年越しですが、蕎麦が食べられました
私が洋館に到着すると、ミーアが玄関まで出迎えてくれた。
「おかえり、お疲れ様!」
「た、ただいま」
誰かに「ただいま」って言うのは、何年ぶりだろう。久しぶりすぎて声がうわずった。
戸惑う私に後から入って来た黒鷺が声をかける。
「先に風呂に入ってください。その間に、蕎麦の準備をしておきますから」
「あ、うん」
両手を合わせたミーアが夢見心地に呟く。
「大きなエビの天ぷらもあるのよ。楽しみ」
「え? 食べてないの?」
「ゆずりんを待ってたの」
「そうなの? 遅くなって、ごめんなさい」
こんな時間まで待たせて、申し訳ない気持ちで一杯になる。
俯く私にミーアが不思議そうに首を捻った。
「どうして謝るの? せっかくなら一緒に食べて年越ししたいって、私が勝手に思っただけよ。ゆずりんは、さっさとお風呂に入って。ほら、ほら!」
「え? きゃっ!?」
ミーアが私の背中を押して風呂場に押し込める。この家族は人の背中を押す家系なんだろうか。
「……まあ、いっか」
私は慣れてしまった広いお風呂に浸かった。全身の疲れがお湯に溶けていく。
「お風呂から出たら、すぐにご飯が食べられるって幸せよね。しかも、年越し蕎麦。そういえば、職場以外で、誰かと新年を迎えるって、何年ぶりだろう……」
そう考えると、体だけじゃなくて心も温かく感じた。
※※
リビングに入ると、カツオ出汁の良い匂いが漂ってきた。忙しさで忘れていた空腹が蘇る。
「良い匂い」
「もう少しで出来るので、湯呑みと箸をコタツに並べてください」
「はーい。あれ? ミーアは?」
「自室でブログを書いてます。世界中を旅して、そのことをブログにアップしているんです」
「へぇ。今度、見てみよう」
私は肩にタオルをかけたままキッチンに入り、食器棚を漁った。黒鷺の指示通り、適当に湯呑みと箸を手に取る。
「これでいい?」
「はい。あと、その急須を持っていってください。お茶が入ってますから、気をつけて」
「分かったわ」
頼まれた物を次々とコタツに運ぶ。そこで、私は手を止めた。
(あれ? これって、家族みたい?)
食器がある場所も知っていたし、当たり前のように動いていた。なんだか、こそばゆいような、恥ずかしいような。でも、嬉しさもあって……
自分の感情に戸惑っていると、リビングのドアが開いて、ミーアがコタツに飛び込んだ。
「あー、あったかい。コタツ最高! パソコンの操作をしていると、指先が冷えるのよね」
「それより、姉さんも手伝って」
「えー、動きたくないー」
ミーアが逃げるようにコタツに潜り込む。
私は湯呑みと箸を並べながら言った。
「いいよ。私がするから、ミーアは温まってて」
「キャー! ゆずりん姉さん優しい! 大好き!」
「いや、ちょっ、すぐに抱きつかないで! そこ! くすぐった、んぅ!」
素早くコタツから出てきたミーアが私の首元に鼻をつける。
「うーん、お風呂上りのいい匂い」
「姉さん、離れる」
キッチンから黒鷺の厳しい声が突き刺さるが、鉄鋼のミーアには効かない。私に抱き着いたまま顔をあげてニヤリと挑発するように笑う。
「うらやましいんでしょぉ~?」
「違う」
「また、またぁ。誤魔化さなくてもいいのよ」
そこで、黒鷺の薄茶色の瞳が半眼になり、表情が凍った。室内なのにブリザードが吹き荒れる幻影が見える。
「……姉さんはエビ天ぷら無しだね」
「いります! いります! すぐに離れます!」
言葉通りミーアが私を放す。私が言うのもなんだけど、ご飯が関わると単純だ。
黒鷺が眉間にシワを寄せたままミーアに命令する。
「じゃあ、父さんを呼んできて」
「えー、放っといても勝手に来るわよ」
「蕎麦が伸びるから」
「分かったわ」
柔らかい茶髪を揺らしながら重い足取りで部屋から出て行く。私はキッチンに戻って指示を仰いだ。
「あとは何をしたらいい?」
