医療ですが、基本を思い出しました
耳が痛いほどの静寂。恥ずかしいのに、黒鷺から目が離せない。動けない。息をするのも忘れそうになる。
薄い唇がスローモーションのように、ゆっくり開く。息づかいまで分かる動きの中、低い声が私に語り掛ける。
「僕は、柚鈴のことが……「ただいまぁ!」
玄関から明るく大きな声がしたと思ったら、軽い足音とともにリビングのドアが開いた。
「Ciao! 最終の新幹線に乗れたので、帰ってきましたヨ!」
今までの空気が一気に消し飛ぶ。二人そろって呆然とリクの顔を見上げた。
そんな私たちに、何かを察したリクが額に手をあてて天を仰ぐ。
「Oh! 私としたことが、とんだお邪魔虫しましたネ」
「ちちっちちちち、違います!」
私は慌てて立ち上がり、いままでの経緯を説明することになった。
※※
私とリクは向かい合ってテーブルに座った。私の話を聞き終えたリクが静かに頷く。
「そのお父さんは、子どもの死がまだ受け入れられないんでしょうネ」
「だからと言って、柚鈴を刺すのは間違っている」
黒鷺がテーブルにドンとお茶を置いた。力を入れすぎでお茶が飛び散っている。
「そうですネ。それは、そのお父さんの問題です。柚鈴先生に向ける感情ではありません。ですが、こういうことは、どうしてもあります」
「リク医師でもあるのですか?」
「はい。ですから、必死に考えて選んで治療します。本当に他の方法はないカ。もっとベストな方法はないカ。目の前の患者を確実に助けるために。そして、少しでも自分への後悔を減らすために。悔やまないために」
そう言って目元のシワを深くした。
私と同じ気持ち。私だけでは、ないんだ。みんな、同じように悩みながら治療している。
(そう。同じだけど、違う)
私は震えを止めるように両手を握りしめた。
「私は…………怖い、んです」
振り絞るように声を出す。
「また、あの子のように助けられないんじゃないか、治療できないんじゃないか、って……」
あれから、ずっと私を縛りつける感情に負けて目を閉じる。
リクが大きく息を吐いた。
「それで灯里の治療に必死だったのですネ。ですが、いつも必死だと、いつか倒れてしまいます」
「私に家族はいません。倒れても「僕が心配する」
私の言葉をかき消すように黒鷺が言った。顔を上げると、薄茶色の瞳が鋭く、怖いほど睨んでいる。
(………怒ってる?)
思わず体が小さくなったところに、低く威圧的な声が響いた。
「アマネ、黙っていなさい」
こんな声を出せるのかと思うほどの圧力。その言葉に黒鷺が口を閉じた。
リクが私の方をむいて微笑む。
「柚鈴先生は、もう少し頼ることを覚えたほうがいいです」
先程とは違う、穏やかだけど、少しだけ厳しさを含んだ声音。
「たよ……る……」
「はい。医療はチームです。一人では、できません。もっと周りを頼って、使ってください。そして、柚鈴先生の負担を軽くしてください」
それは他の人にも何度か言われた。でも、なかなかできない。どうしても、一人で抱え込んでしまう。
悩む私にリクが言葉を続ける。
「人は頼られると嬉しいものです。でも、頼ってもらえないと悲しくなります」
「そう、なんですか?」
「はい。私は灯里の手術の時、柚鈴先生に助手を頼みました。それは、迷惑でしたカ?」
「い、いいえ。むしろ、あの時は手術の道具の滅菌や、手術の準備を任されて、認められてるんだって思って、嬉しく……」
私はやっと気づいた。
「わかりましたカ?」
「はい。あの時は、自分の技量を認められているんだと、嬉しくなりました。ですが、私は……私はずっと、頼ることは、迷惑をかけることだと思っていました」
「それは、時と場合です。頼り過ぎると重くなることもあります。ですが、まったく頼られないと、信頼されていないようで悲しくなります」
「それは……気づいていませんでした」
「なら、もう少しだけ、周りを見てください。頼ってほしいと思っている人もいますヨ」
リクが隣に立つ黒鷺に視線を向ける。
すると、薄い唇が不満げに動いた。
「Non avrei mai pensato di essere geloso di mio padre.(父さんに嫉妬するなんて思ってもみなかった)」
「Aspettative per il future.(まだまだだな)」
目元にシワをよせた余裕のある渋い笑顔。一方で、悔しげに眉を寄せる黒鷺。
そんな二人を私はジットリと睨んだ。
(イタリア語で会話なんてズルい。こっちは分からないのに)
まるで仲間外れにされた気分。
嫉妬混じりの視線に気づいたのか、リクが軽く笑いながら顔をこちらへ向けた。
「柚鈴先生が治療をするのに、怖いと思うのも、苦しいと思うのも、分かります。ですが、それは必要な気持ちです。その気持ちを、忘れないでください。もし、その気持ちを忘れたら、治療をするだけのMacchina……Non、Non、マシーンになってしまいます」
「機械に?」
「はい。同じ病気でも、同じ人はいません。病気とともに人も診てください。病気だけを診るマシーンになってはいけません」
この気持ちと共に仕事をしていくのは正直、辛い。
でも、リクが言っていることも分かる。私はちゃんと両立していけるのだろうか…………
「柚鈴」
名前を呼ばれると同時に、大きな手で頭を撫でられた。驚いて顔を隣に向けると、そこには黒鷺が。
「一気に全部しようとしなくていいですよ。できることから、少しずつ、やってみてください」
「……え?」
「僕も手伝いますから」
「でも、そんな……」
「僕は頼りないですか?」
私は慌てて頭を横に振った。
「そんなことないわ! むしろ、頼りっぱなしで……」
「なら、もっと頼ってください」
「でも……」
困惑する私に、リクが朗らかに笑う。
「そう、そう。もっとアマネに頼ったらいいです。それに、柚鈴先生が頑張りすぎて倒れたら、悲しいです」
「へ?」
「悲しくて、悲しくて、手術が出来なくなってしまいます」
「えぇ!?」
「なので、自分を大切にしてくださいネ」
脅迫に近い脅しに絶句する。手術を出されたら、断れないに決まってる。
「約束ですヨ」
「……はい」
念押しされて思わず頷いた。
そこにトドメの言葉が刺さる。
「ワタシ、ウソは言いませんから。手術はとても繊細です。その日の感情が影響します。柚鈴先生が倒れたら、心配すぎて手術が出来なくなります」
深いシワの奥にある薄茶色の目が本気の色に染まっている。私の体調が世界的権威に影響を及ぼすなんて、考えたくない。
困惑していると、黒鷺がリクを睨んだ。
「父さん、あまり柚鈴を困らせないように」
「アマネがもっと頼れる男になったら、いいだけですネ」
「これからだ」
その力強い言葉に同意する。
「うん。黒鷺君なら、なれるよ」
そこで黒鷺の顔が火を噴いたように真っ赤になった。
「どうしたの!?」
「い、いえ。なんでもありません!」
そそくさと逃げるようにキッチンへ行く黒鷺。
「私、変なこと言ったかしら?」
首を捻りながらも私は考察した。
(黒鷺君は大学生で、まだまだこれから。就活とかいろいろ忙しくなるけど、英語もイタリア語も話せるから、引く手数多になりそう)
しかも、イケメンで家事まで出来るとなれば。
「うん。将来は有望よね」
一人で納得した私にリクが苦笑いを浮かべていた。