長身の美女ですが、懐かれました
ガラガラと意識が崩れていく中で、この美女と黒鷺が笑い合う光景が浮かぶ。
(なんか、嫌だ。見たくない)
塗れた髪のままタオルを椅子に投げて、ソファーに置いていた荷物をひったくるように抱える。
「やっぱり帰るわ! お邪魔しました!」
「待って!」
リビングのドアノブの握ると同時に、焦った声が飛びついてくる。あと、背中に温もりと、柔らかい感触が。
(…………ん? やわらかい、感触?)
振り返るまでもなく、豊満な胸が背中に押さえつけられている。というか、背後から羽交い締めにされてる。
どういう状況か理解できない私の頬に柔らかな茶髪が触れる。
「来たばかりなのに帰るって、どういうこ……あ、良い匂い」
首筋に鼻が触れてくすぐったい。
「ヘッ!? いや、ちょっ!? 耳は止め、ダメっ……ひゃっ!?」
美女が背後から私の匂いを嗅いでくる。しかも、フンフンと鼻息が聞こえるほどの勢いで。
「シャンプーと石鹸の匂いだけじゃないわね。なんの匂いかしら?」
「いや、ちょっ……ほんと、待って。そこ、くすぐった……あぅ!」
「あら? ここが弱いところ?」
首から肩にかけて、ゆっくりと指でなぞられた。その手つきが、艶っぽいというか、変な感じがする。
(くすぐったいのとは違う! 全身がぞわぞわする!)
初めての感覚に泣きが入る。
「やぁめぇてぇぇぇー」
逃げたくても逃げられず、もがいている私に呆れたような声が。
「姉さん、なにやってるの?」
目をあけると、料理がのった皿を持った黒鷺がいた。
私の背後にいる長身の美女が平然と答える。
「襲ってるの」
「そういうことと言うのと、するの、やめない?」
「事実だし」
黒鷺と美女が淡々と会話をしている……が、その前に私を解放してほしい。
「助けて!」
私は藁をも掴む思いで黒鷺に手を伸ばした。けど、その手は無視され、持っていた料理をテーブルに並べていく。
(私より、ご飯を選ぶなんて! この恨み、忘れないわよ!)
私が恨みの念を送っていると、黒髪が揺れた。
「姉さん。ゆずりん先生はお仕事でお疲れだから、放してあげたら?」
「えー?」
「ゆずりん先生は、まだ夕食を食べてないんだよ?」
「それは大変!」
あっさりと解放され、思わずよろける。ここで、ようやく黒鷺が私に手を差し出した。恨みつらみを込めて手を掴む。
「もっと早く助けなさい! それと、私の名前は柚鈴よ」
その言葉に薄茶色の目が丸くなり、口を押えて吹き出した。
「それ、こんな状況でも言います?」
「大事なことよ!」
「はい、はい。とりあえず、ご飯をどうぞ」
「いや、私は帰る……」
と言いかけて、テーブルに置かれたビールが目に入った。次に、おつまみにピッタリな料理たち。
グゥ。
お腹は正直で。複雑な気持ちもあるが、空腹の前では全てが胃に落ちる。
私は渋々、椅子に座った。ここで食べないという選択肢は、私には出来ない。
「……いただきます」
「どうぞ」
まずは、ビールを一口。いつもより苦味を強く感じるけど、体はビールを欲している。こうなったら、ヤケ飲みするしかない。
ビールを一気に半分ほど飲んだところで、枝豆に手を伸ばした。
鮮やかな緑で、湯で加減も、塩加減も、絶品。
次は、一人用の土鍋に浮かぶ豆腐をすくって器へ。
ポン酢をつけ、刻み生姜をのせて、頬張る。ポン酢の酸っぱさが疲れた体に染みる。生姜のシャキシャキとした食感と、豆腐のほのかな甘みが口に広がっていく。
「……悔しいけど、美味しい」
「うん、おいしそう」
「うわっ」
美女に真横からのガン見されていた。私は体を引きながらも、食べる手は止めない。だって、美味しいから。
そんな状況に黒鷺が笑う。
「姉さん、そんなに近づいたら食べにくいから、離れてあげて」
「こんなに、おいしそうに食べるのよ? 近くで見ていたいわ」
さっきから、ちょくちょく耳に入っていた単語。気になっていたんだけど……
「おねぇさんって……黒鷺君の?」
私は枝豆をくわえたまま、二人に視線を移す。いわれてみれば、特徴的な薄い茶色の目が似ている。それ以外は……顔立ちとかも、面影がある。
そういえば、バックパッカーで世界を旅してる姉がいる、と話していた。
(つまり、夏に私が粗相をした時に泊まった部屋と服は、この美女の物ってこと!?)
