年明けですが、事件が起きました
新年を迎えても、仕事が忙しいのは変わらない。
「さて、今日も頑張りましょうか」
今日は週末の金曜日。外来に来る患児は多いだろうけど、明日は休み。それだけで、いつもよりちょっと頑張れる。
私は気合いを入れて職場に入った。医局にある自分のロッカーに荷物を置いて、白衣に袖を通す。
ちらりと蒼井の机を見ると、黒鷺が描いている漫画の単行本があった。
医学書に紛れているが、見間違いではない。
本屋以外の場所で見たのは初めてだけど、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。私は作者ではないけど、なぜか嬉しい。
「ちゃんと読んでいるのか気になるわ。あと感想も」
蒼井に直接聞くしかないけど、なかなかタイミングがない。
外来へ行きながら聞き出す方法を考えていると、途中で蒼井と会った。
「おはよう、ゆずり先生」
「おはよう。私の名前は柚鈴だからね? 蒼井先生も外来?」
「そう。林先生が風邪でダウンして、代診で入ることになった。年末の当直も代わったし、これで貸しが二つだから、今度まとめて返してもらうつもりだ。何をしてもらおうかなぁ」
「あまり無茶なお願いしないようにね。まだまだ、風邪の患者さんは多いし」
「そうだな。ところで今夜……」
蒼井が何か言ったが、それより私は外来で流れているテレビのニュースに耳を取られた。
『暴走車の事故より一年。現場では、犠牲になった彩香ちゃんに……』
テレビ画面には道路に捧げられた献花が映る。
(あれから、もう一年……)
ぼんやり眺めていると、蒼井に肩を軽く叩かれた。
「おい、どうする?」
「あ、ごめん。なに?」
「今日、仕事終わったら、呑みに行かないか? って聞いたんだ。明日は休みだろ?」
「あー……」
「なんか予定があったか?」
「別に、何もないけど……」
今の私に黒鷺の家に行く以外の予定なんてない。その予定も、漫画の監修は終わったばかりだから、しばらくは入らないだろう。仕事が終わったら家に帰るだけ。
疲れてるから、早く帰って寝たいという気持ちもある。
(でも、漫画のことについて聞くチャンスかも)
顔を上げると返事を待つ蒼井。いつものように茶髪を自然に流し、軽い笑みを浮かべている。
鎖骨がチラ見えする、茶色のざっくりニット。そこに羽織った白衣が色気が駄々漏れで、看護師たちの話題に花が咲きそうな恰好。
私の沈黙を了承ととったのか蒼井が頷く。
「じゃあ、仕事が終わったら医局で待っていてくれ。店はこっちで選んでおくから」
そう言い切った蒼井が総合外来の方へ歩いてく。
「あ……まあ、いっか」
私は一年前のニュースの内容を伝えるアナウンサーの声を背中で聞きながら、小児外来へと移動した。
※※
私は診察室で何回目になるか分からない説明を、マスクをした中学生と母親にした。
「検査の結果、インフルエンザB型でした。熱が出て四十八時間以内なので、ウイルスの増殖を抑制する薬と、解熱剤を処方しますね。熱はあと二日ぐらい続くと思います。解熱剤は高い熱が出て、しんどくて休めない時に飲んでください。ですが、寒気がする時は、できれば解熱剤は飲まずに、寒気がなくなるまで体を温めて様子をみてください。あと、水分はこまめにとって、ご飯は食べられるものを食べてください。他に、なにか気になることが、ありますか?」
「い、いえ。ないです」
口にタコが出来るほど言いなれた説明をしながら、パソコンに薬の処方を入力する。
「薬を飲みきっても高い熱が続くようなら、また来てください。あと、熱が高い間は異常行動を起こす可能性があります。子どもを一人にしないでください」
「わかりました」
「お大事に」
診察室から出て行く二人を見送った後、両手を上げて背筋を伸ばした。
「あと何人かしら?」
壁にある時計に視線を向ける。
「あー、もうお昼かぁ。ご飯は何にしようかな」
呟きながらパソコンに次の患者のカルテを表示する。
「次の方、どう……ぞ?」
声をかけたところで、診察室の外が騒がしいことに気が付いた。
(看護師たちの声? なんか、焦ってるというか、切羽詰まってるというか?)
荒々しい足音。それを制止する必死な声。しかも、徐々に近づいてきている。
「ちょっと、待ってください!」
「順番がありますので!」
「ちょっ! 勝手に入らないでくださ……キャ!」
ガッシャーン!
何かが倒れた音と、人々の叫び声が響く。
「大丈夫!? 誰か! 警備員呼んできて!」
診察室のすぐ外での騒ぎ。私は椅子から立ち上がって声をかけた。
「どうしたの!?」
バン!