「これを運んでください」
ほかほかの湯気がのぼる蕎麦に、青ネギとかまぼこ。それに、大きなエビの天ぷらがのっている。このエビの大きさはテンションがあがる。
慎重に運んでいると、リクがミーアと共にリビングに入ってきた。リクは相変わらずのイケオジだけど、ちょっとお疲れなのか影があるような。
「ゆずりん先生、お疲れ様ですネ。んー、良い匂いです」
「柚鈴です。お疲れ様です」
コタツに入ったリクの前に蕎麦を置いた。が、リクはさりげなく蕎麦を隣へスライドさせる。ミーアが目の前にきた蕎麦に目を輝かせた。
(さりげないレディーファースト。さすが、イケオジ。こういうことができる人になりたい)
感心する私にリクが訊ねた。
「ミーアがゆずりんと呼ぶのは良くて、ワタシが呼ぶのはダメですカ?」
「ダメです」
「どうしても、ですカ?」
イケオジが小首を傾げて見つめてくる。
整った顔立ちに渋みを感じるシワ。世の中の酸いも甘いも経験しているはずなのに、雨の中に捨てられた子犬のような目で見上げてくる。しかも、母性をくすぐるような表情付きで。
世界でも有名で偉い人なのに、その片鱗もない姿は気持ちがグラつく。
「……ダ、ダメです」
なんとか踏みとどまった私にリクが穏やかな笑顔になる。
「柚鈴先生は、名前に強い気持ちがあるんですネ」
「だから、柚鈴って、え?」
「柚鈴先生」
渋い笑みとともに、イケボイスで名前を呼ばれた私は硬直してしまった。そのまま、ボボボと顔が熱くなる。たぶん、真っ赤になっているだろう。
動けなくなった私の意識を戻すように、黒鷺がドン! と蕎麦をコタツに置いた。そのまま、ジロリとリクを睨む。
「父さん」
「どうかしましたカ?」
鋭い睨みをニコニコとリクが笑顔で受け流す。
(これぞ、大人の余裕、貫禄。まだまだ勝てないぞ。頑張れ、青年。なにを頑張るのか、分からないけど)
そんなことを考えていると、黒鷺がもう一方の手に持っていた蕎麦を私の前に置いた。
「すごい。流石、男の子。片手でどんぶりが持てるなんて、手が大きいのね」
手を観察しようとしたら、素早く引っ込められた。
「こ、これぐらい普通です」
そう言いうと黒鷺は逃げるようにキッチンへ行った。揺れる黒髪を眺めながら、ふと迎えに来てもらった時のことを思い出す。
(大きな手だったなぁ。あの大きな手で私の頭を撫で……)
その瞬間、胸が跳ねて不整脈が再発。反射的に胸を押さえる。
「ゆずりん? 食べないの?」
「た、食べる! 食べるわ!」
ミーアの声に、私は慌ててコタツに座った。今は不整脈より蕎麦。
蕎麦が全員の前に並んだところで、黒鷺が声をかける。
「では、全員そろったので」
湯気とともに登る出汁の香りに、四人が手を合わせる。
「「「「いただきまーす」」」」
待ってました、年越し蕎麦。
まずはエビの天ぷらから。衣が汁を吸って、ふにゃっとなる前に一口は食べないと。
サクッ。
予想通りの音と食感。パリパリに揚がった衣に太いエビ。程よい弾力にエビの旨味と甘みが溢れ出す。そこに出汁のカツオがほんのり口の中に広がる。
そして、いよいよ麺を口の中へ。
すすっただけで蕎麦の風味が鼻を抜ける。適度なコシに、いくらでも食べられる喉ごし。
「美味しい! こんなに美味しい蕎麦を食べながら年が越せるって最高ね」
「私も、ゆずりんと年が越せて最高よ」
ミーアが満面の笑みで見つめてくる。いや、そんなに見られると食べにくいんだけど。
「でも、年越しって家族水入らずで過ごすものでしょ? 私がいても、よかったの?」
私の質問にミーアが不思議そうな顔になった。
「大晦日は友達や恋人と過ごすんだけど……もしかして、日本は家族で過ごすの?」
「そう」
「へぇー。それなら、ゆずりんは私たちの家族だから問題ないわよ。ねぇ、天音?」
突然、話を振られた黒鷺は目を丸くして硬直した。しかも、口は半開きで蕎麦が零れ落ちそうなほど。