驚く私に、美女が細く長い手を私に差し出した。
「天音の姉の美亜よ。よろしく」
「よ、よろしく……です。ミーア、さん」
握手をすると、そのまま手を引っ張られ抱きしめられた。豊満な胸に顔が埋まる。い、息が……
「ミーアって呼んで。敬語もなし、ね。でないと、離さないから」
「わ、わかった。わかったわ、ミーア」
胸に溺れるという事態を回避した私は体を起こして深呼吸をした。豊満な胸はあんなにも柔らかく、気持ちがいいものだとは知らなかった。
ワインと数種類のチーズがのった皿を持ってきた黒鷺がテーブルの端にそれらを置いた。
「はい。姉さんは、こっち」
「えー? ここに置いてよ」
「いいから、離れる。ゆすりん先生は姉さんより年上なんだから、ちゃんと節度をもって……」
黒鷺の説明をミーアが歓喜の声で遮る。
「年上!? ワァオ! 日本人って若く見えるけど、ここまでなんて! 私より年上で、この可愛さは世界の宝よ!」
「世界? 宝? へ? いや、待って。私より年下なの?」
この迫力満点の美女が年下とは信じられない。
「姉さんは僕の三歳年上です」
「あ、年下だわ」
黒鷺の正確な年齢は知らないけど、大学生の年齢から三年足しても私の年齢には届かない。
「Bravo! 素晴らしいわ! これが私より年上なんて!」
抱き着いてきたミーアが確認するように私の全身を触る。
「か、顔は触らないで。化粧水が……あ、ちょっ、胸もダメ!」
「姉さん!」
ついに黒鷺が強制的にミーアを移動させた。喜び方とテンションがリクにも似ているところがあり、親子だと納得する。
私がビールを飲んで一息ついていると、ミーアが不満気に頬を膨らませた。
「可愛いは正義なのよ! 正義の邪魔をしたら、あとが怖いんだからね!」
「じゃあ、明日の姉さんのクリスマスケーキは無しで」
「前言撤回。正義は明日のクリスマスケーキよ」
「そんなにクリスマスケーキが大事なの?」
首を傾げていると黒鷺が肩をすくめて説明をした。
「姉さんは生クリームにイチゴがのったクリスマスケーキが大好物なんです」
「生クリームにイチゴって、ショートケーキと同じじゃない?」
私の質問にミーアが力強く答える。
「そう! あの、ふわっふわっなスポンジにふわっふわっな生クリーム! そこに甘酸っぱいイチゴ! ショートケーキこそ至高の宝!」
宝のレベルはそこまで高くないらしい。
私の生ぬるい視線に気づいたのか、黒鷺が補足説明をする。
「ショートケーキは海外にはないんですよ。だから、姉さんは毎年、クリスマスケーキを食べるために日本に来るんです」
「ショートケーキって海外にないの? 意外だわ。でも、ショートケーキは年中売ってるでしょう? どうして、わざわざクリスマスに?」
「それは、明日になれば分かります」
「……そう」
ちょっと気になるけど、これ以上自分から踏み込んではいけない気がして止めた。君子危うきに近づかず。
ミーアを覗き見すると、思考は明日のケーキに移ったらしく、ニコニコとワインを飲んでいる。
「あ、姉さん。今日は父さんの部屋で寝てくれる?」
「ん? なんで?」
「客室の準備が出来てないから、ゆずりん先生には姉さんの部屋で寝てもらうと思って」
「ぶほぉ!?」
私は飲んでいたビールを吹き出しかけた。
「わ、わざわざ部屋を代わってもらうのは悪いわ! 私はそこのソファーでいいから!」
慌てる私にミーアがグラスの中のワインを揺らしながら提案する。
「別に一緒に寝たらいいじゃない。ん、待ってよ。一緒に寝て私の匂いが混じるより、ゆずりん一人の匂いがついたほうがいいわね」
ブツブツと呟いていたミーアが頷く。
「うん、いいわよ。ゆずりんは私の部屋を使って」
「ウインク付きの良い笑顔で、親指を立てて言われても嫌な予感しかしないんですけど!?」
私の叫びを無視した黒鷺がミーアに同意する。
「じゃあ、それで」
「それで、じゃない!」
ツッコミが追いつかない。私はリビングを見回しながら訊ねた。
「それに、リク医師は?」
「父さんは明日の夕方に帰ってきます」
「だから、私のベッドを、しっかり使ってね。ゆずりん」
ウインクとともに、見えないハートマークが飛んできた。断れない雰囲気と圧。
「え、えぇ……」
名前を訂正する気力もなくなった私は枝豆を口に入れた。
※※
翌日。
私は午前中からカフェにいた。大通りにあるオープンカフェでカフェオレを飲む。目の前には、柔らかな茶髪をなびかせた、とびきりの美女。
場所が場所だけに、通り過ぎる人から注目を浴びる。
私は顔をカップに向けたまま、前の席に座るミーアを覗き見た。
茶色の髪を背中に流し、長い睫毛を伏せて珈琲に口をつけている。
ダウンジャケットにジーパンというシンプルな服装だが、優雅に長い足を組んでいる姿はモデルにしか見えない。
私の視線に気が付いたのか、ミーアが顔をあげた。
「日本の珈琲も、まあまあね。値段が高いけど」
「そうなの?」
「チップがないことを考えても、こういうカフェで飲むには、ちょっとお高めね」
「そう」
視線をカップへ戻した私にミーアが満足そうに笑う。
「やっぱり、その化粧の方がいいわ」
「そ、そう?」
「うん。似合ってるし、可愛い」
褒められて嬉しいけど、こうなった経緯を考えると、複雑な心境になる。
今朝は少し寝坊したけど、いつも通り化粧をしてからリビングに入った。
すると、なぜかミーアの顔が強張り、突然「買い物に行こう!」と半ば無理やり連行され……しかも、行きついた先は、化粧品店で。
そこで私は化粧を落とされ、ミーアと店員から化粧の仕方を指導された。
ファンデを五点に置いて、内側から外側に伸ばしていくなんて、学校で習ってない。というか、誰も教えてくれなかった。
そのあとは、眉の書き方、口紅の塗り方、色の選び方などなどの指導が……しかも、使った化粧品はもれなくミーアが購入。
そして、それら全てを「クリスマスプレゼント」と、言われて手渡された。
こうして朝から連行され、化粧を施された私は、休憩ついでにオープンカフェでカフェオレを飲んでいた。
「でも、化粧がいつもと違うせいか、なんか落ち着かないわ」
「そのうち慣れるわよ。ねぇ、天音?」
「え!?」
驚いて振り返ると、そこには口元を押さえて顔を背けている黒鷺の姿があった。