか確認をした。
「大丈夫そうですネ」
リクは全てのクリップを外したが、出血はない。
「では、最後の仕上げです」
液体糊を血管に吹きかける。これで縫合した部分を外からも固め、縫合部からの出血を予防する。
「ふぅ……」
私はマスクの下で力を抜いた。あとは、頭蓋骨を戻して、頭皮を縫合するだけ。
そう、完全に油断していた――――
突如、心電図の警報音が響く。
同時に灯里の体が小刻みに震え、心電図が激しく乱れる。一気に慌ただしくなる手術室。
「痙攣!?」
「まさか、手術が失敗したのか!?」
見学者たちが騒ぐ。
「新しい血管が出来て、血流量は減っている。神経を刺激することはないはずだ」
「なら、なぜ痙攣が?」
「手術中に神経を傷つけた可能性も……」
言葉が耳に刺さる。
(どうすればいいの!? このままだと、灯里ちゃんは……)
狼狽える私に冷静なリクの声がかかる。
「落ち着いて。コレは血管が原因の痙攣ではないですヨ」
その言葉に医師たちがどよめく。
「なら、痙攣の原因は?」
「シバリングですネ」
思わぬ診断に私は目を開いた。
「「シバリング!」」
麻酔科医と私の声が重なる。
麻酔科医も盲点だったらしい。お互いに視線を交わした後、私はリクに質問した。
「シバリングって、体が冷えた時、体温を上げるため筋肉が震える現象ですよね? 今は、そんなに冷えていないと思うのですが。それに通常は、全身麻酔から覚醒する時に、起こりますよね?」
「麻酔が浅くなった時にも起こりますが……この部屋は少し寒いですネ。すぐに体を温めてください」
リクの指示に、看護師が灯里の体にかけていた布のスイッチを入れ、中に温風を流す。布団乾燥機と似たもので、これで全身を温めることができる。
麻酔科医が麻酔量を調節する。
「体温はそんなに下がっていません。麻酔は少し増やしました」
「シバリングが起きた、一番の原因はこっちです。温かいセイショクください」
看護師が温められた生食を壺の中に注ぐ。
「それ、貸してください」
「は、はい」
私は持っていた注射器をリクに渡した。リクが生食の温度を手袋越しに確認する。
「部屋の冷たい空気に、脳が直接触れて、寒いと感じたのでしょう。あと、血を流すのに使ったセイショクが冷たくて、脳が冷えました。それで脳が体が冷えたと勘違いして、シバリングを起こしたと思います。直接、温めます」
そう説明しながら、リクは注射器で温かい生食を吸う。それから、注射器の先を脳の一点に差し込み、ゆっくりと流し入れる。そして生食を拭き取り、道を作っていたヘラを外した。
そこに看護師が頭を下げた。
「すみません。今日は見学者が多いので、いつもより室温が低めに設定してあったそうです」
見学をしていた医師たちが気まずそうな顔になる。
リクはマスクをしていても分かる優しい微笑みを浮かべ、報告をした看護師に指を振った。
「Non、Non。あなたは悪くないですネ。私が早く終わらせていたら、良かったのです。さあ、閉じましょう」
リクがウインクをする。そのさりげなくも、イケオジの魅力を垂れ流した姿に女性陣が見惚れる。
(こんなキザな仕草をする人は、映画やドラマの中だけだと思っていたのに、現実でここまで絵になる人がいるなんて)
呆気にとられている私の前で、リクが外した頭蓋骨を戻し、止めていく。シバリングも収まり、あとは皮膚の縫合だけに。
ここでリクが私に声をかけた。
「あとは皮膚を縫うだけ、ですが」
「はい。もうすぐ……」
手術室の扉が開いた。見学者たちの視線が集まる。
「約束通りきたぞ」
低くも爽やかな声。
マスクと帽子で顔のほとんどが隠れているため、目しか見えない。それでもイケメンと分かる、ハッキリとした目鼻立ち。高身長にバランスがとれた体躯。
私がすかさずリクに紹介した。
「形成外科医の蒼井 蓮です。軽い性格ですが、腕は確かですから」
「軽い性格は余計だぞ、ゆずり先生」
「柚鈴」
私は思いっきり睨んだが蒼井には効かない。
リクが笑顔で蒼井に挨拶をした。
「Ciao。話は聞きました。ワタシは老眼なので、助かりますネ」
「ご謙遜を。先ほどの血管の縫合は素晴らしかったです」
「あれはマイクロスコープのおかげで、見えているだけです。仕上げは若者にお願いします」
リクが手術室の端に下がり、手術衣を脱ぐ。代わりに蒼井が灯里の頭側に立った。
形成外科といえば美容整形のイメージだが、事故の傷や手術の痕を目立たないように縫合する技術もある。
「女の子だから、なるべく傷痕が分からないように、お願いね」
「任せとけ。どうせ髪で隠れるだろうけど、スキンヘッドにしても、ほとんど分からないぐらい綺麗に縫合してやるよ」
蒼井は言動が軽く、外見もオシャレで、白衣を着ていなければ医者には見えない。けど、形成外科医としての腕は一流。同期の中でも抜きん出ている。
蒼井が持針器を持って呟く。
「それに、あの漫画と同じ病名と手術だ。失敗なんてできない」
「え? なに?」
「いや、こっちの話だ」
訝しむ私を置いて、蒼井が縫合を始めた。
頭皮は毛根があるため、他の皮膚より縫い合わせるのが難しい。でも、蒼井はその自身満々な態度通り、軽快な指裁きで綺麗に縫い合わせた。
※※
振り返れば、長く感じた手術は最短時間で終わっていた。
点滴やモニターの管に繋がれた灯里の手を握る。
(あたたかい)
これで突然の痙攣に悩まされることも、苦しむこともなくなる。
「無事に終わって良かった……」
灯里の指が微かに動く。まるで、私の手を握り返しているようで……
目の奥がツンとなる。
(あぁ、もう)
空いている手で目頭を押さえた。まだ、安心するには早い。両親への手術の経過説明、病室への移動。
まだ、まだ、やることはある。気は抜けない。
でも、今だけは少しだけ喜びに浸りたい。灯里の未来が守れたことに……