苦い記憶ですが、話せそうです(前編)
私は震えそうになる手に力を入れて訊ねた。
「どう……して、そう思ったの?」
「犯人に対して、怒る様子がなかったので。初めは恐怖が強くて、怒りが出てこないのかも。と、考えたのですが、どうも違うみたいで。それなら犯人を知っているか、心当たりがあるのかな、と」
鋭い推測に何も言えない。
黙っていると、黒鷺が苦しそうに言葉を続けた。
「言いたくないとは思いますが……ですが、知っているなら早く警察に言ったほうがいいです。なにより柚鈴にこれ以上、傷ついてほしくない」
刺されたのは私なのに、薄茶色の瞳が苦悶に染まる。
(だけど、私はなにも言えない。答えられない)
俯いていると、大きな手がそっと私の右腕に触れた。
「犯人との間に、なにがあったのかは分かりません。けど、柚鈴がこんな傷を負うのは間違っているし、怯えて暮らすのは、もっと違うと思います」
「それは……」
「なにがあったのか言いたくないのなら、言わなくていいです。ただ、犯人だけは教えてください」
黒鷺が触れている右腕があたたかい。でも、今はそれが辛い。
私は逃げるように腕を引いて、ソファーに深く腰かけた。
一年前の苦い記憶。
乗り越えた、と思っていた。もう大丈夫、と思っていた。でも、勝手に胸が苦しくなる。体が小刻みに震え出す。記憶に、闇に、支配される。
両腕で自分を抱きしめる。足を折り曲げ、体を小さくする。漏れ出そうになる声を必死にこらえる。
(ダメ。これ以上は……戻れなくなる)
暗く、深い、闇が両手を広げている。ゆっくりと迫ってくる。全身が凍る。息ができない。思考の海に沈んでしまう。
(私が……私が、いなければ…………私さ………………)
――――――――え!?
闇から引き抜くように、抱き寄せられた。ふわりと全身が包まれる。
柔らかな匂い。頬に触れるスエットの生地。少しずつ伝わってくる体温。あたたかい。動ける。息ができる。世界が明るくなる。
目を開けると、黒鷺に抱きしめられていた。
「すみません。泣かせたいわけではないんです。ただ……」
力強い腕。耳元で聞こえる息づかい。肌で感じる、人のぬくもり。
心地よく、安心する。
「……うん。もう……少し、もう少しだけ」
厚い胸板。薄いスウェットから微かに聞こえる心臓の音。生きて、そばにいるって、語りかけてくる。
怯えていた気持ちが小さくなっていく。震えがとまる。心が落ち着く。
いつもの私が戻ってくる。
(――――――――うん、大丈夫)
体を離そうとしたところで、頭上から声がした。
「柚鈴が居て迷惑だから、犯人が早く捕まってほしいから、とかではないですからね? むしろ、ずっとここに居てほしいので」
「でも、私がここに居ても何も出来ないし」
怪我人だし、洗濯も掃除もろくに出来ない。そんな私が、ここにいて有益なことがあると思えない。
しかし、黒鷺はきっぱりと断言した。
「何もしなくていいです」
「けど、黒鷺君にメリットはな……あ、もしかして!」
なにもできない私が、ここにいてもいい理由が浮かぶ。
自信満々に顔を上げると、黒鷺の驚きながらも焦ったような顔をしている。これは、予想が当たっているかもしれない。
私は意気揚々と言った。
「私がここに居たら、いつでも漫画の監修、相談ができるから! それなら、漫画の作業効率が上がるし、時間を気にしなくていいもの!」
黒鷺の顔がみるみる落胆して暗くなる。そして、一言。
「いえ、もういいです」
「そんなに落ち込むこと!? じゃあ、ちゃんと教えてよ」
「気にしないでください。で、犯人は誰ですか?」
まるで、今日の夕食は何にします? 的な軽さでの質問。さっきまでの重い空気はどこにいったのか。
「なんか聞き方が雑になってない!?」
「ソンナコト、アリマセンヨ?」
「なんで片言!?」
ツッコミを入れた私に黒鷺が軽く笑う。安堵したような、ホッとしたような顔。
いつの間にか私の涙は引っ込み、肩の力は抜けていた。恐怖も寒さもない。今なら、きっと大丈夫。
「……うん、ありがとう。ちゃんと、話すね」
「無理はしないでください」
「うん」
私は頷くと、封じていた記憶を語った。
文字数が微妙になったので、後編を夜に投稿します