論文ですが、脅されました
私は自分の下にいる青年を凝視した。
顔は文句なしのイケメン。
服はグレーのVネックカットソーに、立派なふくらはぎがチラ見えする、黒のドロップドパンツ。シンプルでカッコいい服装。
しかも、適度に鍛えられた筋肉まである。うん、これは女の子にモテる。
ちなみにペストマスクは、青年の頭の上に落ちていた。
(こんなに見た目がいいのに、どうしてペストマスクで顔を隠して……?)
特徴的な薄茶色の瞳と目が合う。そこで、形のよい薄い唇の口角が意地悪そうにニヤリとあがる。
「おねぇーさん。イタイケな大学生を押し倒すのは、良くないと思うけど?」
「ふぇ!? お、押し倒っ!?」
一瞬で顔が沸騰する。
(まったくもって、そのような気はなかったのですが!)
慌てて飛び退くと、青年が面白そうに目を細めた。遊ばれているようで気分が悪い。
無言で睨みつけるが、青年は気にした様子なく、ドアを大きくあけて私を招き入れた。
(そういえば、倒れた時も庇ってくれたし、実は優しい?)
勧められたまま玄関に座って下から青年の顔を覗く。すると、逃げるようにプイッと顔を背けられた。
「また、倒れたら困りますから。で、漫画家の黒鷺に、どんな話があるのですか?」
「あなた、黒鷺先生の知り合い?」
「身内です」
作者がこんなに若いわけないものね。とにかく作者に会って、現状を聞いてもらって、アドバイスをもらわないと。
私は素直に目的を話した。
「私は黒鷺先生が描かれている、漫画の病気の治療法について、話が聞きたくて来たの」
「どうして?」
「私の患者が同じ病気で、治療法がなくて困っているから」
「間さんから聞いた通りか。ちょっと、待っててください」
青年が廊下の奥へ行き、数枚の紙を手にして戻ってきた。
どうぞ、と渡されたのは、日本語訳が書かれた英語論文。冒頭を読み、息が詰まる。
「これ、いつ、どこで発表されたの!?」
「一昨日かな。治療の参考になると思います。これで、あなたの問題は解消された。はい、さようなら」
青年が私の背中を押して、玄関から追い出そうとする。
新たな疑問が出てきた私は慌てて声をあげた。
「待って! 一昨日の発表だと、おかしいわ! これを読んで漫画にするには、日数が足りない!」
「そこは企業秘密です」
「なら! 直接、黒鷺先生と話をさせて!」
青年が手を下げて、ため息を吐く。
「厚かましいって言われません?」
「厚かましくてもいいの! 必要なことなんだから!」
「ふーん」
青年は少し考えた後、私の全身を見た。
すべてを見透かすような薄茶色の瞳。若いのにしっかりとしていて、情熱のような炎が見え隠れする。
値踏みをするような視線に怯みそうになったが、どうにか踏ん張って睨み返す。灯里ちゃんのためにも、こんなところで負けていられない。
気合いを入れた私に、青年がフッと意味ありげに目を細めた。
「じゃあ、ちょっと話をしましょうか」
「だから、黒鷺先生と……」
「黒鷺雨音。僕が作者ですよ」
「え?」
この性悪青年が!?
世界が揺れた気がしたが、すぐに立て直して反論する。
「だっ、だって、若過ぎでしょう? さっきも大学生って。なんで大学生が、あの病気をこんなに詳しく知っているの!?」
「そうは言っても、僕が作者であることは事実ですから。不満なら、お帰りいただいても、いいんですよ?」
黒鷺がふふん、と口角を上げた。単なる挑発だと分かるが、腹は立つもので。
グゥゥゥゥ……
私は前触れなく鳴った自分のお腹を押さえた。ずっとバタバタしていて、朝からまともに食べていない。
カァァと顔が熱くなるのを感じていると噴き出すような声がした。顔をあげると黒鷺が口元をおさえている。
恥ずかしいやら、悔しいやら、いろんな感情を抱えたまま私は誤魔化すように叫んだ。
「いいわよ! 納得するまで全部聞いてやるわ!」
「では、どうぞ」
黒鷺が澄ました顔で家の中へと誘導する。
(こんなタイミングで鳴らなくても!)
