蒼井ですが、差し入れを買いに行きました
ちょっと前までバチバチと見えない火花が散り、ピリピリした空気に包まれていたリビングが、今はほわほわと花が舞っている。その発生元は蒼井だ。
自分の漫画にお気に入りのキャラとサインを描いてもらってホクホク顔の蒼井。こんなに嬉しそうな顔は見たことがない。
私は少しだけ呆れながら言った。
「蒼井先生の趣味が漫画なんて知らなかったわ」
「別に趣味ってほどじゃない」
「いや、いや。同じ本を四冊もっている時点で、十分趣味でしょ」
「四冊も持っているのは、本当に好きな漫画だけ。それに世間で話題になっている漫画は、読んでいない方が多いし」
「そうなの?」
「自分が好きなものしか読まないからな。でも、漫画が趣味だっていうと、あの作品は読んでて当たり前とか、あれは読んどけとか、押し付けられるんだよ」
なんとなく分かった黙って私は頷いた。相手は善意のつもりなんだろうけど、こちらとしては迷惑なやつ。
蒼井が淡々と話を続ける。
「だから趣味とは言わない。でも、好きな漫画はとことん集めるし、好みが合いそうなヤツには、こっそり布教する」
「医局の机に黒鷺君の漫画があったのは……」
「あれも布教用だ」
「だって。良かったね、猛烈な信者がいて」
声をかけると、拗ねたように顔を逸らしていた。でも、耳が赤くなっているのは隠せておらず、照れ隠しだとわかる。
黒鷺が拗ねたように呟いた。
「教祖になったつもりはありません」
「黒鷺教。いいじゃない。なんかカッコいいし」
「よくないです。仕事してきます」
「黒鷺先生の作業部屋……」
希望と憧れがこもった蒼井の声に、黒鷺の肩がビクリと跳ねて足が止まる。
私は再び作者の代わりに訊ねた。
「見たいの?」
「当然だろ! いや、でも作業部屋を見たら、一気に現実感が……夢は夢のままのほうがいいのか?」
「別に普通の部屋だったわよ。パソコンと本と紙に埋もれてたけど」
私の発言に苦悶していた蒼井が顔を引きつらせる。
「おまっ!? オレの言ったこと聞いてたか!? オレにはオレの理想像があったんだよ! それを、いとも簡単にバラすな!」
「うーん、私には分からない世界なのね。とりあえず、ごめん」
「うぅ……」
蒼井が床に座り込んで俯いた。しかも、体育座りで、背後には暗い影。
「おーい、イケメンが台無しだぞ」
「ほっといてくれ」
完全にいじけている。
どうしよう、と視線を黒鷺に向けると、深い深いため息が返ってきた。
「はぁ……少しだけなら、部屋を見てもいいですよ」
「本当か!?」
満面の笑顔で勢いよく立ち上がる蒼井。
「このまま、ここに居られても困りますから。どうぞ」
こうして急遽、黒鷺部屋ツアーが開催された。
※※
「へぇ~、こうなっているのか」
「私の部屋より医学書が多くない?」
本棚に並ぶ医学書の多さに驚く。
黒鷺の部屋に入ったことはあったけど、こうしてマジマジと見るのは初めてだった。床に山積みになっている本は、絵に関係したものや歴史書が多い。
部屋の主である黒鷺が居心地悪そうにドアの前に立つ。
「これでいいでしょう? 見たら、さっさと出て行ってください」
蒼井が感慨深く部屋を見回した。
「うん、いいもの見させてもらった。お礼と言ってはなんだけど、お昼ご飯を奢ろう。なにが食べたい?」
思わぬ申し出に黒鷺が頭を抱える。
「なにもしなくていいので、帰ってください」
「先生に差し入れをしてみたかったんだよな。漫画の編集者みたいで」
「編集者から差し入れをもらったことはありません」
「ないのか!?」
「ないです。ですから、差し入れは要りません。帰ってください」
黒鷺が蒼井の背中を押して部屋から出す。ついでのように私も追い出された。
さすがに悪ノリしすぎたかなぁ、と考えていると、蒼井が訊ねてきた。
「なあ、黒鷺先生の好きな食べ物って、なんだ?」
「諦めてないの?」
「当然! 推しに直接貢げるチャンスなんだぞ! 貢がないで、どうする!?」
見えない熱気が私を襲う。むしろ、燃えているような、背景に炎の幻影が見える。
私は腕を組んで考えた。地味に傷が痛む。
「そうは言っても、なんでも食べるしなぁ……」
「甘い物とか、辛い物とか、なんかあるだろ?」
「しいて言うなら、美味しいもの?」
「美味しいもの……よし! ちょっと、買ってくる!」
「え?」
蒼井がダッシュで階段を駆け下りる。その気配を感じたのか、黒鷺がそっとドアから顔を出した。
「……帰りましたか?」
「昼ごはん買ってくるって」
「また、来るんですか……」
珍しく落ち込む黒鷺。
「どうする? 断ろうか?」
「……いえ、いいです」
どこか諦めたような言い方に私は思わず笑った。
「どうしました?」
「なんだかんだ言って、黒鷺君って優しいよね」
「そんなことありません」
顔を背けて即座に否定する。
これは恥ずかしがってるだけのヤツだ。でも、これ以上、言ったら拗らせそうだから止めておく。
「じゃあ、私はリビングにいるね」
「僕も……」
「いいよ。黒鷺君は部屋で漫画を描いてて」
「ですが……」
「大丈夫だから」
黒鷺が疑うような視線で睨む。そんな目で見られることをした記憶はないのだけど。
「なにかあったら呼んでくださいよ?」
「はい、はい。黒鷺君はお仕事、お仕事。蒼井先生が来たら声かけるから、それまで頑張ってね」
ドアを無理やり閉めて黒鷺を部屋に閉じ込める。
「なにをしようかなぁ……って、言っても寝てるしかないんだよね」
一階におりて玄関をドアの鍵を閉めると、私はリビングのソファーに寝転んだ。テレビをつけるが、興味のある番組はない。
「暇だなぁ」
独り言がリビングにとける。クリスマスや正月の賑やかさが嘘のような静けさ。部屋は暖かく、毛布を被っているから寒くない、はずなのに。
(なんだろう、この気持ち。なにか物足りない。ハリネズミのぬいぐるみを抱きしめるけど、満たされない)
体を小さくして、毛布を握りしめていると、瞼が重くなってきた。
「少しだけ……」
目を閉じると、そのまま意識が落ちた。