女医ですが、ペストマスクと遭遇しました
『子どもの頃、どんな大人になりたかった?』
窓ガラスに映った自分と目が合う。
当直明けで疲れた顔。最低限の化粧。一つに結んだ黒髪。着なれた白衣。
現状に不満はないけど、なにか物足りないような。
冷房が効いた廊下に響く冷めた足音。そこに、明るい看護師たちの声が触れた。
「昨日、彼氏と喧嘩してさぁ。もう、朝から気分最悪」
「喧嘩できる彼氏がいるだけ、いいじゃない。こういう職場だと、まず出会いがないんだから」
「そうだけどさぁ。いたら、いたで面倒なのよ」
(あー、うん。なんとなく分かる)
あくびを噛み殺して、心の中で相づちを打つ。
なんだかんだと理想を押し付けられ、結局は思っていたのと違った。と、切り捨てられる。
そっちが勝手に勘違いしたのに。
ちょっと気分が下がったところで、外来の処置室から呻き声が。今は聞きたくなかった声に、思わず耳をふさぐ。
「今日は帰って寝る。寝るの……」
と自分に言い聞かせつつ、処置室を覗いてしまう。私の悪い癖。
そこには、顔を歪めて点滴をしている患者がいた。ため息をこぼしながら、近くの看護師に声をかける。
「ちょっと、いい? この人は?」
「あ、ゆずりん先生。この患者は、熱中症と脱水疑いで、先ほど救急搬送されてきました」
私はニッコリと微笑みながら、パソコンで患者の採血データを確認する。
典型的な脱水なら、問題はこの点滴。
「私の名前は、白霧柚鈴。ゆりだから。それと、点滴を止めて。新しい点滴の指示を出すわ」
「ですが、ゆずりん先生は小児科……」
「なまえ」
笑顔で黙らせる。その間に、パソコンに新しい点滴の指示を入力っと。
「それ、維持液系の点滴よ。細胞外液系の点滴をしないと、患者は楽にならないから。林先生も、脱水だから点滴すればいいで、適当に指示を出さないでほしいわ。これで、よし。あとは、お願いね」
「は、はい」
「よし、帰ろう」
帰る! 帰って、ベッドで寝る! 今日こそは、足を伸ばして、寝る! もう、何日まともに寝ていない……
儚い希望も、些細な夢も、無情な緊急コールによって壊された。
「愛しのベッドがぁ……」
嘆きながらも、私の手は事務的に携帯のコールボタンを押し、足は病棟の方へむかう。
『白霧先生! 灯里ちゃんが、また痙攣を……』
「痙攣時の指示の薬を投与して。すぐ病室に行くわ」
運悪くエレベーターは最上階。一階に来るまで待つ時間も惜しい。
私は廊下を抜け、階段を駆け上がった。切れる息を整えながら、小児病棟へ。
そこは個室で、十歳の少女が寝ていた。
病室にいた看護師が素早く報告する。
「痙攣は二分ほど。注射をして、すぐに治まりました」
「ありがとう。あとで追加の指示を出すわ」
「はい」
看護師が退室すると私は枕元に腰を下ろして、少女と視線を合わせた。
「灯里ちゃん、痛みとか痺れはない?」
「お薬を注射したら、治ったよ」
「ごめんね、なかなか病気を治せなくて」
顔色も良く、意識もしっかりしている。
安堵して肩まで伸びた灯里の髪を撫でていると、灯里が首を大きく横に振った。
「ううん! 先生は、わたしの話を聞いて、病気を見つけてくれたもん。他の先生は、気のせいとか、嘘だ、とか言って、信じてくれなかったけど、先生は違ったから。だから、先生なら治せるよ!」
「そうね。秋には、もう少し良くなって、遠足に行けるようになろうね」
「遠足!? 行けるの!?」
灯里の目が太陽のように輝く。
小学生にとって遠足は、重要な行事の一つ。できれば参加させてあげたい。
「秋はバス遠足だったよね? 長い時間、動くことがなければ大丈夫だから。学校の先生と相談してみるわ」
「やった! 約束ね!」
「えぇ」
小指を絡めて約束をする。この笑顔を消したくない。なんとかしたい。
指を離すと、灯里がなにか言いたそうに見つめてきた。
「どうしたの?」
「あのね……さっき痙攣が起きたこと、パパとママに言わないで。言ったらお仕事で忙しいのに、心配して病院に来ちゃう」
「言わないわけには、いかないから……痙攣はあったけど、お薬ですぐに良くなったから、心配しないでくださいって伝えるわ」
「うん……」
「灯里ちゃんは優しいね」
頭を撫でたら、避けるように灯里が布団に潜り込んだ。泣くのをこらえるような、微かに震えた声がする。
「だって、わたしが悪いんだもん。こんな病気になったから……だから、我慢しないといけないんだもん」
「そんなことない! 灯里ちゃんは悪くないんだよ。悪いのは病気なんだから」
「でも、私が悪い子だから、病気になったんでしょ?」
「そうじゃないの。灯里ちゃんは何も悪くないのよ」
「じゃあ、どうして……」
私は答えられなかった。
十歳といえば、遊びたい盛り。甘えたい時もある。
そんな子どもが、親に心配をかけないよう、一人で病気と闘っている。病気を自分のせいにして……
それなのに、私はなにをしているのか。治療法も見つけられず、言葉もかけられず……
私は布団の上から灯里を一撫でして立ち上がった。
「……また、来るね」
自分の無力さに打ちひしがれ、逃げるように病室を出る。
足が重い。廊下が長い。消毒の臭いが鼻につく。蝉の声がうるさい。グルグルと思考が嫌な方へ落ちていく。暗く、這いあがれない闇へ……
パァン!