乱暴に診察室のドアが開く。
スーツを着た三十代ぐらいの男が一人。頬はこけて、顔色が悪い。それなのに、目だけはしっかりと開き、こちらを見据えている。
止めようとする看護師を無視して診察室に入ってきた。
(この雰囲気はヤバい気がする)
私はすぐに動けるように、少しだけ机から離れた。妙に空気が乾燥して、口が渇く。
かまえる私に対して、男の口がゆっくりと動いた。
「お久しぶりです」
今までの騒ぎが嘘のように落ち着いた声。それが、不気味さに拍車をかける。
私は努めて普通に声をかけた。
「どうかされましたか?」
「……覚えて、いませんか?」
探るような低い声。見たことがある気はする。だけど、最近ではないような。
「えっと……」
必死に記憶を探っていると、男が私に近づきながら右腕を懐に入れた。まるで名刺を出すように取り出した手には……
「……っ」
私は思わず息を呑んだ。
しっかりと握られたサバイバルナイフ。独特の曲線を描き、鈍く輝く。
「覚えて、いないのか。オレは一日だって、忘れたことがないのに……」
小刻みに震える手で、ナイフをキツく握りしめている。この震えは、恐怖や怯えからではない。
怒りだ。
この状況に看護師たちが叫びながら散る。
「警察を呼んで!」
「誰か来て!」
「早く、警備員を!」
みんなが逃げ出す中、私は動かなかった。足がすくんで動けない、というわけではない。
(目的は私。下手に逃げたら、診察室の外にいる患児たちが危険になる)
この時の私は、不思議なほど落ち着いていた。心臓は激しく動き、掌に汗が滲む。震えだしそうな体を必死に抑える。
けど、頭は冷えきっていた。全神経が極度にまで集中している。
怖くないと言ったら嘘だ。でも、私の行動次第で被害が広がる。それなら警備員が来るまで、私に引き付けておくほうがいい。
私は気合いて足に力を入れた。視線は男から離さない。すぐに警備員が来るはずだから、それまで……
覚悟を決めた私に、男が腹の底から怒鳴った。
「おまえが! 彩香を! 奪ったんだ!」
聞き覚えがある名前と声に、私の記憶が甦る。
あれは、一年前。冬晴れの日。
どこにでもある商店街。買い物で賑わう家族、友人と遊ぶ若者。みんな休日を満喫していた。私もその中の一人だった。
――――――――あの悲劇が起きるまで。
あちこちから聞こえる、泣き叫ぶ声。吹き飛ばされ、倒れ、血を流す人々。
破壊されたガードレール。ボコボコになった車。周囲に充満するガソリンの臭い。
その中で、必死に我が子の名前を呼ぶ声。
あの時と同じ、乾いた風が私を突き刺す。
「もしかして、あなたは……」
私の呟きを消すように怒号が響く。
「うわぁぁぁ!!」
男が喚きながら、サバイバルナイフを振り回した。咄嗟に両腕を出して身を守るが、腕に鋭い痛みが走る。このままでは、男がどういう動きをして、いつ刺されるか分からない。
(とにかく、人が少ない裏へ……)
後ずさると、床に散らばったコードに足を引っかけた。
「キャッ!?」
体が後ろに傾き、そのまま尻もちをつく。
「いたっ!?」
お尻の痛みをこらえて、顔を上げる。
その先には両手でしっかりとナイフを持った男。その刃が無慈悲に蛍光灯の光を弾く。
男が振り回していた手を止めて、私の心臓に狙いを定める。
「彩香の仇!」
声とともに大きく振りあがる手。
「キャッ……」
男が頭上から真っ直ぐナイフを振り下ろした――――――
※※※※
その頃、黒鷺は……
「よし、これで終わり」
完成した作り置き料理を冷蔵庫と冷凍庫に収めていた。
これで、しばらくは食事に困らず、漫画を描くことに集中できる。
調理器具を片付けて、洗った手をタオルで拭いていると、リビングのテレビからアナウンサーの声が聞こえた。
臨時ニュースらしく、その内容に耳を傾ける。
『~病院で刃物を持った男が暴れている、という通報があり警察が駆けつけたところ……』
聞き覚えがあり過ぎる病院名に声が出る。
「ゆずりん先生の病院!? いや、まさか……」
嫌な予感に体が固まる。ドクリと音をたてる心臓。暑くないのに、ジワリと嫌な汗が出る。
『女性医師が一人、刺されたということです。他の職員や患者に怪我はなく、警察は……』
刺された医師の名前は公表されず。
「……まさか、な」
女性医師は柚鈴だけではない。それは、わかっている。頭では理解している。けど……
居てもたってもいられなくなった僕は、父の白衣を持って家から飛び出した。
次回は月曜日ですが、文字数が微妙になりましたので
朝と夜で2話投稿します(*- -)(*_ _)ペコリ