私は再びお腹が鳴っても聞こえないようにドスドスと足音を荒くして廊下を歩いた。
案内された先は、対面キッチン付きリビング。外観と同じくオシャレな家具が並ぶ。アンティーク調のテーブルと椅子。その奥には大きなソファーとテレビ。
(え? ちょっと、かなり広くない?)
壁には庭が一望できる大きな窓に、白いレースのカーテン。天井からは観葉植物が下がり、生活感がまるでない。
「そこ、適当に座ってください」
「えぇ……」
キョロキョロしながら、アンティーク調の椅子に腰をおろす。
目の前に紅茶が入ったグラスが置かれた。すりガラスに琥珀色の紅茶が映える。木のコースターは透かし彫り。細かいところまでオシャレ。
なんでも実用性重視の私には無縁の小物たち。
「なに? ここはカフェなの?」
「なんですか、その発想」
そう言いながら次に置かれた皿の中身に思わず涎が出かけた。
「やっぱり、カフェでしょ!」
真っ白な皿を彩る、美味しそうに焦げたフレンチトースト。黄色に染まった分厚いトーストに、茶色く焦げたカラメル。ふわりと登る湯気は甘く、私を食べてと誘う…………が、現状を思い出した私はグッと我慢した。
(私は治療法を探しに来たの。食事に来たんじゃないの)
心の中で言い聞かせていると、黒鷺が私と向き合うように椅子に腰をおろした。
フレンチトーストを食べたい衝動を抑えて、紅茶を一口飲む。
「……え?」
口に含んだ瞬間、芳醇な香りが鼻を抜けた。微かな甘みがあるものの、スッキリとした後味。こんなに美味しい紅茶は飲んだことがない。
「カフェでしょ!」
「だから、どうして、そうなるんですか?」
「この紅茶、すごく美味しいもの!」
率直な感想に黒鷺は目を丸くした後、少しだけ顔を背けた。表情は見えないけど、口元が緩んでいるようで。
「少し良い茶葉を使って淹れただけです」
最初より、少しだけ柔らかくなった声。でも、それより気になったのは。
「このお茶、あなたが淹れたの!?」
「僕以外に誰がいるんですか?」
「そういえば」
周りを見るが他の人の姿はない。生活感がなくてオシャレな部屋が急にもの寂しく映る。
黒鷺が私と対面するように座り直した。
「で、話の内容ですが。僕と取引しません?」
「取引?」
黒鷺が今までの人を食ったような笑みを消す。その真面目な顔につられて、私も姿勢を正した。
「僕は黒鷺雨音というペンネームで、医療漫画を描いています。ですが、僕は海外生まれの海外育ちで、日本文化に疎いところがあります」
「待って、待って、待って。そこまで日本語を流暢に話しといて、それは無理がない?」
「無理とは?」
「海外生まれの海外育ちで、日本文化に疎いってところ」
「母が日本人で、家では両親と日本語で会話をしていました。あとは日本の漫画を読んで勉強しました」
なんか無理がある気もするけど、そこを気にしたら話が進まない。
「分かったわ。納得したことにする。で、取引って?」
「つまり納得していないってことですね。まあ、そこは重要ではないので、いいです。問題は日本文化です」
「日本文化って、畳とか、靴を脱いで生活とか?」
「そういう日常生活もあります。あとは、あの空気を読むとか、察するという文化です」
そこまで言って黒鷺が端正な顔を歪め、握りこぶしを作った。
「ほんっっっっとうに、無駄な文化です。なんで察しないといけないんですか!? 要望があるなら言えばいいのに! むしろ、ちゃんと言え! なんのために口があるんだ!」
「なんか、いろいろあったみたいね」
私は一歩引いて紅茶をすすった。
「勉強をするために大学に入学したんだ! なのに、空気読めとか、察しろとか、超能力者になるために日本に来たんじゃない! 漫画がなかったら、日本の良いところなんて、二つしかないのに!」
「二つ?」
私の問いに黒鷺がスンとした顔になる。
「道路に穴があいていないのと、料理が美味しいところです」
「道路に穴……ゴミが落ちていないとか、電車が時間通りに来る、とかじゃないのね」
今時の若い子の考えなのか、この子の独特のセンスなのか……
「ゴミはないほうがいいですが、道路に穴があいている方が困ります。穴にはまって車のタイヤがパンクしたことが、何度もありますから。電車は時間通りに来たら、遅刻した時の言い訳に、電車が遅れたって、使えないじゃないですか」
「いや、まず遅刻しないようにしなさいよ」
この子のセンスの問題だったわ。
明らかに引いている私に気が付いたのか、黒鷺が軽く咳払いをする。
「とにかく、僕には分からない文化なんです」
「そうみたいね」
軽く頷いていると、特大の爆弾が落ちた。
「で、僕が描いている漫画の監修をしてほしいんです」
空耳かと思った私は反応が遅れた。
「…………はい?」
話が飛びすぎてついていけない私に黒鷺が淡々と説明する。
「病気や治療など、一連の流れは分かります。けど、日本の病院の細かいところや、知らない部分も多いんです」
黒鷺が深くため息を吐く。疲れ……というより、追い詰められているような?