両手で自分の頬を叩いた音と、ジンジンとした痛みが眠気を吹き飛ばす。
「灯里ちゃんだって、頑張っているんだから。落ち込んでいる場合じゃないわ! 精神ケアの指示を出して。今の薬の効きが弱くなっているから、薬の内容も見直して……そういえば佳那ちゃんの、カンファレンスもしないと……あ、それより先に、悠君の病状説明の資料をまとめないと。それと、彩葉ちゃんの新薬の検討会も……あぁ、文献を調べる時間がない! 一日が七十二時間になるか、私が三人に増えないかしら!」
空元気な私の声が空しく響く。
そこで、ふとプレイルームに目が向いた。
床に落ちていた月刊漫画の表紙が視界を掠める。白衣を着た若い医師の絵。その見出しには、頭を悩ましている病名が……
「嘘でしょ!?」
漫画に飛びつき、半信半疑でページをめくる。
「若い医師が奇抜な発想と、その腕で治療をする漫画なのね。……すごい。病気について、丁寧に分かりやすく描いてある」
いつもは漫画を読まないけど、自然と指がページをめくる。先が気になって止められない。
でも……
「病院の設備とか、内部事情について、ぼかしているというか、あっさりしているというか……もう少し細かく描いても……って、ここで次回へ!? 治療法を思いついたところで!? 次! 次は、どこ!?」
プレイルームの本棚を探し回るが、次号はない。もう一度、漫画を手に取って、発売日を確認する。
その日付に、頭をかきむしった。
「昨日!? でも病気についてここまで描ける人なら、治療法も……」
一筋の光明が見えた気がした。漫画を持って医局へ戻り、編集部に電話をする。
「突然、失礼します。私は……」
状況を説明し、漫画の作者と話をさせてくれ、とひたすら懇願した。最初は迷惑がられたが、状況を説明して頼み込んだ。
こうして、特別に作者の住所を教えてもらえた頃には、太陽が真上にきていた。
※※
住宅地の一画。教えられた住所には、庭付きの一軒家があった。
自由に育ったように見えて、計算され切り揃えられた木々。茂った緑の葉に色を添える花々。その奥に建つレンガ造りの洋館。
その風景は、子どもの頃に憧れた、海外のお城のミニチュア版そのもの。
こんな洒落た家に住んでるなんて……もしかして、作者はオシャレでダンディなイケオジかも。そんな人に、私の話を聞いてもらえるか……いや、弱気になってる場合じゃない!
勢いのままドアの横にあるインターホンを強く押すと、意外にも若い声が返ってきた。
「あ、あの、編集者の間さんより紹介していただいた、白霧です」
『はい』
ブツ。
乱暴に通話を切られた……気がする。
手に汗を握り、ドアが開くのを、ひたすら待つ。
大学受験の時も、医師免許の試験の時も、ここまで緊張しなかった。心臓が飛び出そう、という感覚が分かった気がする。
ガチャリと音がしてドアが開いた。
緊張のあまり、相手の顔を見る前に頭を下げる。
「初めまして。白霧と申します。突然の訪問を受け入れていただき、ありがとうございます。実は、どうしても、相談したいことがありまして……」
相手からの反応はない。
「あのぉ……」
恐る恐る顔を上げると、そこにはペストマスクが。しかも、簡易ではなく皮で作られた逸品もの。
「え……?」
驚きで固まった私に、ペストマスクが一言。
『断る!』
……コトワル? 断る!?
頭で反芻しながらも、体は素早く動いていた。
「待って!」
閉まろうとしていたドアに素早く足を突っ込み、手をかける。我ながら、良い動きをした。挟まれた足は痛かったけど。
「話を! 話だけでも……」
手に力をいれて、ドアをこじ開けようとして、目の前が揺れた。膝から力が抜けて立てなくなる。
当直明けの疲労に、極度の緊張と激しく動いたことが重なり、血圧が下がったらしい。目の前が暗くなり、意識が薄れていく。
(ダメ。ここで倒れたら、せっかくの手がかりが……治療法が……)
『おい』
遠くで呼ばれた気がした。倒れかけた体が何かに支えられる。が、そのまま倒れた。
全身に響いた衝撃で意識が戻る。地面に倒れたはずなのに、体の下は柔らかく生暖かい。
目を開けると、声がした。
「いてて……」
声の主は、二十歳ぐらいの青年。
散らばった艶やかな黒髪。長い睫毛に縁取られた、色素が薄い茶色の瞳。少しだけ彫りが深く、どことなく日本人離れした顔立ち。
俗に言うイケメンが私の下にいた。