私の探るような視線に気づいたのか、その表情は一瞬で消えた。
軽い笑みを浮かべ、再び余裕の雰囲気をまとう。
「今までは、どうにか誤魔化せてきました。ですが、リアリティを追求すると、やはり専門家の監修が必要だ、と編集の間さんにも言われまして。まあ、僕は今のままでもいいんですけどね」
あ、それで漫画を読んだ時、病気については詳しいのに、病院の事情については薄い感じがしたのね。って、ちょっと待って。なんか嫌な予感が……
「もしかして、間さんがここの住所を教えてくれたのは……」
「監修をしてもらえって言われました」
私は頭を抱えた。そんな裏事情があったなんて……
「でも、僕は会って話すのも、監修を依頼するのも嫌だと言ったんですよ? そうしたら、直接断れって押し付けられて。間さんが紹介してきた監修候補の人たちを、僕がことごとく却下してきたからって、ひどいと思いません?」
「ことごとく却下してきたのも、それを直接本人に言うのも、ひどいと思うわ。そもそも、どうして却下してきたの?」
「研究職で現場を知らなかったり、気が合わなかったり……いろいろ、です。大学生だからって、見下した態度をする時点で人として……」
ブツブツと文句を並べていく。あ、これ終わらないやつだ。
私は話を変えるために質問をした。
「ペストマスクで出てきたのは、どうして?」
「あれは試行錯誤の結果です。ペストマスクを被って出たら、みんな帰っていきました。あそこで喰いついてきた変人は、あなたが初めてです」
「あなたに変人って言われたくないわ」
「ですが、あなたは日本人でも空気読めって言わなさそうだし、面白そうなので、話しを聞くことにしました」
「あ、そう」
半分呆れている私に黒鷺が話を戻す。
「で、監修をしてもらえませんか?」
「私、漫画ってあまり読んだことないし、そんな時間もないのよ」
「時間は無理やり作るものです」
「悪いけど、私には監修なんて無理よ」
私が椅子から立ち上がると、黒鷺がニヤリと笑った。
「その論文。二枚目以降は読みました?」
「え?」
あの時は驚きで一枚目しか見ていなかった。
「まさか、白紙とか!?」
「そんなことありませんよ」
慌てて二枚目を見る。そこにはちゃんと論文が印刷されていた、が……
「日本語訳が、ない……」
一枚目は英語に日本語訳がついていたから、すぐに読めた。でも、二枚目以降には、それがない。
この英語論文を自分で翻訳して読むには時間がかかりそう……そもそも翻訳する時間が……
絶望でテーブルに伏せる。すると、黒鷺が足を組んで悠然と数枚の紙を取り出した。
「ここに日本語訳がついた論文もあるんですけど」
「え!?」
私が飛びつく勢いで顔を上げると、そこにはイケメンの笑顔が。
「監修、してくれますよね?」
確信を得た有無を言わさぬ声音。
固まっている私に次の爆弾が落ちた。
「あ、フレンチトーストのおかわりもありますよ」
ずっと漂っている甘い匂い。香りだけで分かる。食べたら絶対、美味しいヤツ。私の唾液腺と空腹を刺激して、口の中とお腹が大変なことになっている。
でも、食べたら負けな気がして、ひたすら我慢していた。
グゥゥゥゥ……
私の答えは一つしかなかった。
夜にも投稿しますι(`・-・´)/